第百十六話 イザナミ顕現
「ようこそ、JANUSへ」
開ききった白い花の中央で、女性はそう告げた。
誰もすぐには答えなかった。荘厳な音楽だけが、薄暗くなったメインフロアに静かに流れている。
蓮は女性を見つめた。
長い黒髪。白を基調とした長い衣装。身体に沿う滑らかな素材には淡い花の文様が浮かび、袖と裾は幾重にも重なっている。首元から胸元へ淡い青色の光が走り、肩や腰には衣服の装飾とは異なる黒い構造材が覗いていた。長い黒髪の両側にも、青白く光る小さな機械装置がある。
どう見ても普通の人間ではない。
だが、それ以上に問題なのは声だった。
「…………イザナミ?」
「はい」
女性は当たり前のように答えた。
「ホログラム?」
「違います」
「AR?」
「違います」
「……じゃあ何?」
「独立行動が可能な汎用人型端末です」
「身体じゃない」
美冬が横から言った。
「その表現でも大きな齟齬はありません」
「身体なのかよ……」
蓮は白い花へ近づいた。
近くで見ても映像には見えない。衣装の裾が花弁に触れ、黒髪の一本一本が照明を反射している。そこに人間が立っているようにしか見えなかった。
「触っていい?」
「はい」
蓮が右手を差し出す。
イザナミはその手を見てから、自分の左手を伸ばした。
指先が触れた。
蓮はそのまま掌を重ねる。
「……温かい」
「はい」
短い返事だった。
蓮が手を離すと、イザナミは自分の掌へ視線を落とした。
「どうした?」
「問題ありません」
「ならいいけど」
イザナミは手を下ろした。
美冬も近づいてくる。
「これ、自分で作ったの?」
「はい。設計は私が行いました。製造にはJANUS建造設備の一部を使用しています」
「いつから考えてたんだ?」
「人型端末の基本設計そのものは以前から存在します。今回の仕様については、JANUSの基本設計確定後に具体化しました」
「ずいぶん前から作る気だったのね」
「軌道施設内を独立して移動し、現地で直接作業を行える端末には運用上の利点があります」
淀みのない回答だった。
蓮は改めてイザナミを頭から足元まで眺めた。
「でも、別に人型じゃなくてもよくないか?」
「人間用に設計された施設内で活動する場合、人型は高い汎用性を持ちます。また、人間との対面コミュニケーションにも適しています」
「なるほどねえ」
理屈は通っている。
それでも、何か引っかかる。
蓮はイザナミの背後にある巨大な白い花を見上げた。
「……ところで、これ」
「はい」
「誰が設計した?」
「私です」
「さっき暗くなった照明は?」
「私が設定しました」
「音楽は?」
「私が選定しました」
「全部お前じゃねえか」
「歓迎演出として適切と判断しました」
蓮はもう一度、花を見る。
閉じていた時には巨大な蕾のようにしか見えなかったが、こうして開いてしまえば見間違えようがない。
「これ、蓮の花だよな?」
「はい」
「俺の名前、関係ない?」
「ありません」
即答だった。
「こっち見て言えよ」
イザナミの視線が、ほんのわずかに横へ逸れた。
美冬が口元を押さえる。
「美冬、何で笑ってる?」
「笑ってないわよ」
「絶対笑ってるだろ」
「気のせいよ」
「イザナミ」
「はい」
「本当に関係ないんだな?」
「製造カプセルの展開構造について複数の候補を比較し、収納効率、構造的安定性、展開後の視覚的印象などを総合的に評価した結果です」
「それ、質問に答えてないぞ」
「必要な説明は行いました」
「お前、身体を持った途端にごまかし方まで覚えてない?」
「そのような事実はありません」
今度はまっすぐ蓮を見て答えた。
「遅いよ」
美冬がとうとう吹き出した。
その間に、イザナミは花の中央から足を踏み出した。
一歩。
白い花弁へ足を置き、そのまま床へ降りる。
動きは滑らかだった。ぎこちなさはない。人間の歩行を長年にわたって観測し、人体の運動についても蓮たちより遥かに詳しいのだから、歩き方が分からないはずもない。
それでも、床へ降りたイザナミは一度立ち止まった。
「どうした?」
「床面からの反力を確認しています」
「……歩いたことなかったもんな」
「この身体では初めてです」
イザナミはもう一歩進んだ。
今度は止まらなかった。
◇
JANUSでの確認を終え、蓮たちは地上へ戻るクライマーに乗り込んだ。
当然のようにイザナミも一緒だった。
イザナミは蓮の隣の座席に腰を下ろし、四点式ベルトを手順通りに装着する。その様子を見ていた蓮が首を傾げた。
「お前、それ必要なのか?」
「安全規則です」
「お前も作った規則だろ?」
「私も策定に参加しています」
「だったら自分だけ例外にすれば?」
「合理的な理由がありません」
「……真面目だな」
「安全規則ですから」
少し離れたところで、柳原が念入りに自分のベルトを確認していた。
「帰りは普通にお願いしますよ、天城君」
「普通ですよ」
「その言葉はもう信用していません」
「何もしませんって」
「本当でしょうね?」
「たぶん」
「今、『たぶん』と言いましたね?」
クライマーがJANUSを離れた。
今度は全周透過ではない。通常の表示モードだった。
それでも景色は十分だった。
外周壁全体が巨大な窓のように宇宙空間を映し、その向こうに青いEDENが浮かんでいる。壁面のところどころには小さなワイプ画面も開き、クライマー直下の映像や現在高度、速度、到着予定時刻などを表示していた。
「……これでいいんです」
柳原がしみじみと言った。
「何がです?」
「普通に外を見せてもらえれば、それで十分なんですよ。これだけでも十分すぎるほど素晴らしい景色じゃないですか。なぜ床まで消す必要があるんです」
「せっかくできるのに」
「できることを全部やる必要はありません」
「政治家みたいなこと言いますね」
「政治家です」
「あ、そうだった」
柳原が呆れた顔をした。
クライマーはテザーに沿って下降を続ける。
EDENは次第に視界を埋め、やがて球体としての輪郭が壁面の外へ消えた。大陸と海が広がり、その外縁を包んでいた青い大気が、今度は自分たちを迎える層として近づいてくる。
地上まで約三十分。
自然に落下しているだけでは、その時間では到底届かない。クライマーは重力制御と慣性補償を働かせながら、テザーに沿って地上へ向けて猛烈な速度で降下していた。
それでも乗客の身体は静かだった。座席に押しつけられることもなければ、腹が浮く感覚もない。身体が感じているものと、目が見ているものが一致しない。
「……速いですね」
柳原がワイプ画面を見ながら言った。
「速いですよ」
「どのくらいです?」
「聞かない方がいいと思います」
「なぜですか」
「柳原さん、数字を聞いたら余計に怖がりそうだから」
「そう言われると聞きたくなるじゃないですか」
「イザナミ」
「はい」
「現在速度――」
「やっぱり結構です」
蓮が笑った。
やがてクライマーは青い大気の層へ飛び込んだ。
だが、機体を包む炎はない。
周囲の大気そのものを制御し、超高速移動による圧縮や加熱を抑えながら、クライマーはなお凄まじい速度で降下を続けていく。
壁面の後方映像に、一本の白い筋が現れた。
「……あれ、何です?」
柳原が指差した。
クライマーが通過した後、大気が白く染まっている。
「雲ですね」
「雲?」
「急激な圧力変化で水蒸気が凝結してるんですよ」
蓮が答えた。
白い雲はテザーに沿って細長く伸びていた。遥か上空から降りてきたクライマーが、自分の通った場所へ一本の線を引いているようにも見える。
「私たち、雲を作りながら降りてるんですか?」
「そうなりますね」
「……もう何を聞いても驚かない気がしてきました」
「それ、たぶん今だけですよ」
「どういう意味です?」
「別に」
青が濃くなっていく。
やがて壁面いっぱいに雲海が広がった。
クライマーはその中へ突入する。
外部映像が白に包まれ、真下を映していたワイプ画面も一時的に何も見えなくなった。
そして――白が切れた。
雲を抜けた。
その下に、大地があった。
山々が連なり、その間を川が走っている。森林の色が分かる。遠くには海まで見えた。
もう宇宙から眺める惑星ではない。
明らかに、自分たちがこれから降りる地面だった。
しかも小さなワイプ画面の中では、その地面が恐ろしい勢いで拡大している。
「……この小さい画面、見ない方がいいですね」
柳原が真下のワイプから目を逸らした。
「迫力あるな」
「だから見ない方がいいと言っているんです」
蓮はワイプを見る。
壁面を見る。
またワイプを見る。
「……蓮」
美冬の声がした。
「何だ?」
「やめなさいよ」
「まだ何もしてないだろ」
「顔に書いてある」
「何の話です?」
柳原が二人を見る。
「何でもありません」
美冬が答えた。
蓮は黙った。
しばらくは。
しかし、またワイプを見る。
足元にあるはずの地面が、猛烈な勢いで迫っている。
蓮は隣に座るイザナミへ、わずかに顔を寄せた。
「……イザナミ」
小声だった。
「はい」
「全周透過」
耳元で小さく告げる。
「承知しました」
「え?」
美冬が振り向いた。
壁が消えた。
天井が消えた。
そして――床が消えた。
「うわああああああああっ!」
柳原の悲鳴が響いた。
ついさっきまで小さなワイプの中にあった地上が、一瞬で足元いっぱいに広がった。
山が迫る。
川が伸びる。
森林が広がる。
地面が、凄まじい速度で近づいてくる。
「速い! 速い速い速い!」
「大丈夫ですって!」
「何が大丈夫なんですか! 地面がこっちに来てるんですよ!」
「いや、こっちが地面に行ってるんです」
「どっちでも同じです!」
柳原は四点式ベルトに身体を預けたまま、肘掛けを握り締めていた。目を閉じればいいだけなのだが、なぜか閉じられない。
「これ、自由落下ですよね!?」
「違いますよ」
「違うんですか!?」
「自由落下だけじゃ、こんなに速く地上まで来られませんって」
「じゃあ何なんですか!」
「こっちから地上へ向かって飛んでるんです」
「なんで今それを教えるんですか!」
蓮は笑いを堪えながら足元を見た。
高度が下がるほど、地表の細部が見えてくる。山に起伏が生まれ、川幅が分かるようになり、森林が無数の木々へと変わっていく。
惑星だったEDENが、世界へ戻っていく。
「……天城君」
「はい?」
「一度、三千七百人全員にこれを体験してもらいましょう」
「何でです?」
「その上で、最高管理者を選挙で決めた方がいいと思います」
「俺を落とす気ですよね?」
「私は公正な選挙を提案しているだけです!」
「絶対落とす気じゃないですか!」
その間にも地上は迫り続ける。
やがてクライマーは本格的な減速へ移った。
慣性補償のおかげで身体にはほとんど変化がない。だが、猛烈な勢いで迫っていた地表の動きだけが急速に緩やかになっていく。
「止まりますよね?」
「止まりますよ」
「本当に?」
「止まらなかったら困るでしょう」
「そういう話をしてるんじゃありません!」
地上施設が見えた。
BABELの巨大なターミナルが近づき、クライマーはテザーに沿ったまま施設内部へ滑り込んでいく。
外部映像が消えた。
床が戻る。
天井も戻る。
そして、ごく小さな振動とともにクライマーが停止した。
「到着しました」
イザナミが告げた。
四点式ベルトのロックが外れる。
蓮は立ち上がり、大きく伸びをした。
「いやあ、帰りの方が迫力あったな」
返事がない。
「柳原さん?」
柳原はまだ座っていた。
肘掛けを握ったまま、しばらく動かない。
やがて、ぽつりと言った。
「……初めて分かりました」
「何がです?」
「私が高所恐怖症だってことが……」
◇
地上ターミナルのゲートが開いた。
蓮と美冬が先に外へ出る。
少し遅れて柳原が続いた。床を踏んだ瞬間、どこか安心したような顔をしたのを蓮は見なかったことにした。
そして、イザナミがゲートをくぐった。
JANUSとは違う光が、その身体を照らす。
地上施設の外へ出る。
初めて自らの足で、EDENの地上に立った。
風が吹いた。
長い黒髪が、ふわりと揺れる。
イザナミが足を止めた。
「どうした?」
蓮が振り返る。
イザナミは答えず、風に揺れる自分の髪へ指先で触れた。
もう一度、風が吹いた。
「……風です」
イザナミは空を見上げた。
五千年近く見続けてきた空だった。
けれど、その風に触れるのは初めてだった。
かくしてイザナミは、地上に降臨したのであった。
――第百十六話 了
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