第103話 増える領主
ラウゼン領へ向かう飛行艇の窓から、柳原は眼下を流れる川を眺めていた。
川沿いに畑が広がり、その間を細い街道が縫っている。
「見えてきた。あれが領主館だ」
隣に座るエドガルが指を向けた。
前日に続き、今日も彼は人類側の交渉団に同行している。
ほどなく飛行艇は領主館から少し離れた草地へ降りた。
グレゴール・ラウゼンは、挨拶が終わるなり本題へ入った。
「百七十二人」
「はい」
「我が領から、お前たちのところで働くことになった人数だ」
柳原の前には、グレゴールが用意した紙が何枚も置かれている。
「怪我をした場合、家族を連れていく場合、税、相続、向こうで犯罪を犯した場合――確認したいことはいくらでもある」
「そのために来ました」
「では一つずつ聞こう」
グレゴールは紙へ目を落とした。
「働き始めた者が、仕事を辞めたいと言ったら?」
「本人の意思で辞められます」
「領地へ帰りたいと言えば?」
「帰れます。そのための手続きも今回決めましょう」
「では逆だ」
グレゴールが顔を上げた。
「領主である私が、帰ってこいと命じた場合は?」
柳原は少し考えてから答えた。
「本人が帰ることを望むのであれば、問題ありません」
「望まなければ?」
「雇用を続けます」
「私の命令でもか」
「はい」
グレゴールの指が止まった。
「……本人の意思が優先されるのだな」
「我々が雇うのは、ラウゼン領の百七十二人という集団ではありません。一人一人の個人ですから」
しばらく沈黙があった。
エドガルは何も言わず、二人を見ている。
「分かった」
グレゴールは紙に何かを書き加えた。
「その原則は書面にも入れてくれ」
「そうしましょう」
その後も、事故の補償や家族の扱い、税、相続、司法について確認が続いた。
人類側だけで決められないものは、無理に結論を出さず、双方で制度を整える項目として残した。
やがてグレゴールが紙を置いた。
「アルベルトから、お前たちのことは聞いていた」
「アルベルトをご存じなんですか?」
柳原が聞くと、グレゴールは怪訝そうな顔をした。
「甥だ」
「……甥?」
「弟の息子だ」
柳原はエドガルを見た。
「知っていました?」
「当然だろ」
「私は初耳ですよ」
「本人が言わなかったのか?」
「聞いてません」
グレゴールが小さく息を吐いた。
「あいつは昔から家の話をしたがらん」
なるほど、と柳原は妙に納得した。
「アルベルトは人間を信用しているようだ。だが、それと百七十二人の領民を預ける話は別だ」
「ええ。それでいいと思います」
柳原が答えると、グレゴールは一度だけ頷いた。
雇用の話が終わると、今度は領内の地図が広げられた。
道路、橋、河川の護岸。
人類居住区との往来が増えることを考えれば、手を入れたい場所はいくつもあるという。
「まとめて調査しましょう」
人類側の技術者が答えた。
「川については領境で切らず、下流まで見ます」
「下流はエドガル領だ」
「なら、そちらも含めてです」
「うちからも人を出す」
エドガルが言った。
グレゴールは地図の別の場所を指した。
「それより、私が一番どうにかしたいのはここだ」
山沿いに広がる農地だった。
「夏になると水が足りなくなる。水源は向こうの谷にあるんだが――」
指が少し離れた場所へ移動する。
「間に岩山がある」
技術者は地図を見た。
「なら、下を通しましょう」
「……何を?」
「水路です」
グレゴールが技術者を見る。
「岩山の下だぞ」
「はい」
「掘るのか?」
「その方が早ければ」
「岩だぞ?」
「ええ」
技術者にとっては、どうやら何の問題もないらしい。
グレゴールは地図へ視線を戻した。
「水が来れば、向こうの土地も畑にできる」
「まず測量します。条件が合えば、まとめて整備できます」
「……頼む」
返事までに、少しだけ間があった。
領主館へ戻ると、グレゴールは通信リングの追加も求めた。
川沿いの村や街道の詰所など、緊急時に連絡が必要な場所へ置きたいという。
「使用者と用途を登録していただければ、必要な分は用意できます」
「それでいい。洪水が起きてから馬を走らせるより、よほどましだ」
こうしてラウゼン領での話はまとまった。
その日のうちにエドガルを領地へ送り、人類側の交渉団は人類居住区へ戻った。
翌朝。
再びエドガルを迎えに行き、フェルディン領へ向かおうとしたところで、彼のリングが鳴った。
「グレゴールだ」
しばらく話していたエドガルが、柳原を見る。
「一緒に行きたいそうだ」
「グレゴール殿が?」
「ああ。拾ってくれってさ」
飛行艇はラウゼン領へ進路を変えた。
昨日と同じ草地には、すでにグレゴールが待っていた。
「他の領がどういう話をするのか聞いておきたい」
乗り込んできた彼が言う。
「道も川も、領境だけで考えられるものではないからな」
「なるほど」
「それと」
グレゴールは空いていた窓際の席へ座った。
「昨日は飛行艇に乗れなかった」
エドガルが振り向く。
「そっちが本当の理由じゃないのか?」
「両方だ」
飛行艇が浮かび上がった。
グレゴールはすぐ窓の外を見た。
フェルディン領主オスカーとの話は早かった。
「昨日、グレゴールから聞いた。基本的なところは分かった。うちで違う部分だけ詰めればいい」
彼が気にしたのは、むしろ今後の道路整備だった。
「人間の町へ向かう道だけ良くして、商人が全部エドガルの町へ流れるような真似はするなよ」
「それの何が悪い」
エドガルが言った。
「お前には悪くない」
柳原は笑いながら頷いた。
「人と物の流れまで調べてから計画しますよ」
「それならいい」
話を終えると、オスカーまで飛行艇についてきた。
「次はリューデンだろ。私も行く」
断る理由もなかった。
リューデン領主マティアスは、飛行艇から降りてきた三人の領主を見て目を瞬いた。
「……ずいぶんな顔ぶれだな」
「成り行きで同行されています」
柳原が答える。
「そうか」
マティアスはそれ以上聞かなかった。
こちらも話は早い。
グレゴールからある程度の内容を聞いていたこともあり、確認は自領に関係する部分だけだった。
「うちにも水が足りない土地がある。ラウゼンでやるという調査、こちらでも頼めるか?」
「もちろん調査はできます」
「なら頼む」
そして会談が終わると、マティアスも立ち上がった。
「次はヴァルディアだな」
「ええ」
「なら私も行く」
柳原はもう驚かなかった。
ヴァルディア領主バルガス・ヴァルディアは、柳原の後ろから四人の領主が入ってくるのを見るなり眉を寄せた。
「……なぜ全員いる」
「途中から同行されまして」
「聞いていた人数と違うぞ」
もっともな話だった。
バルガスはすぐに後ろの使用人を呼んだ。
「客が四人増えた。席を用意しろ。料理も同じものを出せ」
「かしこまりました」
「余り物で済ませるなよ」
念まで押してから、バルガスは柳原へ向き直った。
「まったく。来るなら先に言え」
「申し訳ありません」
豊かな腹を上質な上着に収めた男だったが、身なりは整っている。顔立ちも端正で、太っていることを除けば隙がない。
そして、出された料理はうまかった。
「これは……」
柳原が肉を口にして思わず呟くと、バルガスがすぐに反応した。
「分かるか?」
「ええ。かなり」
「三日漬けてある。二日では香りが浅い。四日では肉の味が落ちる」
「相変わらず、そこだけは細かいな」
エドガルが言った。
「そこだけとは何だ」
バルガスは不満そうだった。
食事のあと、本題へ入った。
「我が領からも百人以上、お前たちのところで働くことになっている」
「ええ」
「一度にそれだけの働き手が領外へ出る。税の扱いも変わるし、村によっては人手も減る」
バルガスは指を組んだ。
「それで、こちらには何がある?」
「雇用される方への賃金は、本人へ直接支払います」
「それは分かっている」
「ただ、領地側にも手続きや人の移動に伴う負担は出るでしょう。そのための協力については別に相談できます」
「銀は?」
「量によります」
「鉄、農具、布は」
「用意できます」
「人間の保存食は?」
エドガルが横を見る。
「最後のはお前が食いたいだけだろ」
「領内に流通させる前に、領主が品質を確認する必要がある」
「便利な言葉だな」
柳原は笑った。
「ただし、一人につき銀何枚、という話にはしませんよ」
「人を売るわけではない、か」
「ええ」
「分かった。なら品物で話を詰めよう」
バルガスはあっさり引いた。
「お前たちは何を頼んだ?」
今度は四人の領主へ聞く。
「川と用水を見てもらっている」
グレゴールが答えた。
「私は街道だ」
「うちも似たようなものだ」
オスカーとマティアスが続く。
バルガスは少し考えた。
「私は銀や品物の方がいい」
「必要なら、ヴァルディア領の道路や水利も調査しますよ」
柳原が言った。
「必要になったら頼む」
それで話は決まった。
「そうだ、エドガル」
バルガスが思い出したように言った。
「娘の件は考えたか」
「まだ言ってるのか」
「我が次男をそちらへ婿入りさせる話だ」
「あいつなら今、バベルで働いてるぞ」
バルガスが止まった。
「……何?」
「本人がやりたいと言ったから許した」
「領主の娘を働かせているのか?」
「本人が働きたいって言ったんだ」
「だからといって縁談がなくなるわけではない」
「なら、本人同士で話させろ」
エドガルはあっさり返した。
「娘の夫を決めるのは俺じゃない」
バルガスは納得していない顔をしたが、それ以上は言わなかった。
柳原は口を挟まなかった。
ただ、エドガルが娘のBABEL勤務を認めた理由が、本当にそれだけなのかは少し怪しいと思っていた。
五人の領主が同じ卓についている。
柳原は、この機会を逃す理由はないと考えた。
「皆さん。一度、人類居住区へいらっしゃいませんか」
「我々が?」
オスカーが聞いた。
「ええ。皆さんの領民が、これから働き、暮らすことになる場所です。住居や仕事場、病院などを実際に見ていただきたい」
「バベルも見られるか?」
マティアスが尋ねた。
「もちろんです。建設現場も。それから完成した状態も」
「まだ完成していないのだろう?」
「VRで体験できます」
「ぶいあーる?」
エドガルが口を挟んだ。
「見た方が早い」
グレゴールが彼を見る。
「お前は見たのか?」
「ああ」
「どうだった?」
「説明できん」
「何だそれは」
「だから見ろ」
エドガルはそれ以上説明する気がないらしい。
柳原は五人を見回した。
「お一人で来ていただく必要はありません。ご家族でも、跡を継ぐ方でも、側近や護衛でも。普段どおり必要な方を連れてきてください」
「何人までだ?」
「人数が分かれば、それに合わせて飛行艇を用意します」
「なら息子を連れていこう」
オスカーが言う。
グレゴールも頷いた。
「百七十二人が行く場所だ。家の者にも見せておきたい」
「私もそうしよう」
マティアスが続いた。
バルガスだけが少し考えている。
「どうしました?」
柳原が尋ねた。
「いや」
バルガスはエドガルを見る。
「バベルに、お前の娘がいるんだったな」
「いるぞ」
「なら次男も連れていく」
「勝手にしろ」
「それと」
バルガスは柳原へ向き直った。
「人間の町には、うまいものはあるのか?」
「ありますよ」
「なら問題ない」
「何の問題だ」
エドガルの声が飛んだ。
ヴァルディア領を出たところで、街道の向こうから角張った小型車が走ってきた。
荒れた道にもかかわらず、ほとんど車体を揺らさず柳原たちの前で止まる。
窓が開いた。
「あれ、柳原さん?」
「井ノ原さん。こんなところで何を?」
「仕入れですよ。面白い物があるって聞いたんで」
「でしたら、食べ物を見ておくといいですよ」
「食べ物?」
「かなりおいしいです」
井ノ原の目が変わった。
「へえ」
「肉は本当にうまかったぞ」
エドガルも付け加える。
「それは見ておかないとな」
井ノ原は笑って手を上げると、そのままヴァルディアの町へ向かって走っていった。
帰路では、それぞれの領地へ領主たちを送り届けた。
最後にエドガルを降ろす。
「日が決まったら連絡してくれ」
「ええ。人数もお願いします」
「分かった」
エドガルは手を上げ、飛行艇から離れた。
扉が閉じる。
機体は夕暮れの空へ静かに上昇した。
次にこの飛行艇が辺境を回る時は、おそらく今日よりずっと賑やかになる。
柳原は窓の外へ目を向けた。
飛行艇はそのまま、人類居住区へ向かった。
――第百三話 了
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