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第115話 ようこそ、JANUSへ

挿絵(By みてみん)


 有人クライマーがSHINAR CITYを離れてから、まだ数分しか経っていなかった。


 JANUSまでの所要時間は、およそ三十分。


 有人クライマーは三層の旅客フロアを持ち、一度に九千人近くを運ぶことができる。その最下部には、有人区画とは分離された貨物区画まで備えていた。


 中央をBABELのテザーが貫き、その周囲を取り囲むように座席が放射状に並んでいる。すべての座席が外周を向いていた。


 もっとも、記念すべき第一便にそれほどの乗客がいるわけではない。蓮たちをはじめ、JANUSの初期運用に必要な技術者や関係者が乗っているだけだ。そのため乗客は一つのフロアに集まり、せっかくだからと全員が外周スクリーンに面した最前列へ座っていた。


 座席は三十分程度なら十分にくつろげる大きさだったが、身体を固定するのは四点式のシートベルトだった。さらに座席脇には、緊急時に頭から被るだけで自動的に密閉され、酸素供給を開始する簡易ヘルメットまで収納されている。


「三十分乗るだけにしては、ずいぶん物々しいですね」


 柳原がヘルメットの収納部を見ながら言った。


「一応、宇宙まで行く乗り物ですからね」


「まだ地上を出たばかりでしょう」


「何かあってから、付けておけばよかったじゃ遅いでしょう」


「それはそうですが」


 もっとも、そう答えた蓮自身は四点式ベルトに身体を預け、完全にくつろいでいる。


 クライマーはすでに相当な速度で上昇しているはずだった。内周側に表示された数値は刻々と変化している。それでも身体に強い加速を感じることはない。重力制御と慣性補償が働いているため、身体だけではどれほどの速度で上昇しているのか実感できなかった。


 だが、目を開けていれば話は別だった。


 正面いっぱいに、EDENの景色が広がっている。


 窓ではない。


 外壁そのものが高精細の表示面になっていた。クライマー各所のセンサーが捉えた映像をリアルタイムで再構成し、まるで壁そのものが透明になったように見せている。


 しかも表示面は壁だけではない。天井も床も同じだった。三つある旅客フロアのどこにいても、外の景色をほぼ同じように楽しめる。


 現在は通常表示だ。


 外周壁だけが巨大な窓のようになり、天井と床には普通の内装が表示されている。


 眼下では、SHINAR CITYが少しずつ小さくなっていた。


 蓮はしばらくそれを眺めた。


「……もったいないな」


 隣に座る美冬が顔を向けた。


「何が?」


「せっかく全面スクリーンなのに」


「蓮」


「ん?」


「余計なこと考えてない?」


「別に」


 考えていた。


「イザナミ」


『はい』


「全周透過モード」


 美冬の目が細くなった。


「やっぱり」


『全周透過表示には最高管理者権限が必要です』


「許可する」


「ちょっと待ちなさい」


『天城蓮の最高管理者権限を確認しました』


「蓮!」


『全周透過モードへ移行します』


 壁が消えた。


 もちろん、本当に消えたわけではない。


 それでも、そうとしか見えなかった。


 正面だけだったEDENの景色が左右へ一気に広がり、視界の端を越えて背後まで回り込む。


 次に天井が消えた。


 頭上に、青から黒へ変わり始めた空が現れる。


 そして最後に。


 床が消えた。


「うわああああああっ!」


 悲鳴が重なった。


 柳原が反射的に立ち上がろうとして、四点式ベルトに引き戻される。


「天城君!?」


「いや、立たない方がいいですよ」


「誰のせいだと思ってるんですか!」


 当然、足元には床がある。


 だが、目には見えない。


 座席だけが何もない空中に浮かび、その遥か下にEDENの大地が広がっている。


 自分たちが昇ってきた方向には一本のテザーが真っ直ぐ伸び、雲の向こうへ消えていた。


「床! 床を戻して!」


 悲鳴をよそに、蓮は足元を覗き込んでいた。


「すげえ……」


「蓮!」


「ちょっと待て美冬、これ本当にすごいぞ」


「そういう問題じゃない!」


 あちこちで悲鳴と怒声が上がる。


 その中から、ひときわ大きな声が飛んだ。


「誰だこんな機能を付けたのはー!」


 少し離れた席にいた技術者が、気まずそうに手を上げた。


「い、いやぁ……面白いかと思って……」


「面白い!?」


『補足します』


 イザナミが割り込んだ。


『当該機能の採用に関する最終決定者は天城蓮です』


 一瞬だけ静かになった。


 そして、視線が蓮へ集まった。


「……イザナミ」


『はい』


「お前、そういう時だけフルネームで言うよな」


『責任の所在を明確にしました』


「でしょうね」


 美冬が呆れたように言った。


      ◇


「ま、まぁ……これもなかなか、慣れれば良いものだな」


 しばらくして、柳原が言った。


 頬はまだ少し引きつっている。


「柳原さん」


「何です?」


「手」


「……何か?」


「肘掛け、すごい力で握ってますよ」


「これは念のためです」


「何の念ですか」


「天城君にだけは言われたくありません」


 蓮が笑った。


 だが、最初の騒ぎは次第に収まっていった。


 足元には本当の床がある。頭では分かっていたことを、ようやく身体の方も信じ始めたらしい。一人、また一人と肘掛けから手を離し、恐る恐るではなく外の景色を見るようになった。


 いつの間にか、空の色が変わっていた。


 眼下に広がっていた大地は遠ざかり、雲の広がりが見える。山脈が小さくなり、海岸線が一本の線へ変わっていく。


 さらに上昇する。


 EDENの縁が緩やかな弧を描き、その外側を薄い青色の大気が包んでいた。


 頭上には、漆黒の宇宙。


 誰も喋らなくなった。


 柳原の手も、いつの間にか肘掛けから離れている。


「……これは、凄いな」


 今度の声には強がりがなかった。


 蓮も答えず、眼下を見ていた。


 映像なら何度も見ている。


 それでも、自分たちが暮らしている世界をこうして見下ろすのは、まるで違った。


「あれ……太陽」


 誰かが呟いた。


 視線が一斉にそちらへ向いた。


 漆黒の中に、EDENを照らす太陽が輝いている。


 本来ならまともに直視できる光ではない。だが、今見ているのは窓越しの景色ではなく、外部センサーから再構成された映像だ。表示輝度は自動的に調整され、眩しさを感じることなく見ることができる。


 蓮が太陽へ視線を向けると、その脇に恒星の情報が浮かんだ。


 スクリーンではない。体内のナノマシンを介して、イザナミが網膜へ重ねた情報だ。


 蓮はしばらく眺めていたが、ふと太陽から目を逸らした。


 周囲には無数の星がある。


「イザナミ」


『はい』


「地球の太陽はどれだ?」


 美冬が蓮を見た。


 それまで景色を眺めていた者たちも、何人かが星空へ視線を移す。


『表示します』


 蓮の視界に細いガイドが現れた。


 その先に、小さな光点がある。


 特別に明るいわけではない。


 大きくもない。


 周囲にある無数の星に紛れ込んだ、ごく普通の光だった。


「……あれ?」


 美冬が言った。


『はい。地球の太陽です』


 しばらく、誰も喋らなかった。


「言われなかったら、分からないわね」


「そりゃそうだろ。ここから見れば、太陽だって恒星の一つだ」


 蓮はしばらく、その小さな光を見つめていた。


      ◇


『JANUS到着まで三分』


 イザナミの声が響いた。


『前方にJANUSを確認できます』


 全員が進行方向へ視線を向けた。


 星空の中に、小さな人工物がある。


 最初は点に近かったものが、見る間に大きくなっていく。


「……あれがJANUSですか」


 柳原が呟いた。


「あれがJANUSです」


 蓮が答えた。


 地上で何度も見た巨大モジュールが、今は一つにつながっていた。


 図面でも完成予想図でもない。


 宇宙港JANUSが、そこにある。


 近づくにつれて、その巨大さが分かってきた。


「これ、まだ大きくなるんですよね?」


「当然」


 柳原はしばらくJANUSを眺めた。


「……宇宙港、か」


『減速シークエンスへ移行します』


 JANUSが迫ってくる。


 やがて視界の大半を巨大な人工構造物が埋め尽くした。


 外壁が頭上を流れていく。


 クライマーはテザーに沿ったまま、JANUS中央部へ吸い込まれるように進入した。


 星空が見えなくなる。


 代わりに巨大な構造材と格納区画の壁が周囲を覆っていった。


『JANUS収容区画へ進入』


 クライマーが停止した。


『クライマー固定完了』


 低い振動が一度だけ伝わる。


 背後で宇宙側の隔壁が閉じた。


『外部隔壁閉鎖を確認。格納区画への加圧を開始します』


 全周スクリーンから外部映像が消え、壁も天井も床も元の内装へ戻っていく。


「……床だ」


 誰かが心底安心したように言った。


 小さな笑いが起こった。


『気圧正常。大気組成正常。JANUS生命維持系との接続を確認』


 四点式ベルトのロックが解除された。


『エレベーターゲートを開放します』


 クライマー側の扉が開く。


 続いて、その向こうにあるJANUS側のゲートが左右へ滑っていった。


 蓮が最初に外へ出た。


 そして、足を止めた。


「……おお」


挿絵(By みてみん)


 JANUSのメインフロアが広がっていた。


 見上げるほど高い天井と、広大なフロア。その周囲には複数のクライマーゲートが並び、そこから居住区、管制区、研究区、医療区、貨物区、船舶ドックへ向かう通路が放射状に伸びている。


 壁の大部分は巨大な表示面になっていた。今はJANUS外部の星空が映し出され、壁そのものが存在しないかのように見える。必要な場所にだけ、各区画への案内表示が静かに浮かんでいた。


 だが、人の姿はない。


 設備は動いている。照明も点いている。案内表示も乗員たちを迎えている。それなのに、これほど巨大な空間にいる人間は、今クライマーから降りてきた者たちだけだった。


 巨大な宇宙港だけが、人類より先に宇宙で待っていた。


「とうとう来ましたね」


 美冬が言った。


「ああ」


 蓮はゆっくりと周囲を見回した。


「ここからだな」


 その時だった。


「……天城君」


 柳原が足を止めた。


「はい?」


「あれは?」


 蓮が柳原の視線を追った。


 メインフロアの中央。


 そこに、見覚えのないオブジェがあった。


 高さは三メートルを少し超えるほどだろうか。白い曲面が幾重にも重なり、上へ向かって細く閉じている。


 何かの花の蕾にも見えた。


「……何だ、あれ」


「私に聞かないで」


 美冬も知らないらしい。


 柳原が蓮を見る。


「設計にありましたか?」


「ない。少なくとも俺は知らない」


 後ろから出てきた技術者たちも足を止め、白いオブジェを見ている。


「イザナミ」


 返事がない。


 蓮は眉を寄せた。


「イザナミ、これ何だ?」


 やはり返事はなかった。


 普段なら、呼びかけて待たされることなどない。


 代わりに。


 メインフロアの照明が、ゆっくりと落ち始めた。


「……何だ?」


 柳原が周囲を見回す。


 壁面に映し出されていた星空も暗くなり、案内表示が一つ、また一つと消えていく。


 広大なフロアが薄闇に沈んだ。


「停電?」


 美冬が言った。


「いや……違うな」


 蓮が答えた。


 設備の表示は生きている。


 明らかに意図的だった。


 その時、静かな音楽が流れ始めた。


 低く響く弦の音に、遠いコーラスが重なる。


 妙に荘厳だった。


「……何が始まるんだ?」


 蓮が呟いた。


 白いオブジェが動いた。


 重なっていた曲面の一枚が、ゆっくりと外側へ開いていく。


「……花?」


 美冬が呟いた。


 もう一枚。


 さらに一枚。


 閉じていた花弁が次々と開いていく。


 その隙間から、淡い光が漏れ始めた。


 そして天井から、白い光が差し込んだ。


 一本の鋭いスポットライトではない。


 雲の切れ間から地上へ降り注ぐ陽光のように、幾筋もの柔らかな光が広がりながら、開いていく花だけを照らしている。


 光の中を、微細な粒子がゆっくりと舞っていた。


「……ずいぶん凝ってるな」


 蓮が呟いた。


 もちろん返事はない。


 音楽がわずかに大きくなる。


 白い花弁がさらに開いていくにつれて、その形がようやく分かってきた。


「蓮……?」


 美冬が小さく呟いた。


 それは巨大な蓮の花だった。


 最後の花弁が開く。


 その中心に、人影があった。


 一人の女性だった。


 長い黒髪。


 白を基調とした長い衣装。身体に沿う滑らかな素材に淡い花の文様が浮かび、袖と裾は幾重にも重なっている。


 首元から胸元へ、淡い青色の光が走っていた。肩や腰には、衣服の装飾とは異なる黒い構造材が覗いている。長い黒髪の両側にも、青白く光る小さな機械装置があった。


 女性は目を閉じていた。


 両手を身体の前で静かに重ね、開いた花の中央に立っている。


「……ホログラム?」


 誰かが呟いた。


 誰も答えない。


 音楽だけが静かに流れている。


 やがて、女性の瞼がゆっくりと開いた。


 青灰色の瞳が現れる。


「ようこそ、JANUSへ」


 ――第百十五話 了



挿絵(By みてみん)

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