第109話 それを知りたい
ヴァルディア領都の門をくぐったとき、ユリウスは馬車の窓から外を眺めていた。
見慣れた街だった。石造りの門の前には領都へ入る荷馬車が列を作り、兵士たちが積み荷を確認している。その先には石畳の大通りが続き、商店や工房、宿屋が軒を連ねていた。
何度も見てきた光景だった。
それなのに、何かが違って見える。
門の手前で、一台の荷馬車が止められていた。商人が役人と言葉を交わし、やがて渋い顔で革袋から硬貨を取り出す。以前なら気にも留めなかった光景を、ユリウスはなぜか目で追っていた。
「どうした」
向かいに座る父、バルガス・ヴァルディアが言った。
「いえ」
ユリウスは窓の外へ視線を戻した。
人間の街を見たからだろうか。
自動で走る乗り物。巨大な建物。見たこともない商品が並ぶ店。そして、地上から宇宙へ伸び始めたBABEL。
何が違うのかは、まだ分からない。
ただ、昨日まで当たり前だったものを、以前と同じようには見られなくなっていた。
「ユリウス」
「はい」
「帰ったら兄と話しておけ。お前が見てきたものを知りたがっていた」
「分かりました」
バルガスはそれだけ言うと、座席へ深く背を預けた。
しばらく黙っていたが、やがて何かを思い出したように呟く。
「……ラーメンか」
「はい?」
「いや、なんでもない」
ユリウスは父を見た。
どうやら父が人間の街から持ち帰ったものは、自分とは少し違うらしかった。
◇
「ラーメンを作れ」
帰還した翌日。
ヴァルディア家の料理長は、領主からそう命じられた。
「……ラーメン、でございますか?」
「そうだ」
聞いたことのない料理だった。
「どのような料理なのでしょう」
「麺だ」
「麺料理でございますね」
「汁に入っている」
「どのような汁でしょうか」
バルガスは腕を組み、しばらく考えた。
「白っぽく濁っていた。かなり濃い」
「何から取った汁か、お分かりになりますか?」
「知らん。だが、イノシシの肉に似た強い旨味があった」
「イノシシですか」
「それだけではない。野菜のような甘みもあったな。それに塩気がかなり強い」
「塩気が?」
「ああ。だが、ただ塩辛いわけではない。濃い汁と合っていた。それと、表面に油が浮いていた」
料理長の表情が変わった。
思っていたより情報がある。
「具は?」
「肉だ。あれもイノシシに近い。それに香草と、緑の葉物野菜が乗っていた」
「他には?」
「茹でた卵もあった」
「なるほど……」
料理長は頭の中で料理を組み立て始めた。
獣肉の旨味を強く出した濁った汁。そこへ野菜の甘みを加え、塩気を強めにする。油を浮かべ、麺を入れ、肉と香草、葉物野菜、茹で卵を添える。
これなら、まったく手掛かりがないわけではない。
「作っているところはご覧になりましたか?」
「見たぞ。目の前で作っていた」
料理長の顔がさらに明るくなった。
「でしたら、手順を覚えておられませんか?」
「まず器に何か入れていた」
「何を?」
「知らん」
「…………その後は?」
「油のようなものも入れていたな。それから濁った汁を注いでいた」
「その油は何の油でしょう」
「知らん」
「最初に器へ入れたものは、液体でしたか?」
「たぶんな」
「色は?」
「赤黒かった気がする」
「味は?」
「それだけ舐めていないから知らん」
「……それはそうでございますね」
「別の鍋で麺を茹でていた。それを掬って、湯を切って器に入れる。そのあと肉や葉物を乗せていた」
「なるほど……」
料理長は考え込んだ。
器に赤黒い液体を入れ、次に何かの油を加える。そこへ白く濁った濃厚な汁を注ぎ、別に茹でた麺を入れて具を乗せる。
手順は分かった。
味の特徴も聞いた。
だが、最初の赤黒い液体が何なのか分からない。油の正体も、濁った汁を何からどう作るのかも分からない。麺についても、見た目以上のことは何も分からなかった。
「……旦那様」
「なんだ」
「これだけ分かれば、似たものは作れるかもしれません」
「そうか」
「ですが、同じものになるかは分かりません」
「食えば分かる」
「私が食べたことのない料理なのですが」
「料理人だろう」
「魔法使いではございません」
それでも命令は命令だった。
料理長は厨房へ戻り、部下たちを集めた。
手掛かりはある。むしろ、思っていたより多い。
問題は、その手掛かりの意味が分からないことだった。
最初の一杯では、イノシシに近い肉と骨を強火で煮込み、野菜を加えて白く濁らせた。塩を強めに利かせ、香草を漬けた油を浮かべる。太めの麺を茹で、焼いた肉と卵、葉物野菜を乗せた。
バルガスは一口食べた。
「違う」
二杯目では肉を変えた。
「違う」
三杯目では汁をさらに濃くした。
「前より遠ざかったぞ」
「…………」
料理長にも意地があった。
最初に器へ入れる赤黒い液体が重要なのではないかと考え、発酵調味料を使った。油の種類を変えた。麺の太さを変え、汁に加える野菜も変えた。肉の焼き方も、卵の火の通し方も試した。
どれも料理としては悪くない。
中には料理長自身が「これはこれで旨い」と思うものさえあった。
しかしバルガスは首を横に振る。
正解を知らない料理長と、正解を食べたことはあるが作り方を知らないバルガス。
試作を重ねるほど、二人とも何が正しいのか分からなくなっていった。
◇
数日後、料理長はついに決心した。
「旦那様。お願いがございます」
「なんだ」
「一度、私を人間の街へ行かせていただけませんでしょうか」
バルガスが顔を上げた。
「何をしに行く」
「ラーメンを食べに、でございます」
「…………」
「旦那様のお話が間違っているとは申しません。むしろ、かなり詳しく覚えておられると思います」
「そうだろう」
「ですが、何を使っているのかが分からないのです」
料理長は切実だった。
「器へ最初に入れる赤黒いものも、油も、濁った汁の作り方も分かりません。麺についても同様です。一度実物を食べ、できれば作っているところも見せていただければ――」
「お前が人間の街へ行っている間、私の食事は誰が作る」
料理長の言葉が止まった。
「副料理長がおりますので」
「お前の料理ではないだろう」
「それは……」
「駄目だ」
「…………左様でございますか」
料理長は頭を下げた。
実のところ、すでに予定まで考えていた。
副料理長へ数日分の献立を渡し、必要な仕込みを済ませておけば、三日か四日は空けられる。一日目に人間の街へ向かい、まず目的のラーメンを食べる。可能なら厨房も見せてもらう。翌日は市場を回り、人間が使う食材を調べる。調理器具を扱う店にも行ってみたい。
人間の街には、様々な商品を一つの建物に集めた巨大な商業施設まであるという。
一度見てみたかった。
三日目には別の店でラーメンを食べる。同じ料理でも店によって違いがあるかもしれない。それを確かめるのも必要だろう。
時間が余れば、人間の別の料理もいくつか食べてみたい。
あくまで調査である。
料理長として必要な調査だ。
その計画は、主人の食事という極めて単純な理由によって消滅した。
◇
それからも試作は続いたが、バルガスの答えは変わらなかった。
違う。
料理長は、ついに再現することを諦めた。
ならば、いっそのこと似せるのをやめてしまおう。
どうせ違うと言われるのなら、中途半端な偽物を作るより、自分が旨いと思うものを作った方がいい。それで駄目なら、今度こそ実物を見てこいと言われるかもしれない。
ただし、不味いものを出すつもりはなかった。それだけは料理人として許せない。
これまでとは逆に、料理長は汁を濁らせまいとした。
選んだのはヴァルディアでも上等とされる岩鶏だった。そこへ香りの強い琥珀茸と、遠く東の海沿いから取り寄せた乾燥海藻を合わせる。決して煮立たせず、時間をかけて味を引き出し、浮いたものを丹念に取り除く。最後に布を通すと、鍋には澄んだ琥珀色の汁が残った。
味付けには、ヴァルディアで古くから作られている発酵調味料を使った。そのまま加えるのではなく、いくつかの材料と合わせて寝かせ、汁とは別に味の基礎を作る。
麺も変えた。
細めに切った麺をわずかに縮れさせると、澄んだ汁をよく拾った。
具には岩鶏の肉と卵。それに領内北部で食べられている、薄い小麦の皮で挽肉を包む料理を小さく作って添えた。中身は岩鶏と細かく刻んだ琥珀茸である。
もはや、バルガスの説明した料理とは似ても似つかないものになった。
◇
夕食の席には、ユリウスもいた。
料理長自ら運んできた器を見て、バルガスが眉を寄せる。
澄んだ琥珀色の汁。その中に細い縮れ麺が沈み、岩鶏の肉と卵、小さな包み料理が添えられている。
「……なんだこれは」
「ラーメンでございます」
「嘘をつけ」
料理長は静かに頭を下げた。
「私が食ったものは、こんなに透き通っていなかったぞ」
「存じております」
「麺も違う」
「存じております」
「こんな包みも入っていなかった」
「それも存じております」
「では、なぜ出した」
「再現できませんでした」
料理長は深々と頭を下げた。
「旦那様がお召し上がりになった料理を、私は見たことも食べたこともございません。何度試しても、結局は似た何かにしかなりませんでした」
「それで諦めたのか」
「はい」
「おい」
「ですので、別のものを作りました」
バルガスは呆れた顔をした。
料理長はその表情を見ながら、ほんの少しだけ期待した。
バルガスは箸を取った。
細い麺を持ち上げ、一口すする。
動きが止まった。
次に汁を飲む。岩鶏を一切れ食べ、小さな包み料理を口へ運ぶ。
「…………」
「旦那様?」
「うまいな」
「…………はい?」
「うまい」
料理長は黙った。
横で食べていたユリウスも、もう一度汁を口へ運んだ。見た目は驚くほど澄んでいるのに味は深い。岩鶏の旨味のあとから琥珀茸の香りが立ち、さらに海藻の味が静かに残る。
「これは確かに旨いですね」
「そうだろう」
なぜかバルガスが得意そうに言った。
料理長の頭の中から、市場と調理器具の店と巨大な商業施設が少しずつ遠ざかっていった。
バルガスが麺を持ち上げる。
「なぜ麺をこんな形にした?」
「その方が、汁を連れてきます」
「なるほど」
また食べる。
どう見ても気に入っている。
「これはもう、人間の街で食ったラーメンではないな」
「左様でございます」
「だが、ラーメンなのだろう?」
料理長は一瞬考えた。
「……旦那様がお決めになるのでしたら」
「なら決まりだ」
バルガスは満足そうに器を見た。
「ヴァルディア式ラーメンと呼べ」
「……左様でございますか」
「よくやった」
「ありがとうございます」
料理長は頭を下げた。
領主から料理を絶賛された。
料理人として喜ぶべきことだった。
少なくとも、そういうことになっている。
「父上」
ユリウスが口を開いた。
「なんだ」
「これを、人間の街で出してみてはいかがでしょう」
料理長が顔を上げた。
バルガスもユリウスを見る。
「人間の街で?」
「はい。人間の街で食べたラーメンから始まって、出来上がったものはまったく違う料理になったのでしょう?」
「そうだな」
「なら、人間がこれを食べてどう思うのか、知りたくありませんか?」
バルガスは黙った。
そのまま汁を一口飲む。
「……面白いな」
料理長の目に光が戻った。
「料理長」
「はい」
「人間の街で店を出せると思うか?」
「できます」
返事は早かった。
店を出すとなれば事前の調査が必要になる。厨房設備を確認し、食材の入手経路も調べなければならない。現地の人間がどれほど食べるのかも確認する必要がある。
今度こそ、正当な仕事だった。
「では、弟子の中から腕のいい者を一人選べ」
「…………」
「人間の街へ送る」
「旦那様」
「なんだ」
「私が参った方が確実かと」
「お前は残れ」
「…………」
「店を出すだけなら、お前が行く必要はないだろう」
「しかし、味の調整などもございます」
「お前がいなくなったら、私の食事は誰が作る」
料理長は黙った。
「……承知いたしました」
ユリウスは笑いそうになり、口元へ手を当てた。
◇
その夜、ユリウスは父の執務室を訪れた。
バルガスは机の上に広げた書類から顔を上げる。
「なんだ」
「父上。お願いがあります」
「金ならないぞ」
「まだ何も言っておりません」
「ではなんだ」
ユリウスは少しだけ迷った。
人間の街から戻って以来、頭の中に引っかかっているものがある。
BABELを見たときにも感じた。領都へ戻ってからも消えなかった。そして今日、父と料理長のやり取りを見て、また少し形を変えた。
だが、まだ言葉にはできない。
「人間の街へ行かせてください」
バルガスが眉を上げた。
「何をしに行く」
「学びに」
「何をだ?」
ユリウスはすぐには答えなかった。
「……それを、知りたいのです」
――第百九話 了
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