第124話 恒星間人類社会
NOAHの到着まで、およそ一か月。
人類自治政府の会議室では、壁面いっぱいにNOAH居住区の現在映像が映し出されていた。
既存の人類居住区に隣接して造られた新しい街だった。中高層の集合住宅が道路と緑地を挟んで並び、住宅棟そのものはすでにほぼ完成している。今は無数の作業機械が建物の内外を行き交い、家具の搬入や生活設備の設置、通信系統の接続、共用部分の仕上げを急ピッチで進めていた。
「建物は、ほぼ終わったんだな」
蓮が壁面を見ながら言った。
『はい。現在は住戸内部、医療施設、教育施設、公共設備などの最終整備が中心です』
会議室のスピーカーからイザナミの声が返ってくる。
「一か月あれば間に合う?」
『予期しない大規模な設計変更が発生しなければ問題ありません』
「そういう言い方すると不安になるんだけど」
「余計なことを思いつかなければ大丈夫ですよ」
柳原が横から言った。
「俺が変更の原因みたいに言わないでくださいよ」
「違いましたか?」
蓮は聞こえなかったことにした。
壁面の端には、居住可能人数、電力、水処理、通信、医療対応能力などの数字が並んでいる。これまで人類が造ってきた居住区とは、受け入れる人口の桁が違った。
およそ百万人。
現在この惑星で暮らしている人類とは、比較にならない規模である。
「そういえば、商業施設は?」
蓮が街の配置図を眺めながら尋ねた。
「今のところ、大型のものはありません」
「百万人住むのに?」
「生活するだけなら必要ありませんから」
柳原の言葉に合わせて表示が切り替わった。
住宅棟ごとに設けられた荷物の受け取り設備と、その間を結ぶ無人物流網。各住戸から注文すれば、日用品をはじめ大半の生活物資はデリバリードローンで届けられる。
『入居開始時点から配送網は全面運用可能です』
「店がなくても困らないわけか」
「少なくとも、生活必需品については」
「ショッピングモールくらい造ってもよかったんじゃない?」
「まだ必要かどうか分からないものを、百万人分の住宅より先に造る理由はありません」
「夢がないなあ」
「順番の問題です」
柳原は苦笑した。
「それに、実際に暮らし始めてからでも遅くありません。店を見て回りたい、外で食事をしたい、買い物そのものを楽しみたいという人が増えるなら、その時に造ればいいでしょう」
「NOAHの人たち次第か」
「そういうことです。街は完成したら終わりではありませんから」
蓮はもう一度、画面の中の街を見た。
今はまだ、整然とした新興住宅地に近い。
そこへ人が住み、何かを欲しがり、何かを始めれば、街の形も変わっていく。
◇
壁面の表示が切り替わった。
細長い通路。その両側に、ほとんど同じ広さの小さな個室が延々と並んでいる。衛生設備は共用。食事も共同区画。個室にあるのは、寝台、収納、情報端末程度だった。
かなり以前、NOAH側から提示された地上居住区の基本案である。
「……やっぱり刑務所っぽいな」
「言うと思いました」
柳原がため息をついた。
『NOAH側では、船内標準居住区を地上生活向けに拡張した設計です。建設効率、居住効率、維持管理効率はいずれも高水準です』
「効率がいいのは分かるんだけどさ。地上まで来て、またこれに住まなくてもいいだろ」
「ですから採用しませんでした」
現在建設されている住居の基本的な生活水準は、既存の人類居住区と変わらない。
窓があり、浴室とトイレがあり、簡単な調理設備がある。
ただし、住戸の構成は少し特殊だった。
「一人用が多いんだっけ?」
「基本はそうです。ただ、二人用と少人数用もかなり用意しています」
「家族用?」
「今のNOAHに、私たちが考えるような家族生活はほぼ存在しませんから、そこを前提にはしていません」
NOAHでは人工授精と人工子宮による計画出生が長く続いている。子供は年齢別の育成施設で育てられ、生物学上の親子関係がそのまま生活単位になる社会ではない。
地球時代のように、夫婦と子供が一つの家で暮らす家庭を、到着直後から大量に想定する意味はなかった。
「じゃあ二人用って?」
「一緒に暮らしたい相手がいる人はいるでしょう」
「恋人とか?」
「それもあるでしょうね。本人たちがそう呼ぶかどうかは分かりませんが」
柳原は別の住戸図を開いた。
二つの個室と小さな共用空間を持つもの。寝室を一つにまとめたもの。三人から数人で使えるものもある。
「長く付き合いのある友人でもいい。仕事仲間でもいい。高齢者同士で助け合って暮らしたいという人もいるでしょう」
「互助生活みたいなものか」
「ええ。NOAHでは家族という単位が薄くなっていても、人間関係までなくなったわけではありませんから」
蓮は二人用の住戸を眺めた。
「気になる男女が一緒に住みたい、とかは普通にありそうだな」
「十分あると思います。ただ、それを私たちの側から夫婦だとか家庭だとか決める必要はありません」
「本人たちが決めればいい?」
「そういうことです」
住戸の一部は、将来内部構造を変更できるようになっている。
どんな生活単位が生まれるのか、今の段階では誰にも分からないからだ。
「向こうが要求したわけじゃないんだよな?」
「してません」
「こっちの基準で普通の住宅を造ったと」
「普通に暮らせる場所を用意しただけです」
「NOAH式の方が落ち着く人もいそうだけど」
「その場合は、必要に応じて用意すればいいでしょう」
柳原は旧居住区案を閉じた。
「最初から、それしか選べない街にする必要はありません」
◇
NOAHとの通信は、最初に接触した頃とは比べものにならないほど頻繁になっていた。
初めて交信した時には、電波だけで片道八時間以上を要した。
今はそこまで遠くない。
それでも電話のように話せる距離ではなく、質問や資料をまとめて送信し、返答を待つ形式そのものは変わっていない。
代わりに、交換される情報量は大きく増えた。
地理。気候。医療。教育。交通。住宅。
アルセリアに暮らす各種族。
BABEL。
JANUS。
そして、日常生活。
SHINAR CITYが一般開放されてからは、そこで撮影された映像も大量にNOAHへ送られている。
雷鳴に乗って悲鳴を上げながら笑う人々。GRAVITY ZEROから飛び降りる者。観覧車から夕暮れの街を眺める者。料理を選び、食べ、笑い合う人々。
そこにいるのは人間だけではない。エルフも、ダークエルフも、ゴブリンもいる。
子供たちが走り、大人が追いかける。ベンチに腰掛け、何をするでもなく休んでいる者もいる。
『NOAHでは、EDEN定住前教育の一環として、これらの生活情報を全乗員へ公開しています』
「百万人全員?」
『はい』
「まあ、そうなるよな」
到着して初めて、ここではこう暮らしています、と教えるわけにはいかない。
住む場所なのだ。
どんな世界へ降りるのかは、事前にできる限り知ってもらう必要がある。
「反応は?」
『生活制度に関する照会が増加しています』
壁面にいくつかの質問が表示された。
《居住区域外への移動に事前申請は必要ですか》
《非勤務時間中の行動範囲に制限はありますか》
《現在の職種を継続しない場合、再配置はどのように決定されますか》
《共同食堂以外で食事をする場合、申請は必要ですか》
蓮はしばらく読んだ。
「……全部、許可がいる前提なんだな」
「これまでそういう社会だったんですから」
柳原の声は淡々としていた。
NOAHの人々が自由という概念を知らないわけではない。
二千五百年前の地球社会についての記録は、NOAHにも残っている。自由に職業を選び、住む場所を選び、誰かと家庭を作る社会があったことも知っている。
だが、それは彼らにとって歴史だった。
知識として知っていることと、自分がそう生きることは違う。
表示がさらに下へ送られる。
《SHINAR CITYの娯楽施設はNOAH乗員も利用できますか》
「お」
蓮がそこだけ声を上げた。
「こういうのも来てるじゃん」
『同種の照会は増加傾向にあります』
「映像見て気になったのかな」
『SHINAR CITY関連映像では、飲食施設および遊戯施設の閲覧率が比較的高くなっています』
「ほら」
「なぜあなたが得意そうなんです?」
柳原が呆れた。
◇
「食事については、こちらもすでに準備を始めています」
会議に参加していた管理栄養士が話を引き継いだ。
壁面にNOAHの標準食が表示される。
藻類由来の原料を主体とした流動食。
栄養供給、資源循環、大量生産を優先したものだった。
「到着直後から一般食へ切り替える予定はありません。長期間この食生活を続けていますから、消化器官だけでなく腸内環境や咀嚼習慣も含めて、段階的に慣らす必要があります」
「ラーメンは?」
「いきなりは駄目です」
「即答だな」
「聞くと思いました」
柳原が笑う。
「ただ、すべてを到着後に始める必要もありません」
管理栄養士が資料を進めた。
「NOAH側AIと協議して、すでに船内で少しずつ変えてもらっています。栄養構成は大きく変えず、まず味や香りの幅を増やすところからです」
「向こうの設備でできる?」
「その範囲から始めています」
『すでに試験運用中です』
「反応は?」
『味付けに対する明確な嗜好差が確認されています』
蓮が少し笑った。
「ちゃんと好みあるじゃん」
「当たり前です」
管理栄養士も笑う。
『同一の風味を再度希望する問い合わせも確認されています』
「へえ」
ほんの小さなことだった。
同じ栄養を摂るにしても、昨日の味の方がよかった。
もう一度あれが欲しい。
それだけの話である。
何世代も似たような食事を続けてきたからといって、味覚そのものがなくなったわけではない。
◇
会議資料を眺めていた蓮の目が、あるページで止まった。
「これ何?」
『NOAH側が使用している大規模人口配置モデルです』
「それはタイトルに書いてある。ここの式」
指で一部を拡大した。
数式が並んでいる。
記号の定義を読めば、使われている文字そのものは分かる。だが、途中から何をしているのか理解できなくなった。
「こんなの習った覚えないんだけど」
『NOAH航行中に確立された理論体系が使用されています』
「地球を出た後に作られたやつ?」
『はい』
蓮は数式をしばらく見つめる。
「イザナミは分かる?」
『理解しています』
「もう?」
『NOAH管理AIとの情報交換によって、関連する定義、公理、証明、応用モデルを取得済みです。既存理論との対応付けも完了しています』
「俺にも説明できる?」
『可能です』
「どれくらいかかる?」
『天城蓮の現在の数学的知識を基準とした場合、前提理論から――』
「やっぱいい」
「早いですね」
柳原が笑った。
「嫌な予感がしたんですよ」
『基礎から説明すれば理解可能です』
「だから、そういう問題じゃないって」
蓮は椅子にもたれた。
「でも、こういうの見ると実感するな」
「何がです?」
「未来人なんだよ。あいつら」
蓮たちは眠って時間を飛び越えた。
NOAHの人々は違う。
人が生まれ、育ち、学び、働き、研究し、死んだ。
次の世代がその続きを引き継ぎ、さらにその次へ渡した。
二千五百年以上。
「時間だけなら、百世代分くらい先か」
『自然世代へ単純換算する場合、おおむねその規模です。ただしNOAHでは人工授精、人工子宮、計画出生が行われているため、地球の自然社会における世代とは一致しません』
「それは分かってる」
数学だけではない。
医学、遺伝学、制御理論、閉鎖環境工学。
長い航海に必要とされた分野では、蓮たちの時代には存在しなかった研究成果もいくつもある。
「科学じゃ、本当に俺たちより先に行ってるところがあるんだよな」
『はい』
「なのに、生活はあれなんだよな」
蓮は、先ほど表示されていたNOAH式居住区を思い出した。
◇
「結局、食事だけではないんでしょうね」
柳原が言った。
会議も終盤に入っていた。
「何が?」
「慣れてもらう必要があるものです」
住居。
仕事。
余暇。
人間関係。
個人の時間。
誰と暮らすのか。
何をして過ごすのか。
自分は何をしたいのか。
「到着しました。では今日から好きに暮らしてください、と言われても困るでしょう」
「そりゃそうか」
「自由にしろ、と命令するのも変な話ですしね」
「それは確かに」
『NOAH管理AIも、急激な生活様式の変更は望ましくないと判断しています』
イザナミが答えた。
それは、今この会議室から質問して得た回答ではない。
イザナミとNOAH側の管理AIは、人間同士の通信とは別に継続して膨大な情報を交換している。
数学。
医学。
統計。
資源。
社会制度。
心理反応。
生活記録。
人間が横で聞いて理解できるような「会話」ではない。
そこで行われた検討結果を、イザナミが人間の言葉へ置き換えて報告している。
『NOAH管理AIは、現在の社会制度が恒星間航行中の閉鎖環境に適応したものであることを認識しています。また、EDEN定住後も同一の生活様式を維持する合理的必要性は低下すると評価しています』
「向こうのAIも、変えた方がいいと思ってる?」
『正確には、段階的な移行を推奨しています』
「一気には無理か」
『はい。現在のNOAH居住者の大部分は、現行社会制度の中で生まれ育っています。急激な変更は、生活上の負担になる可能性があります』
「じゃあ、少しずつ慣れてもらうしかないな」
「そうでしょうね」
「食事も、住み方も、遊び方も……生活全部を」
蓮は少し考えた。
「……文化のリハビリみたいなもんか」
『正式な用語ではありませんが、意味としては近いでしょう』
「認めるんだ」
「分かりやすいじゃないですか」
柳原が笑った。
蓮も笑いかけたが、ふと眉を寄せた。
「でも、変な話だな」
「何がです?」
「向こうって、俺たちからしたら未来人だろ?」
「そうですね」
「科学じゃ本当に先に行ってるところもある。さっきの数学なんて、もう俺には分からない」
『説明は可能です』
「それはもういいって」
蓮は手を振った。
「そんな未来人に、今度は俺たちが昔みたいな生活を教えるわけだろ」
少し考える。
「……これ、未来人を退化させることにならない?」
「退化じゃないでしょう」
柳原はすぐに答えた。
「じゃあ何?」
「船の中では必要なかったんですよ」
柳原は静かに続けた。
「自分で料理することも、好きな場所へ引っ越すことも、買い物に出かけることも。誰と暮らすかを考えることさえ、船の中ではほとんど必要なかった」
「遊園地なんか、真っ先に消えるな」
「でしょうね」
「でも、ここじゃ違う?」
「違うというより――」
柳原は少し考えた。
「必要かどうかを、本人が決められるようになるんです」
蓮は黙った。
「NOAH式の暮らしが落ち着くなら、それを続けてもいい。一人で暮らしてもいい。誰かと二人で暮らしてもいい。高齢者同士で助け合って暮らしてもいい」
「そのうち家族みたいなのができるかもしれない」
「それは、その人たちの先の話でしょう」
今のNOAH社会へ、二千五百年前の家族制度をそのまま持ち込む必要はない。
新しい関係が生まれるなら、それがどんな形になるのかは当人たちが決めればいい。
「昔の地球と同じ社会へ戻す必要はありません」
柳原が言った。
「ただ、航海中には必要なかった選択肢を、これからも持たないままでいる理由はないでしょう」
『社会環境が変化すれば、それに適した制度も変化します』
「イザナミまでまとめなくていいよ」
『補足です』
「はいはい」
壁面には、まだ誰も住んでいない新しい街が映っていた。
あと一か月。
そこへ、百世代近い時間を積み重ねてきた人類がやって来る。
同じ地球を出た。
それでも二千五百年のあいだに、まったく違う社会を作った人々。
その時、壁面の端に新しい照会が一件追加された。
《EDEN到着後、非勤務時間を利用してSHINAR CITYを訪問することは可能ですか》
蓮が目を止めた。
「これ、誰から?」
『NOAH乗員からの個人照会です』
「個人で?」
『はい』
蓮はその短い文章をもう一度見た。
利用できるかどうかを確認しているだけだ。
それでも、その問いの前には、おそらくもっと単純なものがある。
行ってみたい。
蓮は少しだけ口元を緩めた。
「……そっか」
――第百二十四話 了
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