第104話 独りのグルメ ヴァルディア領編
井ノ原一郎は、小型車を道端へ寄せた。
向こうから来た一団に、見覚えのある顔があったからだ。
「柳原さん?」
声をかけると、柳原もこちらに気づいた。
「井ノ原さん。こんなところまで?」
「仕入れです。この先の町に、面白い物があると聞きまして」
柳原の後ろには、何人ものエルフがいた。
どれも身なりがいい。
旅商人や冒険者には見えない。服の仕立ても装飾品も、井ノ原がこれまで見てきたエルフとは明らかに違う。
貴族か、その近しい者たちだろう。
「柳原さんたちは?」
「少し仕事で」
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
柳原の仕事なら、自分には関係のない話だろう。
別れ際、柳原が思い出したように言った。
「井ノ原さん」
「はい?」
「ここ、食べ物は当たりですよ」
「食べ物ですか?」
「ええ」
妙に断言する。
「分かりました。ちょうどまだ食べていないので」
井ノ原は軽く頭を下げた。
再び車を走らせる。
目的地はヴァルディア領。
別に食事をしに来たわけではない。
仕入れである。
井ノ原一郎は商人なのだ。
とはいえ。
「そこまで言われると、ちょっと気になりますね」
町は、もうすぐだった。
最初に止められたのは、領境の関所だった。
「領外の者だな」
「はい。人類居住区から来ました」
「通行料を」
「はい」
井ノ原は素直に払った。
領地を越えれば、街道や橋で金を取られることはある。
珍しいことではない。
役人が小型車を見る。
「それは荷車か?」
「車です」
「クルマ?」
「……荷車に近いものだと思ってください」
「なら車両通行料も必要だ」
「そうなんですか?」
「ああ」
「分かりました」
払った。
「商売か?」
「仕入れです」
「なら領外商人の入領料もいる」
「…………」
もう一度財布を開いた。
「はい」
一つ一つは安い。
まだ気にするほどではなかった。
町へ入る時にも払った。
商人登録料。
車両入市料。
市場の近くへ車を停めれば駐車料。
市場へ入れば利用料。
どれも大した金額ではない。
大した金額ではないのだが。
「ずいぶん細かいですね……」
誰に言うでもなく呟いた。
市場そのものは面白かった。
かなり大きい。
野菜。
果物。
香草。
織物。
木工品。
陶器。
燻製肉。
腸詰め。
チーズに似た発酵食品。
井ノ原の目が自然と商人のものへ変わった。
「これはいいですね」
品物の種類が多い。
しかも品質がいい。
井ノ原は店を回った。
「これはどのくらい保存できます?」
「冬を越しても平気だ」
「まとめて買えば少し安くなります?」
「十個以上なら引くぞ」
「では二十お願いします」
次。
「この布、ほかの色はありますか?」
「奥にある」
「見せてもらえます?」
次。
「この燻製、こっちとは香りが違いますね」
「使ってる葉が違う」
「味見しても?」
「いいぞ」
一切れもらう。
「……おいしいですね」
香草の香りが強い。
塩気も保存食としては控えめだ。
人類居住区でも売れる。
別の町へ持っていってもいい。
値段も悪くない。
ただし、領外へ商品を持ち出す場合は別途申告が必要だと言われた。
一定量を超える商品には、また別の手続きがあるらしい。
「なるほど……」
端末に仕入れ値を入力する。
予想販売価格。
輸送費。
各種料金。
利益は出る。
ちゃんと出る。
ただ、思ったより減る。
「物はいいんですよね……」
本当にいい。
値段も悪くない。
税や料金を除けば。
市場を歩き回っているうちに、かなり時間が経っていた。
井ノ原は足を止めた。
「頭が……」
額を押さえる。
「頭がぼうっとする……」
朝から何回財布を開いたのか、もう分からない。
しかも名前が全部違う。
「糖分を……」
脳が糖分を求めている。
ちょうど目の前に飲み物を出す店があった。
「すみません」
「いらっしゃい」
「あれは何です?」
大きな透明の瓶に、赤い液体が入っていた。
「赤実の蜜だ。水で割ってある」
「甘いです?」
「甘いぞ」
「ください」
即決した。
店内の席に座る。
運ばれてきた飲み物を一口。
「……おお」
甘い。
だが、それだけではない。
しっかりした酸味がある。
果実の香りの奥から、何かの香草がわずかに抜けていく。
冷たい液体が喉を通った。
「これはいいですね」
もう一口。
疲れた頭に染みる。
生き返る。
井ノ原は残りをゆっくり味わった。
「ごちそうさまでした」
「銅貨四枚だ」
「はい」
四枚出した。
「あと席料が一枚」
「……席料?」
「中で飲んだからな」
「ああ。そういう店なんですね」
もう一枚。
「領外客加算が一枚」
井ノ原の手が止まった。
「それは?」
「領外から来た客にかかる」
「お店が取っているんですか?」
「いや。領主様へ納める分だ」
「……なるほど」
もう一枚出した。
「それと飲食税」
「まだあるんですか?」
思わず聞いてしまった。
店主が困った顔をする。
「俺に言わないでくれよ。決まりなんだ」
「あ、すみません。あなたに文句を言っているわけではないんです」
最後の一枚を置いた。
全部合わせても、目玉が飛び出るような額ではない。
払える。
一つ一つは小さい。
問題はそこではない。
井ノ原は店を出た。
数歩進んで、振り返った。
「なんなんですか、この町……」
少し考える。
「……おいしいんですよね」
そこが一番困る。
午後も仕入れを続けた。
燻製肉。
保存用のソース。
香草。
果実の蜜。
発酵食品。
染色された布。
見れば見るほど、いい商品が出てくる。
この町の生産者は腕がいい。
食べ物に関しては特にそうだった。
気づけば、小型車の荷室はかなり埋まっていた。
井ノ原は端末に並んだ数字を見る。
「これ、もう少し簡単なら相当儲かると思うんですけどね……」
遠くから商人が来ないのだとすれば、品物のせいではない。
少なくとも自分なら、そう判断する。
端末を閉じた。
その時。
ぐう。
「…………」
腹が鳴った。
そういえば、甘い飲み物しか口にしていない。
周囲を見回す。
市場の奥から、肉の焼ける匂いが流れてきた。
香ばしい脂。
香草。
少し焦げたような甘い匂い。
腹がもう一度鳴った。
「腹が……減った……」
仕事はいったん終わりだ。
飯にしよう。
匂いを辿って入ったのは、小さな食堂だった。
「おすすめは何です?」
「肉ならこいつだな」
店主が壁の札を指す。
「では、それをお願いします」
「煮込みは?」
「お願いします」
「パンは?」
「それも」
「野菜は?」
「お願いします」
店主が少し笑った。
「腹減ってるな」
「はい」
かなり。
最初に煮込みが来た。
大きく切った肉と根菜。
湯気と一緒に香草の匂いが立ち上る。
スプーンですくう。
一口。
「……うまい」
思わず声に出た。
肉の味が濃い。
それなのに脂っぽくない。
何種類か入っている香草が、後味を軽くしている。
根菜には出汁が芯まで染み込んでいた。
パンをちぎる。
スープへ浸す。
食べる。
「これもいいですね」
次に焼いた肉が来た。
厚い。
表面にはしっかり焼き色がついている。
横には赤黒いソース。
ナイフを入れる。
肉汁が出た。
まずはそのまま。
「うん」
肉自体がうまい。
次はソースをつける。
「…………」
井ノ原の手が止まった。
甘い。
次に酸味。
そのあとから香辛料の辛味が追ってくる。
肉の脂が一気に軽くなった。
もう一切れ。
今度はたっぷりつける。
「これは……」
店主を見る。
「このソース、売っています?」
「ああ」
「持ち帰れます?」
「市場の南側に作ってる工房がある」
「保存はどのくらいです?」
「封を切らなきゃ冬を越すぞ」
井ノ原の目が変わった。
「それはいいですね」
人類居住区で売れる。
肉だけではない。
魚にも合いそうだ。
焼いた野菜でもいけるかもしれない。
「場所を教えてもらえます?」
「ああ」
「次に来た時、寄ってみます」
井ノ原はもう一切れ、肉を口へ運んだ。
うまい。
柳原が勧めた理由が分かった。
皿には、ほとんど何も残らなかった。
「ごちそうさまでした」
会計には当然のように、いくつか料金が加わった。
井ノ原はもう聞かなかった。
料理がうまかったので。
車へ戻る。
荷室には、今日仕入れた品物がぎっしり詰まっている。
「仕事にはなりましたね」
利益も出る。
たぶん。
計算が全部合っていれば。
井ノ原は運転席へ乗り込んだ。
町の出口へ向かう。
「止まれ」
「はい」
やはり止められた。
役人が荷室を開ける。
「ずいぶん買ったな」
「ええ。思ったよりいい物が多かったので」
役人が帳面を開いた。
「燻製肉。果実加工品。発酵食品。布……」
「はい」
「持出料はこれだ」
「はい」
払う。
「加工品が規定量を超えている。こっちは別だ」
「はい」
払う。
「それから――」
「はい」
井ノ原は財布を開いたまま待った。
役人が顔を上げる。
「まだ何も言ってないぞ」
「すみません。もう慣れてきました」
「……そうか」
最後の料金を払った。
「通っていいぞ」
「ありがとうございます」
荷室を閉じる。
ようやく終わった。
町を出ようとしたところで、井ノ原は乗合馬車の発着所に目を留めた。
見覚えのある赤い帽子がある。
先端の尖った、古い形のレッドキャップ。
丸眼鏡。
「あれ?」
向こうも気づいた。
「イノハラか」
「ガルクさん。こんなところで何してるんです?」
「見れば分かるだろ。帰るところだ」
ガルクは乗合馬車を指した。
その横には大きな包みがいくつも置かれている。
ガルクの視線が井ノ原の小型車へ移った。
「お前、人間の町へ戻るのか?」
「はい。そのつもりです」
「ちょうどいい。乗せてくれ」
「構いませんよ」
ガルクはすぐに大包みを持ち上げた。
一つ。
二つ。
三つ。
「……ずいぶんありますね」
「仕入れだ」
「ガルクさんもですか」
「ああ」
荷室の空いた場所へ押し込む。
「ここでしか手に入らん物がある。面倒でも来るしかない」
「分かります」
井ノ原は大きく頷いた。
ガルクが手を止める。
「何がだ?」
「いえ。今日一日で、よく分かりました」
ガルクはそれ以上聞かなかった。
二人を乗せた小型車は、ヴァルディアの町を離れた。
山道へ入る。
夕暮れが近づき、木々の影が長く伸びている。
ガルクは助手席。
後ろには二人分の商品。
「ガルクさんは、あの町によく行くんです?」
「必要な時だけだ」
「やっぱり」
「何だ」
「いえ」
井ノ原は前を向いた。
「物はいいんですよね」
「ああ」
「食べ物もおいしいですし」
「ああ」
「でも、できれば頻繁には行きたくないですね」
「ああ」
妙に話が合った。
山道が細くなった。
片側は斜面。
反対側には深い森。
その先に、人影があった。
「イノハラ」
「はい?」
「止めろ」
井ノ原も気づいた。
六人。
エルフとゴブリンが混じっている。
服は汚れ、手には剣や槍。
旅人には見えない。
道いっぱいに広がっている。
井ノ原は車を止めた。
一人のエルフが前へ出た。
「降りろ」
井ノ原は窓越しに男を見る。
「何でしょう?」
「この先を通りたければ、通行料を出せ」
「…………」
井ノ原は黙った。
今日一日。
何度聞いただろう。
「聞こえなかったか?」
「いえ」
井ノ原は額を押さえた。
「……ここでも払うんですか?」
「は?」
盗賊が止まった。
「朝からずっと払ってるんですよ。通行料とか、車両通行料とか、入市料とか、登録料とか、持出料とか」
「何の話だ?」
「こちらの話です」
助手席からガルクが言った。
「イノハラ」
「はい?」
「こいつらは役人じゃないぞ」
「それは分かっています」
「なら払うな」
「もちろんです」
盗賊たちが顔を見合わせた。
「ふざけてるのか!」
「いえ。今日は本当にもう、通行料という言葉を聞きたくないだけです」
エルフが剣を抜いた。
「降りろ!」
井ノ原は前を見る。
道は塞がれている。
横を見る。
街道の脇には、石だらけの斜面が続いていた。
「ガルクさん」
「何だ」
「荷物、ちゃんと固定してあります?」
「ああ」
「少し揺れますよ」
「構わん」
「では」
井ノ原はハンドルを切った。
「おい!」
小型車が街道を外れた。
斜面へ入る。
四つの車輪が別々に地面を捉える。
大きな石を越える。
泥へ入る。
片側の車輪が持ち上がる。
それでも止まらない。
「なっ……!」
盗賊たちが慌てて追ってくる。
井ノ原は速度を上げる必要すらなかった。
木々の隙間を抜ける。
斜面を横切る。
そのまま盗賊たちを大きく迂回した。
少し先で街道へ戻る。
バックミラーの中で、六人が呆然と立っていた。
「…………」
井ノ原は息を吐いた。
「最後の最後まで通行料ですか……」
「あれは払わなくていい」
「分かっていますよ」
ガルクは丸眼鏡を押し上げた。
「変な奴だな」
「今日は疲れたんです」
小型車は何事もなかったように山道を走り続けた。
しばらくして。
「ガルクさん」
「何だ」
「その大きな包み、何を仕入れたんです?」
「燻製肉だ」
「燻製肉?」
「ああ」
「もしかして、黒っぽい香草をまぶしたやつですか?」
ガルクがこちらを見る。
「食ったのか」
「市場で味見しました。おいしかったですね」
「だから買った」
「どこで売るんです?」
「ベルグだ。人間の町でも売れるなら売る」
「売れると思いますよ」
井ノ原は前を向いた。
今日一日を思い返す。
通行料。
登録料。
市場利用料。
持出料。
席料。
名前も思い出せない細かな料金。
最後には盗賊まで通行料と言ってきた。
「……しばらく来たくないですね、この領地」
「そうか」
「はい」
車内が静かになった。
山の向こうへ日が沈み始めている。
井ノ原はハンドルを握ったまま、少し考えた。
「でも、あの肉料理はもう一回食べたいですね」
ガルクが横を見る。
「どっちなんだ」
「それとこれとは別です」
小型車は荷室いっぱいの商品を載せ、夕暮れの街道を人類居住区へ向かって走っていった。
――第百四話 了




