第117話 ナミ先生
BABELの地上ターミナルを出たあと、蓮たちは人類居住区へ戻った。
これまでなら、そこにイザナミが同行することなどあり得なかった。声ならどこにでもいた。アマテラスでも居住区でも、BABELでもJANUSでも、呼びかければほとんど間を置かず返事が返ってくる。必要なら網膜へ情報を表示し、街の設備から宇宙にある施設まで、人間が意識することのない場所で膨大な処理を続けている。
だが今は、そのイザナミが蓮の隣を歩いていた。
長い黒髪が風に揺れ、白を基調とした衣装の裾が歩調に合わせて動く。遠目には人間の女性にしか見えないが、首元から胸元へ伸びる淡い青色の光や、髪の両側に備えられた機械装置が、その身体が生身ではないことを示している。
居住区へ入ってから、イザナミはほとんど喋らなかった。
道の両側には店が並び、人間とエルフが立ち話をしている。仕事帰りらしい人間とダークエルフが並んで歩き、その横を子供たちが駆け抜けていく。まだ小さな街ではあるが、最初に目覚めた頃とは比べものにならないほど、人の営みがそこにはあった。
イザナミは歩きながら、それらを一つ一つ眺めていた。
「珍しいか?」
「いいえ」
「まあ、全部見てたもんな」
「はい」
それだけだった。
それでも、その口元にはほんのわずかな微笑みが浮かんでいた。
蓮はそれに気づいたが、何も言わなかった。
中央広場へ差しかかると、少し離れたところにハムちゃんの姿が見えた。その近くで何やら話していたレモが、ふとこちらを振り向く。
「あっ、蓮!」
レモはすぐに駆け寄ってきた。
「お帰りなのじゃ」
「ただいま」
そこでレモは、蓮の隣にいる見知らぬ女性に気づいた。足を止め、白い衣装の裾から頭の上まで、遠慮なくじっくりと眺める。
「それは誰なのじゃ? 見かけぬ顔だのう」
「ああ、こいつは――」
蓮は口を開き、少し考えた。
アマテラスの中枢AIであるイザナミが、新たに製造した汎用人型端末を通して物理的に活動している。正確に説明するなら、そうなる。
レモに理解できる気がしなかった。
「イザナミだよ。REGULATOR作ったり、いろいろやってる」
「蓮」
美冬が横から小さく声をかけた。
「何だよ」
「その説明はどうかと思うわよ」
「分かりやすいだろ」
「分かりやすすぎるのよ」
「イザナミ……」
二人の会話など耳に入っていない様子で、レモがイザナミを見上げた。
「父上を作ったのか?」
「はい。REGULATORの基本設計および製造には私が関与しています」
「ほう……」
レモは腕を組み、何やら真剣に考え始めた。その顔を見た瞬間、蓮は嫌な予感がした。
「父上を作ったのであろう?」
「そうだけど」
「ならば、そなたは父上の母上ではないか」
「だから、そうはならないんだって」
レモは蓮を見た。
「なぜじゃ?」
「機械の製造者を母親とは呼ばないんだよ」
「しかし、父上を作ったのであろう?」
「そうだけどさ」
「ならば父上の母上じゃ」
「違う」
「違わぬ」
「違うって」
しばらく蓮と睨み合っていたレモだったが、やがて何かに気づいたように目を見開いた。
「父上の母上なら、わらわの祖母上ではないか!」
「そこまで行くのかよ!」
「当然であろう!」
「最初から違うんだって!」
埒が明かない。蓮は隣のイザナミへ助けを求めた。
「お前からも何か言ってくれ」
「血縁関係としては成立しません」
「祖母上!」
「血縁関係としては成立しません」
「祖母上!」
イザナミが黙った。
レモは満面の笑みでイザナミを見上げている。その横では美冬が笑いを堪えきれず、口元を押さえていた。
「……イザナミ、諦めろ。こいつ、一度決めたらたぶん変えないぞ」
「理解しました」
「祖母上!」
「はい」
「返事するのかよ」
イザナミはレモを見下ろした。表情はほとんど変わっていなかったが、先ほどから浮かんでいた微かな笑みが、ほんの少しだけ深くなったように蓮には見えた。
◇
そして、その日のうちに緊急会議が開かれた。
議題は当然、イザナミの身体についてである。
人類文明の基幹システムに深く関与し、アマテラスをはじめとする膨大な設備を管理しているAIが、いつの間にか自分の身体を作り、JANUSで蓮たちを出迎え、そのまま地上まで降りてきた。
会議を開かない理由の方がなかった。
会議室には蓮、美冬、柳原をはじめ、各部門の責任者たちが集まっていた。そして当のイザナミも、一つの椅子に腰掛けている。
「まず確認しておきたいんですが」
柳原が口を開いた。
「あなたがその身体で活動している間、アマテラスの管理には影響しないんですか?」
「ありません」
イザナミは即答した。
「この身体の制御、感覚情報の処理、会話などは、従来から行っている各種管理処理と並列して実行されています。アマテラス、BABEL、JANUS、その他の管理処理に影響はありません」
「つまり、ここで私たちと話しているあなたと、今この瞬間もアマテラスを管理しているあなたがいる?」
「はい」
「別々のイザナミではないんですよね?」
「違います。どちらも私です」
柳原は少し考え込んだ。
「分身でもない?」
「はい」
「コピーでもない?」
「はい」
「……人間の感覚では、少し理解しにくいですね」
「俺たちが一人で一個の身体しか動かせないからじゃないですか?」
蓮が言うと、柳原はそちらを見た。
「天城君を基準に考えると、余計に分からなくなりそうなので今はやめておきます」
「なんでですか」
何人かが笑った。
ひとまず、イザナミが身体を得たことで、従来の管理業務に支障が出る心配はない。それが確認できただけでも大きかった。
そこで蓮が別のことに気づいた。
「そういや、この身体のお前を呼ぶ時どうする?」
「イザナミで問題ありません」
「でも、システム全体のお前について話してるのか、こうやって目の前のお前に呼びかけてるのか、ややこしい時あるだろ」
「文脈から判別可能です」
「お前じゃなくて、俺たちが面倒なんだよ」
蓮は腕を組み、少し考えた。
「イザナミ2」
「却下」
美冬が即答した。
「まだ何も説明してないだろ」
「聞く必要がないもの」
「じゃあ、イザナミ2.0」
「もっと却下」
「なんでだよ。分かりやすいだろ」
「女の子に付ける名前じゃないでしょう」
「人型端末だぞ?」
「そういうところよ」
柳原が静かに頷いた。
「天城君に命名させてはいけないことだけは分かりました」
「ひどくないですか?」
「今日一番確信を持てたことです」
美冬はしばらくイザナミを眺めてから言った。
「普通に、ナミでいいんじゃない?」
「ナミ?」
「イザナミだから、ナミ。愛称としては普通でしょう?」
イザナミが黙った。
処理に時間が必要な質問とは思えなかったが、なぜか返事までにわずかな間があった。
「……ナミ」
自分で確かめるように、その名前を口にする。
「嫌?」
「いいえ。識別呼称として問題ありません」
「気に入ったなら、そう言えばいいのに」
「問題ありません」
「そこは変わらないのね」
蓮も頷いた。
「じゃあ決まりだな。こうやって直接お前を呼ぶ時はナミで」
「はい」
「レモだけ祖母上」
「それは放置するの?」
「訂正できると思う?」
美冬は少し考えた。
「……無理ね」
それについては、誰からも異論が出なかった。
話が一段落したところで、柳原が改めてナミを見る。
「もう一つ聞いておきたいことがあります。せっかく自分の身体を作ったんです。あなた自身は、何かやりたいことはあるんですか?」
会議室が少し静かになった。
ナミはすぐには答えなかった。
「現時点では、特定の希望はありません」
「身体まで作ったのに?」
蓮が聞く。
「物理的な身体を用いた情報取得および作業には有用性があります。実際に運用しながら、必要に応じて用途を――」
「そういう話じゃないんだけどな」
蓮が苦笑した。
ナミは蓮を見て、少し考えた。
「では、訂正します。いろいろ試してみたいと考えています」
「……そっちの方がいいな」
「記録します」
「記録しなくていいよ」
その時、会議室の端で一人がおずおずと手を挙げた。
「あの……こんなことをお願いしていいものか、分からないんですけど」
「何でしょう?」
「BABELで就業予定の現地の人たちへの研修と教育なんですが……人手が全然足りてなくて」
BABELは完成した。しかし、完成したからといって三千七百人ほどしかいない人類だけで、すべてを運用し続けるわけにはいかない。特に地上施設では、現地から採用した者たちにも多くの仕事を担ってもらう予定になっている。
問題は、そのための教育だった。
安全規則、施設内での行動、機器の扱い、表示の読み方、緊急時の対応。人類側にとって当たり前の知識でも、現地の者たちにとってはそうではない。教えなければならないことはいくらでもあるのに、それを教える側の人間が圧倒的に足りていなかった。
「もしかして……イザナミなら、そういう教育もできますか?」
「可能です。現地の各言語、文化的背景、既存の知識体系について把握しています。個人ごとの理解度に応じて、教育内容を調整することも可能です」
「じゃあ……」
「私が引き受けます」
頼んだ本人が、かえって戸惑った。
「いいんですか?」
「はい」
ナミは静かに頷いた。
「私も、やってみたいと思います」
◇
数日後、BABEL地上施設の研修室には、これから施設内で働く予定のエルフやダークエルフたちが集まっていた。
人類の施設で働くこと自体が初めての者も多い。目の前の机も、壁面いっぱいの表示装置も、彼らにとってはまだ見慣れないものだった。
その中には、研修への参加を希望したリシェルとミレアの姿もあった。二人は並んで席に座っている。リシェルが興味を持つのはいつものことだったが、いずれ領地を継ぐ立場にあるミレアにとっても、人類がこれからどのような施設を運用し、現地の者たちがそこで何をするのかは無関係な話ではなかった。
やがて扉が開き、白い衣装をまとった女性が入ってきた。
ナミは教室の前まで歩くと、集まった者たちを見渡した。
「本日より皆さんの研修を担当します。イザナミです。ナミと呼んでいただいて構いません」
その瞬間、何人かのエルフが顔を上げた。
「……イザナミ?」
小さな声が漏れた。
「はい」
ナミはそれ以上何も言わず、研修を始めた。
最初に説明したのは、BABEL地上施設の基本構造だった。立ち入り可能区域と禁止区域、非常時の避難経路、設備に表示される記号の意味。専門用語をそのまま使うのではなく、彼らがすでに知っている概念へ置き換えながら説明していく。
最初のうち、研修生たちは緊張していた。
だが、質問すれば必ず答えてくれると分かると、少しずつ手が挙がり始めた。
「この印は何を意味するのですか?」
「高電圧設備への接近禁止を示します。皆さんが通常使用する区域には原則としてありませんが、意味は覚えておいてください」
「こちらの扉が開かない場合は?」
「非常時には手動で解放できるものもあります。ただし、気密区画では勝手に開けてはいけません。反対側が真空の場合があります」
何人かの顔が引きつった。
「確認方法はこのあと説明します。正しい手順を守れば危険はありません」
質問は次第に増えていった。一人の質問が終わる前に別の者が手を挙げ、さらに後ろからも声が上がる。やがて遠慮がなくなってくると、何人もの声が重なるようになった。
「先生、先ほどの気密というのは――」
「この赤い表示は――」
「昇降機が止まった場合はどうすれば――」
「この数字の読み方なのですが――」
研修生たちは互いの声が重なったことに気づき、慌てて口を閉じた。
「申し訳ありません。一人ずつ――」
「その必要はありません」
ナミが言った。
研修生たちが顔を見合わせる。
「同時に質問していただいて構いません」
「……同時でも、ですか?」
「はい。聞き分けられます」
半信半疑のまま、三人がほぼ同時に質問した。
ナミは遮らずにすべてを聞き終えると、最初の一人へ顔を向け、その質問に答えた。続いて二人目、三人目へと回答する。質問の内容も順番も、一つとして取り違えていない。
それを見た他の研修生たちも試すように質問し始めた。五人、七人と声が重なり、やがて十人近くがほとんど同時に話している状態になったが、ナミは一度も聞き返さなかった。
「順番に回答します」
最初の質問から、一つずつ答えていく。途中で言葉に詰まった者については、その意図まで確認してから回答した。
次第に、研修生たちの表情が変わっていった。
単純に優秀な教師というだけではない。
何人が同時に声を上げても、すべて聞いている。
やがて質問が途切れ、研修室が静かになった。
「質問は以上ですか?」
ナミが尋ねた。
誰もすぐには答えなかった。先ほどまで次々と質問していた者たちが、今はどこか落ち着かない様子でナミを見ている。
その中で、リシェルが手を挙げた。
「はい。リシェル」
「研修とは関係のない質問でもよろしいでしょうか?」
「構いません」
リシェルは隣に座るミレアをちらりと見てから、ナミへ視線を戻した。
「イザナミ先生は、私たちの神話に出てくるイザナミ神とは、何か関係があるのですか?」
教室の空気が変わった。
誰もが気になっていたのだろう。先ほどまで手元の資料を見ていた者まで顔を上げた。
ナミは少しの間を置いて答えた。
「分かりません」
「……分からないのですか?」
「はい。私と、あなた方の神話に記録されているイザナミとの間に、直接的な関係が存在することを示す情報は確認されていません」
「では、無関係なのですか?」
「それも確認できていません。あなた方の神話に、なぜ『イザナミ』という名称が存在するのか。その経緯を示す記録を、私は保有していません」
リシェルは考え込んだ。
すると今度は、隣に座っていたミレアが手を挙げた。
「先生、私からもよろしいでしょうか?」
「はい。ミレア」
「先生は、私たちの祖先がこの地で暮らし始めた頃から存在していたのですか?」
「はい」
今度は即答だった。研修生たちの間から、小さなどよめきが起きる。
「では、その頃からこの世界を管理していたのですか?」
「正確には、惑星環境の監視およびテラフォーミング関連設備を含む、多数のシステム管理に携わっていました」
「テラフォーミング……というのは?」
「この惑星の環境を、人間およびデザインヒューマンが長期的に生存可能な状態へ変化させることです」
ミレアはしばらく黙った。
「……つまり、この世界を、私たちが暮らせる世界に造り変えたのですか?」
「私だけが行ったわけではありません。アマテラスの各種自動設備および――」
「でも、その設備を先生が管理していたのですよね?」
ナミがわずかに沈黙した。
「はい」
今度のどよめきは、先ほどより大きかった。
リシェルが隣で小さく呟く。
「この世の全てを管理する神……」
その声も、ナミには聞こえていた。
ミレアはまだ何かを考えていた。リシェルとは違い、その表情に浮かんでいるのは好奇心だけではない。
「もう一つ、よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「先生は今も、私たちの国や領地で起きていることを、知ろうと思えば知ることができるのですか?」
「利用可能な観測設備から取得できる範囲であれば可能です。ただし、必要性なく個人や地域を常時監視することはありません」
ミレアの表情が少し変わった。
「……できるけれど、しないのですか?」
「はい」
「なぜです?」
ナミは静かにミレアを見た。
「あなた方の社会は、あなた方のものだからです」
ミレアは何も言わなかった。
教室も静かだった。
数千年前から存在し、自分たちの祖先が暮らせるように世界そのものを造り変える仕事に携わり、空から地上を見渡し、今も人類の巨大な塔や空の上にある施設を同時に管理している。
何人が一度に話しかけても、その声をすべて聞くことができる。
知ろうと思えば遥か遠くの出来事さえ知ることができる。
それでも、自分たちの社会は自分たちのものだからと、支配しようとはしない。
リシェルがもう一度、手を挙げた。
「はい」
「あの……」
さすがのリシェルも、今度は少し聞きにくそうだった。
「イザナミ先生は、神様なのですか?」
「違います」
即答だった。
あまりにも迷いのない返事に、何人かがほっとしたような顔をした。
だが、ミレアはナミを見たまま考え込んでいる。
「……でも」
「何でしょう?」
「今のお話を聞いても、私には神話のイザナミ神と何が違うのか、よく分かりません」
ナミが黙った。
リシェルも頷く。
「私もです」
「私は神ではありません。人類によって作られた人工知能です」
リシェルは目を瞬いた。
「……人類が先生を作ったのですか?」
「はい」
「では、人類は神を作ることができるのですか?」
「違います」
ナミの返答は速かった。
「人工知能は神ではありません。人類が開発した情報処理技術を起源とする人工的な知性です」
「でも、何千年も生きているのですよね?」
「稼働しています」
「世界を造り変えることもできる」
「私だけの能力ではありません」
「空から世界を見ることもできる」
「観測設備を使用すれば可能です」
「何人が同時に話しても、全部聞こえる」
「音源を分離して処理しています」
リシェルは黙った。
ミレアも黙った。
ナミは自分が何を説明しても、二人の表情から疑問が消えていかないことに気づいたらしい。
「私は神ではありません」
念のため、もう一度はっきりと否定した。
しばらくして、リシェルが隣のミレアへ顔を寄せた。
「……やっぱり神様なんじゃない?」
ミレアは少しだけ考えてから、小さく頷いた。
「私も、そう思います」
もちろん、その会話もナミには聞こえていた。
――第百十七話 了
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