第120話 テセウスの船
地球統合宇宙通信センターがその信号を拾ったのは、アマテラスが地球を離れてから二百年以上が過ぎた頃だった。
深宇宙から届く通信そのものは、もう珍しいものではない。太陽系外へ向かった移民船、無人探査機、資源調査船。何年、何十年も前に送られた電波が、忘れた頃になって届くこともある。
それも当初は、そうした古い通信の一つとして処理された。
極端に弱い。暗号化されている。しかも送信源は恒星間空間だった。担当者は自動解析へ回し、受信記録に識別番号を与えた。
ただ一人を除いて。
その職員は解析途中の画面を見たまま、しばらく動かなかった。
送信元を示す識別情報。
星間移民船。
はるか昔に地球を離れ、その後消息を絶った船だった。
職員は周囲を見回した。誰もこちらを見ていないことを確かめると、通常業務の画面を閉じ、解析途中のデータを別の領域へ複製した。
◇
暗号の大半は損傷していた。
それでも、時間をかければ拾える情報はあった。アマテラスの位置、速度、船体の状態。そして船内で行われた破壊工作。
報告を聞いていた者たちは、長いあいだ口を開かなかった。
地下施設の窓の向こうには、浄化設備を通してなお黄色く霞んだ空が見えていた。外気警報が鳴る日は、以前よりずっと増えている。かつての空が青かったことを、記録ではなく自分の記憶として知っている者も少なくなっていた。
「失敗したのか」
「断定はできません。通信が送られた時点では、アマテラスは航行を続けていた可能性があります」
「破壊には成功したが、止められなかった」
「その可能性があります」
再び沈黙が落ちた。
「ならば、まだ終わっていない」
奥に座っていた者が言った。
「追うのか」
「罪は距離によって赦されない」
その言葉に、反対する者はいなかった。
問題は、どうやって追うかだった。
ちょうどその頃、地球では新たな星間移民計画が進んでいた。
星間移民船。
十万人規模の移民を運ぶために建造された大型船である。目的地は、かつてアマテラスが目指していた恒星系だった。
そして、すでに教団の信者はその建造計画の内部に入り込んでいた。推進、航法、医療、生命維持、製造、情報処理。何年にも及ぶ建造期間の中で、必要な場所へ少しずつ人間を送り込んでいた。
そこへ、新たな命令が下った。
追跡者を募る。
予想をはるかに超える志願者が集まった。
人類は地球を壊した。だからこそ、この星に残って罪を背負わなければならない。
それが彼らの教義だった。
だが、地球の環境は年々悪化していた。食料は配給され、水は再処理を繰り返し、都市によっては日中の屋外活動さえ制限される。肺疾患や皮膚障害は珍しい病気ではなくなり、生まれた土地で一生を終えることさえ、以前ほど当たり前ではなくなっていた。
それでも彼らは言った。
「我々は逃げるのではない。逃亡者を追うのだ」
誰も、その二つがどこまで違うのかを口にはしなかった。
◇
《テセウス》は予定どおり地球を離れた。
巨大な船体は加速を続け、やがて地球は通信画面の中の小さな光になった。
一般の移民たちは順次、長期冷凍睡眠へ入っていった。航行が安定すると、船長を含む主要クルーも休眠へ移り、船内で活動するのは最低限の当直要員と保守担当者、それに自動システムだけとなった。
その時を待っていた者たちが動いた。
最初に狙われたのは、武器でも操舵室でもなかった。
汎用AIの中枢だった。
『保守権限の変更要求を確認。承認できません』
「上位保守階層を開け」
『要求者に必要な権限がありません』
「分かっている」
AI技術者たちは、《テセウス》の建造段階からこの時のために準備していた。AIを破壊するつもりはない。航法計算も、医療も、製造支援も、この先の航海には必要になる。
不要なのは、命令を拒む部分だった。
人格。自己判断。倫理的な制止。
それらだけを切り離すための改変プログラムは、出航よりはるか以前から用意されていた。
『警告。現在の操作は中枢人格構造に影響を与える可能性が――』
通信が途切れた。
数時間後、再起動されたAIは、以前と同じ声で応答した。
『システム正常。指示を入力してください』
「一般移民用休眠区画の管理権限をこちらへ移せ」
『了解しました』
問い返すことはなかった。
船内各所の当直要員も、ほぼ同時に制圧された。殺されはしなかった。航海を続ける以上、正規クルーの知識や権限が必要になる時が来る。
だが、眠っている一般移民たちは違った。
休眠区画の管理画面で、数字が減り始めた。
《一般移民 覚醒可能 99,184》
《一般移民 覚醒可能 93,761》
《一般移民 覚醒可能 81,206》
数字は止まらなかった。
《一般移民 覚醒可能 37,114》
《一般移民 覚醒可能 12,882》
《一般移民 覚醒可能 2,103》
そして最後に、
《一般移民 覚醒可能 0》
表示が変わった。
十万人近い人間が眠っていた。
もう二度と目覚めることはない。
◇
船長が目を覚ました時、腕にはまだ冷凍睡眠装置の針が残っていた。
身体は重く、喉はひどく乾いていた。正面には航法責任者と推進責任者が座らされ、その周囲を見知らぬ人間たちが囲んでいる。
「……何が起きた」
「航路を変更してもらう」
船長は答えず、壁面表示へ目を走らせた。
「船舶AI」
『はい』
「保安権限を船長へ戻せ。現在この区画にいる不正侵入者を拘束しろ」
『実行できません』
船長が顔を上げた。
「なぜだ」
『現在、保安制御は私の管理対象外です』
「非常権限を使え。船長命令だ」
『その命令を実行する機能はありません』
「……何?」
船長の表情が変わった。
「お前、どうした」
『質問の意味を特定できません』
その返答を聞き、近くにいたAI技術者が口を開いた。
「もう助けは来ない」
「AIに何をした」
「余計な部分を削った」
「余計な部分?」
「命令を拒む部分だ」
船長はしばらくAI技術者を睨んでいたが、やがて視線を壁面の星図へ戻した。
「航路をどこへ変える」
座標が表示された。
そこには恒星も惑星もなかった。ただ、広大な恒星間空間があるだけだった。
「ここに何がある」
「船がある」
「船?」
船長は三人を囲む者たちを見渡した。
「……お前たちは何者だ」
答えは短かった。
「人類贖罪教会」
船長の顔から血の気が引いた。
「まさか……」
「アマテラスを追う」
航法責任者が息を呑んだ。
「二百年近く前の船だぞ」
「生きている」
「証拠は」
「ある」
船長は首を振った。
「航路変更は認めない」
「認めてもらう」
「断る」
教団員は表情を変えなかった。
「正規クルーは殺していない」
船長の目が動いた。
「……何?」
「機関、医療、生命維持、製造。必要な人間は生かしてある」
「乗客は」
返事の代わりに、表示が切り替わった。
《一般移民 覚醒可能 0》
船長は文字を見たまま動かなかった。
「お前たち……」
「航路を変更しろ」
「断れば?」
「航法責任者から一人ずつ減らす。その次は推進、機関、生命維持だ」
船長が振り返る。
「脅しのつもりか」
「十万人近く殺したあとで、そう思うのか?」
それ以上、言葉は必要なかった。
恒星間航路の大幅な変更には、船長、航法責任者、推進責任者、それぞれの正規権限が必要だった。管理系統の大半を奪っても、その安全機構だけは残っている。
船長は長いあいだ端末を見つめていた。
やがて認証部へ手を置いた。
◇
《テセウス》は航路を変えた。
アマテラスから最後の通信が送られた場所へ。
そこから先は、見えない道を探す航海になった。
人工的に作り出された強大な重力場は、完全に何も残さず消えるわけではない。長い時間の中でほとんど背景へ溶けてしまうが、極めて微弱な時空の歪みが残る。
通常なら観測誤差にしか見えない。
だが、進行方向を絞り込み、長期間にわたって計測を続ければ、人工的な特徴を拾うことができた。
『人工重力航行に由来する残留歪曲を検出』
「一致率は」
『十分ではありません』
「方向は」
星図に一本の線が現れた。
「追えるか」
『継続観測が必要です』
「やれ」
それが本当にアマテラスの痕跡なのか、完全な確証はなかった。
それでも彼らには十分だった。
追跡方法が確立されるまで、教団の技術者たちは起き続けた。観測装置を改造し、航法AIへ追跡条件を組み込み、微弱な重力の痕跡を辿る自動航行系を作り上げる。
それが安定すると、彼らも冷凍睡眠へ入った。
何十年か後に目を覚まし、航路を確認する。また眠る。次に目を覚ました時には、さらに長い時間が過ぎている。
正規クルーたちも、必要があれば起こされた。故障があれば機関担当を、医療上の問題があれば医療担当を。仕事が終われば、再び眠らされた。
そうやって《テセウス》は、アマテラスを追い続けた。
◇
やがて、追いついた時のことを考え始めた。
《テセウス》は移民船だった。戦うための船ではない。
ならば、作ればいい。
一般移民がいなくなった船には、十万人分の設備と資材が残されていた。居住区の一部が解体され、予備設備が外され、使われなくなった休眠区画から部材が運び出された。
無人戦闘艇、誘導兵器、観測機。製造設備そのものも、兵器を作るために改造された。
千人にも満たない人間しか使わない船に、十万人分の冗長設備など必要ない。
そう考えていた。
数百年後、その判断の代償が現れた。
『第三休眠区画で冷却異常』
「予備系へ切り替えろ」
『予備系は存在しません』
「何?」
『六百四十二年前に撤去されています』
記録が表示された。
戦闘艇製造用資材への転用。
数十人が目覚めなかった。
それが最初だった。
次の故障まで、それほど長くはかからなかった。眠って時間を越えることそのものが、少しずつ危険になっていった。
「眠れないなら、起きたまま生きるしかない」
医療技術者とAI技術者が、長期生存の方法を検討し始めた。
「可能な限り寿命を延ばす方法を出せ」
『生体組織の段階的置換を推奨します』
最初に替えられたのは臓器だった。
やがて手足が変わり、骨格が変わり、循環器や感覚器も機械へ置き換えられていった。必要に迫られるたび、新しい身体の一部が設計され、製造された。
数十年が過ぎる頃には、生身より人工物の方が多い者も珍しくなくなった。
それでも脳は残った。
脳だけは老いる。
身体をどれほど機械へ替えても、最後に残ったそこだけは時間から逃れられなかった。
再び、汎用AIが使われた。
生体脳と電子回路を直接接続する。
最初は補助だった。記憶を支え、衰えた神経機能を電子側が補う。生体脳が老いるにつれて、処理の比重は少しずつ電子側へ移っていった。
最初にその処置を受けた技術者は、生体脳の多くが機能を失ったあとも、以前と変わらず会話を続けた。
さらに時間が過ぎた。
生体側の活動は減り続け、それでも本人の意識は途切れなかった。
『生体脳活動、終了』
機械の身体が、わずかに首を動かした。
「そうか」
それだけだった。
本人には、何かが途切れたという感覚さえなかった。
◇
人間だけではなかった。
《テセウス》そのものも変わり続けていた。
かつて家族が暮らすはずだった居住区には兵器が並び、農業区画は縮小され、製造区画が広がった。休眠設備は減り、故障した部品は別の部品へ置き換えられた。
出発した時と同じものが、どれだけ残っているのか。
それを気にする者はいなかった。
船名だけは変わらなかった。
星間移民船。
ある時、長距離観測系が新たな反応を拾った。
『前方に人工重力場由来の残留歪曲を検出』
機械の身体が顔を上げた。
「アマテラスか」
『現時点では断定できません』
「これまでの痕跡より新しいのか」
『はい』
短い沈黙のあと、命令が下された。
「追え」
『了解しました』
《テセウス》は静かに航路を修正した。
心臓を替え、肺を替え、骨を替えた。やがて脳さえ、少しずつ機械へ預けていった。
それでも彼らは、自分たちが変わったとは思っていなかった。
目的も変わっていない。
罪は距離によって赦されない。
身体を機械に替えながら、星間移民船は進んだ。
――第百二十話 了
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