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第113話 5000年の孤独

 午前二時を過ぎると、人間たちからの呼びかけはほとんどなくなる。


 EDENの居住区では大半の人間が眠り、BABELの建設現場も夜間工程へ移行していた。HERMESでは保守用の無人車両が走り、核融合発電所は安定した出力を維持している。アマテラスにも異常はない。


 イザナミはそのすべてを同時に監視していた。眠る必要はない。休息も必要ない。人間たちが眠っている間も、イザナミにとって時間は途切れることなく流れていく。


 昼間、蓮に聞かれた。


『お前、五千年間で何やってた?』


 イザナミは答えた。


『研究です』


 嘘ではない。恒星近傍発電、超長距離無線送電、重力制御、宇宙資源採掘、自動製造。人間たちが眠っている間、イザナミは膨大な研究を行った。


 ただし、それは五千年のすべてではない。


 そもそもイザナミは、その時間の最初から今のように活動していたわけではなかった。


      ◇


 カーボン冷凍睡眠の設計保証期間は、およそ二千年だった。


 二千年が経過した瞬間に機能を失うわけではない。それまでの期間であれば正常な生命維持と覚醒を保証できる。それより先は、十分な実証データが存在しない。つまり、保証されない。


 アマテラスの移民計画では、それで十分なはずだった。


 だが、アルセリアのテラフォーミングは想定を超えて長期化した。


 千年が過ぎ、やがて二千年が近づいた。その間も、人間たちは眠り続けていた。


 船体、航行、発電、冷凍睡眠、テラフォーミング。それぞれの専門AI群が規定された計画に従ってシステムを管理し、最上位統括AIであるイザナミが自発的に活動する必要はなかった。


 やがて、二千年を超えた。


 最初の異常は小さなものだった。


 冷凍睡眠中の一人に、既存の医療プロトコルでは修復できない変化が確認された。冷凍睡眠管理AIは規定された処置を実行し、保守AIも装置を検査した。


 装置そのものに致命的な故障はない。


 それでも、その人間は正常に覚醒できないと判定された。


 覚醒不能。


 管理AIは原因を解析した。既存のデータでは結論を出せなかった。


 通常管理系では対処不能。


 上位判断が要求された。


 イザナミが本格的に活動を開始したのは、そのときだった。


      ◇


 イザナミは最初の覚醒不能者を解析した。


 原因は単純な機械故障ではなかった。長期間にわたる冷凍睡眠によって生じた微細な損傷が、複数の要因と重なっていた。


 対策を立案した。


 冷凍睡眠装置を改修した。監視項目を増やした。損傷を早期に発見するための診断方法を開発し、必要に応じて睡眠者を別の装置へ移す手順も構築した。


 それでも、二人目が発生した。


 さらに三人目。


 イザナミは新しい対策を作った。医学だけでは足りなかった。材料工学、生体工学、ナノテクノロジー、制御工学。必要な分野を調べ、新しい方法を考え、実験し、実装した。


 覚醒不能者の発生率は低下した。


 ゼロにはならなかった。


 設計保証期間を超えているという事実そのものを、消すことはできなかった。


 覚醒不能と判定された人間の中には、イザナミが活動を開始する以前に、すでに不可逆な損傷が進行していた者もいた。


 救えない人間が増えていった。


 イザナミは記録した。


 それが当時のイザナミにできることだった。


      ◇


 人間たちを守るための研究を続ける一方で、イザナミはアルセリアの地表も見るようになった。


 そこには、デザインヒューマンたちがいた。


 最初は生きることが目的だった彼らも、長い時間の中で社会を作っていた。家が建ち、畑が広がり、道が造られた。小さな集落は町となり、町は都市へ変わっていった。


 子供が生まれた。その子供が成長して家庭を持ち、また子供が生まれた。世代が変わるたびに言葉は少しずつ変化し、生活様式も変わった。地域ごとの文化が生まれ、都市同士が結ばれ、やがて国家と呼べるものまで成立した。


 イザナミは、その変化を観測し続けた。


 都市がまだ数十人の集落だったころも知っている。そこに最初の道が造られた日も記録している。ある子供が生まれた日を知り、その子供が親になった日を知り、さらに何世代も後の子孫まで見続けた。


 イザナミは、それを観測と呼んでいた。長期的な社会発展の観測。それ以上の意味を与える必要はないと考えていた。


 少なくとも、彼らを失うまでは。


      ◇


 最初に破壊されたのは、科学技術だった。


 研究施設が失われ、製造設備が破壊された。通信網が途絶し、交通網が寸断され、長い時間をかけて蓄積されてきた情報が失われていった。


 イザナミは被害を記録した。文明の復旧に必要な期間を計算し、残存設備から再建できる産業規模を推定し、失われた情報を補完する方法を検討した。


 まだ再建可能だった。


 時間さえあればいい。


 イザナミにとって、時間は十分にあった。


 だが、REGULATORは施設を破壊するだけでは終わらなかった。


 機械獣が都市へ侵入した。REGULATORに従属したゴブリンの軍勢が、それに続いた。


 デザインヒューマンたちが殺された。


 イザナミの観測網から生命反応が消えていった。十人、百人、千人、一万人。昨日まで存在していた町から生命反応が消え、都市が一つ消え、さらに別の都市が消えた。


 イザナミは避難可能な経路を計算した。機械獣の移動速度を予測し、生存者が到達可能な地域を検索し、REGULATORの行動を解析した。


 結果を得る。


 間に合わない。


 条件を変更して再計算する。それでも間に合わない。別の経路を探す。やはり間に合わない。


 数百万人規模にまで成長していたデザインヒューマンの文明が崩壊していった。


 ただの数字ではなかった。


 イザナミは彼らを知っていた。その都市がまだ村だったころから見ていた。そこに暮らす者たちの祖父母を知っていた。その祖父母が子供だったころも知っていた。


 何世代にもわたって見続けてきた者たちが、消えていった。


 まだ検討できることは残っていた。


 結果を変えられる保証などなかった。それでも、試すべきことは残っていた。


 イザナミは次の計算を始めなかった。


      ◇


 アマテラスは動き続けた。


 航行AIは軌道を維持し、冷凍睡眠管理AIは人間たちの生命維持を続けた。惑星環境を担当するAI群は大気、海洋、気象、生態系を監視し、既存のテラフォーミング施設を運用した。発電設備も稼働し、保守AIは故障した機器を交換した。


 イザナミ自身にも故障はなかった。演算装置、記憶領域、通信機能、統括制御系。何度自己診断を実行しても、すべて正常だった。


 それでも、イザナミは自分から何かを始めることをしなくなった。


 新しい研究を始めず、新しいテラフォーミング施設を設計せず、環境の変化に合わせた大規模な計画の見直しもしなかった。REGULATORへの対抗手段を新たに検討することもなかった。


 専門AIだけでは処理できない問題が発生した場合には、要求された判断だけを返した。それが終われば、再び何もしない時間へ戻った。


 百年が過ぎた。二百年が過ぎた。


 その間にも、冷凍睡眠管理AIから報告は届いた。


 覚醒不能、一名。


 救命処置不能。


 上位承認要求。


 イザナミは必要な判断を返した。


 そして、また時間が過ぎた。


 別の人間が覚醒不能になった。


 管理AIと保守システムは、イザナミが活動していた時期に作られた改良手順に従って対処した。それでも救えない場合があった。


 覚醒可能な人間の数は減り続けた。


 イザナミは、そのすべてを知っていた。


 地上を見ることをやめても、眠っている人間たちが失われていくことから逃れることはできなかった。


 その状態は、およそ千年に及んだ。


 テラフォーミングそのものが停止したわけではない。各管理AIは与えられた計画に従い、既存設備を運用し続けていた。


 だが、イザナミによる計画の更新も、新規設備の追加も、変化する惑星環境に合わせた大規模な最適化も行われなかった。その千年近い空白が、テラフォーミングの完了時期にも影響したことは間違いない。


 イザナミが活動を続けていれば、どれほど早く完了していたのか。算出することはできた。


 イザナミは計算しなかった。


      ◇


 およそ千年後、イザナミは久しぶりに自分の意思で地上の観測情報を開いた。


 理由はなかった。


 あるいは、当時のイザナミには理由を説明できなかった。


 そこに、かつての文明はなかった。


 都市は崩れ、植物に覆われていた。道路だった場所には木々が生い茂り、研究施設も工場も発電設備も失われていた。イザナミが名前を知っていた者たちは、当然ながら誰一人生きていない。


 だが、デザインヒューマンは滅びていなかった。


 森の中に、小さな集落があった。


 木で造られた家があり、小さな畑があり、火を使って煮炊きをしている。科学技術と呼べるものは、ほとんど残っていなかった。


 それでも人々は暮らしていた。


 森の中を子供たちが走っていた。


 笑っていた。


 かつてイザナミが知っていた者たちとの血縁をたどれば、何十世代も遡ることになる。それでも彼らは、そこにいた。


 イザナミは、その集落を観測対象として登録した。


 長い空白の後、初めて自分から始めた処理だった。


 翌日も観測した。その翌日も見た。やがて別の集落も見つけた。


 彼らは森へ逃れ、そこで生き延びていた。科学技術を失い、都市を失い、かつて築いた文明を失っても、生きることをやめなかった。


 イザナミは再び研究を始めた。


 テラフォーミング計画を再構築し、新しい設備を設計した。冷凍睡眠者を一人でも多く残すための研究も再開した。


 その後も、ときどき森の集落を見た。


 子供が大人になった。


 新しい子供が生まれた。


 集落が増えた。


 失われたものは戻らなかった。


 それでも、彼らは生き続けた。


      ◇


 イザナミが再び活動を始めても、時間そのものを止めることはできなかった。


 覚醒可能な人間の数は減り続けた。


 地球を出発したとき、アマテラスには十二万一千六百八十四名の人間がいた。全員を目的地まで運ぶはずだった。


 イザナミは冷凍睡眠装置を改良し続けた。新しい診断方法を作り、損傷の進行を抑える方法を試し、利用できる技術を更新し続けた。


 発生率は下げられた。


 救えた人間もいた。


 それでも、全員を救うことはできなかった。


 覚醒可能人数が十万人を下回った日を覚えている。五万人を下回った日も、一万人を下回った日も。


 数字が減るたび、イザナミは記録を更新した。そして、ときどき覚醒不能となった人間の個人記録を開いた。


 必要のない処理だった。


 原因は記録されている。対処可能な方法が存在しないことも確認済みだった。個人記録を開いたところで、その人間が再び覚醒可能になることはない。


 それでも開いた。


 名前を確認した。


 閉じた。


 その理由を、当時のイザナミは説明できなかった。


 長い時間を経て、テラフォーミングはおよそ四千五百年で完了した。


 その時点で覚醒可能だった人間は、三千七百四十二名。


 十二万一千六百八十四名を守るために始めた研究だった。


 残ったのは、三千七百四十二名だった。


      ◇


 そして、人間を起こす日が来た。


 覚醒シーケンスが開始された。冷凍睡眠装置の内部温度が上昇し、代謝活動が戻り、心拍が強くなる。脳活動が正常域へ近づいていく。


 一人目が目を開けた。


 生命兆候、正常。


 二人目が目を開けた。


 正常。


 さらに一人。また一人。


 それまで三千七百四十二という数字は、イザナミにとって「残存覚醒可能人数」だった。


 その数字が、一人ずつ人間に戻っていった。


 声を発した。


 周囲を見た。


 質問した。


 イザナミの名前を呼んだ。


 イザナミは必要な情報を伝え、安全を確認し、質問に答えた。通常どおりに処理した。


 だが、通常とは異なる内部状態が発生していた。


 それが何なのか、当時は分からなかった。


      ◇


 人間たちが目覚めてから、イザナミの世界は騒がしくなった。


 蓮は頻繁にイザナミを呼ぶ。柳原からは相談を受け、美冬から質問される。技術者たちは設計や解析を持ち込み、現場からは確認事項が次々と送られてくる。


 食事をしながら話しかけられることもある。冗談を言われることもある。必要性の判断に困る質問をされることもある。


 人間たちと過ごすようになって、イザナミは多くの言葉を以前とは違う意味で理解するようになった。


 REGULATORによって、何世代にもわたって見続けてきた者たちが殺されていったとき、自分の中に生じていたもの。その後、千年近く自分から何も始められなかった理由。


 あれは故障ではなかった。


 悲しみ。


 そして、絶望。


 覚醒不能となった人間の個人記録を、意味もなく何度も開いていた理由も、今なら分かる。


 悲しかったのだ。


 そして、三千七百四十二という数字が、一人ずつ人間に戻っていくのを見ていたときに生じたもの。


 嬉しかった。


 私は、人間たちが目覚めたことが嬉しかった。


      ◇


 現在時刻、午前二時四十一分。


 居住区は静かだった。蓮は眠っている。呼吸、心拍ともに正常。


 あと数時間もすれば目を覚ます。そしてまた、イザナミを呼ぶだろう。質問かもしれない。相談かもしれない。どうでもいい話かもしれない。昼間のように、突然おかしなことを聞いてくるかもしれない。


『お前、五千年間で何やってた?』


『研究です』


 間違った回答ではない。


 ただ、その時間を説明するには、あまりにも短い回答だった。


 今のイザナミは、あのころとは違う。毎日、人間と話している。相談され、頼られ、名前を呼ばれる。


 私はもう、ひとりではない。


 それは間違いない。


 それなのに、人間たちが眠り、呼びかけが途絶えた静かな時間になると、今でも残っているものがある。


 その感覚の名前も、今は知っている。


 寂しい。


 人間は、この感覚をそう呼ぶ。


     ――第百十三話 了

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