第101話 交渉の始まり
扉の向こうには、広大な空間が広がっていた。
緩やかに湾曲する通路。高い天井。壁面には見慣れない文字や図形が浮かび、巨大な窓の向こうには青い星がある。
先ほどまで足元にあった大地が、今は窓の外に浮かんでいた。
完成後のバベル軌道施設。
もちろん、本物ではない。
人間のいう仮想現実だ。
だが床の硬さも、歩く者たちの足音も、窓の向こうにあるEDENの青さも、幻と呼ぶにはあまりに現実的だった。
「ここでは、どれほどの者が働く」
エドガルが尋ねた。
「まだ確定していません。かなり自動化できますが、人に任せる仕事も残ります」
「例えば」
「旅客対応、医療、保安、設備管理、貨物管理。緊急時には人の判断が必要です」
通路の向こうを、人間とエルフが並んで歩いていた。
完成後を想定した光景らしい。
「昨日来た者たちも、ここで働くのか」
「希望と適性が合えば」
「ミレアも?」
「可能性はあります。ただ、軌道上とは限りません」
エドガルが柳原を見る。
「何に向いているかは、もう調べたのだろう」
「本人には説明します」
「私には?」
「それはミレアさんから聞いていただければ」
エドガルの眉がわずかに動いた。
「私は父親だぞ」
「承知しています」
「アルセリア家の当主でもある」
「それも」
それ以上は言わなかった。
気に入らない。
だが、この男が自分を軽んじているわけではないことも分かり始めていた。
人間は、ミレアをまずミレアとして扱っている。
それだけのことなのだろう。
エドガルは歩きながら質問を続けた。
どこで暮らす。
食事はどうする。
休みはあるのか。
地上へ戻ることはできるのか。
事故が起きればどうする。
柳原は一つずつ答えた。
しばらくして、エドガルが別のことを尋ねた。
「応募者は四百九十七人だったな」
「はい」
「出身地は分かっているのか」
「把握しています」
すぐに柳原の耳へ、IZANAMIの声が届いた。
『四百九十七名全員について、現在の居住地および出身領を照合済みです。王家直轄領および複数の貴族領からの応募を確認しています』
「アルセリア領の者もいるな」
「います」
柳原が人数を告げる。
エドガルは少し考えたあと、肩の力を抜いた。
「その程度なら、うちでは問題にならん」
「止めないのですか」
「本人が働きたいと言うならな」
「領地を離れても?」
「一人二人出ていった程度で困るような領地ではない」
エドガルはそう言ってから、通路の先へ視線を向けた。
「だが、お前たちはこれで終わりではないのだろう」
「ええ」
「バベルだけでも、まだ人が要る」
「はい」
「人間の町でも働いてほしい」
「人手は足りていませんから」
「なら話は別だ」
エドガルは足を止めた。
「同じ村から若い者が二人抜けるのと、二十人抜けるのでは違う」
「でしょうね」
「畑もある。森もある。水路も直さねばならん。年寄りや子供だけでは村は回らん」
柳原は黙って聞いた。
「領民が出て行くこと自体が問題なのではない。残された者が暮らせなくなるのが困る」
柳原は小さく頷いた。
「だからこそ、こちらから各領へ出向くことは避けていました」
「なぜだ」
「王家とすら正式な関係がありません。その状態で我々が各領を回って、人を雇わせてほしいと持ちかければ、別の意味を持ちかねません」
エドガルは少し考えた。
「……それはそうだな」
「募集すること自体は公にしました。ですが、応募するかどうかはエルフの皆さんに任せる。その先はこちらから動かない方がいいと判断していました」
「だが、四百九十七人も来た」
「ええ」
柳原は苦笑した。
「もう、何もしないというわけにもいかなくなりました」
エドガルは再び歩き出した。
「アルセリアでは、村が困れば領主家が出す」
「出す?」
「食料だ。金も必要なら出す。水路が壊れれば直す。冬を越せぬ家があれば面倒を見る」
柳原が少し驚いた顔をした。
「少なくとも、うちはそうしてきた」
「領主側が領民を支えるんですね」
「領地が潰れて困るのは領主も同じだ」
エドガルは鼻を鳴らした。
「まあ、そう考えない家もあるがな」
その一言だけで終わった。
柳原の耳には再びIZANAMIの声が入る。
『一部領地では、今回の応募率に偏りがあります』
柳原は目だけをわずかに動かした。
『詳細は後ほど提示可能です』
今ここで聞く必要はない。
「一人二人なら好きにすればいい」
エドガルが言う。
「だが、これを王国中で続けるなら、領主たちと話をしておけ」
「そうするべきでしょうね」
「それと」
エドガルが柳原を見る。
「領主の許可だけで全部決めるつもりもないのだろう」
「ありません」
「だろうな」
「ミレアさん本人が残ることを望んでいる以上、我々だけの判断であなたに引き渡すことはできません」
エドガルの目が細くなる。
「ですが、アルセリア家や王国の法を無視して、こちらだけで雇用を確定するつもりもありません」
エドガルはしばらく黙った。
「……そうか」
「我々は後から来た側ですから」
「それを分かっているならいい」
声は少しだけ柔らかくなった。
「ならば、話し合いだな」
「ええ」
「だが、働き手が抜けて困る村もある」
「はい」
「なら、その分を別のもので補えないか」
柳原がエドガルを見る。
「別のもの?」
「人間の技術だ」
「技術ですか」
「北の村に、毎年水で苦労しているところがある。川はあるが、畑より低い」
「水を汲み上げればいい」
「できるのか」
「現地を見ないと断言はできませんが、おそらく」
エドガルは数秒黙った。
「……簡単そうに言うな」
「すみません」
「謝るな」
柳原が少し笑った。
「若い者が外へ働きに出ても、水汲みに何人も取られなくなるなら、村は回る」
「なるほど」
「そういう話なら、領主側も聞く」
「政府で検討してみます」
「水だけではないぞ」
「ええ」
「道や橋もある。食い物を長く保つ方法もあるだろう」
「あります」
「病を治す技も」
「ありますが、それは慎重に扱う必要があります」
「なら、それも含めて話せばいい」
エドガルはそこで一度言葉を切った。
「交渉とはそういうものだろう」
「その通りです」
しばらく歩いたあと、エドガルが何気なく尋ねた。
「王家とは、どこまで話している」
「エルフ王家ですか」
「そうだ」
「正式な接触は、まだありません」
エドガルの足が止まった。
「一度も?」
「はい」
「使者も、書状もないのか」
「ありません」
沈黙が落ちた。
柳原の耳へ、IZANAMIの声が届く。
『王家が諸侯に対し、人類との敵対を避けるよう指示していることは確認済みです』
柳原は表情を変えなかった。
『ただし、その判断根拠は特定できていません』
「……妙だな」
エドガルが呟いた。
「何がです?」
「王家だ」
エドガルは柳原を見る。
「我々は、人間と敵対するなと言われている」
「かなり強く?」
「ああ」
柳原が少し考える。
「それなのに、王家自身は我々へ何も聞いてこない」
「そうだ」
今度は柳原も黙った。
『既知情報のみでは、王家の判断を十分に説明できません』
IZANAMIの声が続いた。
『未知の情報源を保有している可能性があります』
柳原は返事をしなかった。
「人間が空から来たことも、町を造ったことも知っている」
エドガルが言う。
「エルフが出入りしていることもだ」
「でしょうね」
「それでも何も言ってこない」
エドガルは窓の外へ顔を向けた。
青いEDEN。
その向こうに、古い名が浮かんだ。
アマレイン。
アマギ・レン。
そして魔王。
王家は何を知っている。
「柳原殿」
「はい」
「本当に、王家からは何もないのだな」
「何もありません」
「……そうか」
「こちらも少し、気になってきました」
「少し?」
「かなり、ですね」
それ以上は話さなかった。
◇
仮想現実から戻ると、宇宙は消えた。
白い天井と、いくつもの装置。
その一つを操作している青年がいる。
「天城蓮殿」
「ん?」
蓮が振り返った。
「今のものを動かしていたのは、あなたか」
「操作は俺。内容は計画チームとIZANAMIが作ったものだけど」
「……そうか」
アマレイン。
アマギ・レン。
エドガルは青年を見た。
「蓮」
神崎美冬が声をかけた。
「設定、元に戻しました?」
「戻したよ」
「そこ、戻ってません」
「あ」
「戻してください」
「はい」
蓮が素直に操作し直す。
エドガルは黙って眺めた。
創造神。
天上人の王。
誰も見たことのない魔法を使った者。
「蓮、そこもです」
「今やる」
「先にやってください」
「はい」
――考えすぎか。
少なくとも、自ら神を名乗りたがる男には見えなかった。
◇
「お父様」
ミレアは元の場所で待っていた。
リシェルも隣にいる。
「どうでしたか」
「見てきた」
「それは分かります」
「お前は昔から一言多いな」
「お父様にだけです」
エドガルは小さく息を吐いた。
「ミレア」
「はい」
「最後までやれ」
ミレアが固まった。
「……何をですか」
「選考だ」
「え?」
「自分で応募したのだろう」
「はい」
「なら、正式に採用されるところまで進め」
ミレアは父親の顔を見つめた。
「わたくしを連れ戻しに来たのではなかったのですか?」
「そのつもりだった」
「だった?」
「事情が変わった」
「数時間で?」
「数時間あれば考えるくらいはできる」
「お父様が?」
「お前は私を何だと思っている」
隣でリシェルが俯いた。
肩が震えている。
「そこの娘」
「はいっ」
「笑ったな」
「笑ってません」
「そうか」
「はい」
絶対に笑っていた。
「ですが、本当によろしいのですか」
ミレアが尋ねる。
「許したとは言っていない」
「では、なぜ」
「家の事情だ」
ミレアの表情が変わった。
「何かあったのですか」
「今は知らなくていい」
「お父様」
「お前は、自分で決めたと言ったな」
「……はい」
「なら、やってみろ」
ミレアはしばらく父親を見つめた。
「分かりました」
小さく息を吸う。
「最後までやります」
「ああ」
「必ず採用されます」
「そこまでは言っていない」
「正式に採用されるところまで進めと」
「……言ったな」
またリシェルの肩が震えた。
◇
帰りの馬車へ向かう途中、エドガルは柳原を呼び止めた。
「柳原殿」
「はい」
「応募者の出身領は全部分かっているのだな」
「はい」
「なら、関係する領主も分かる」
「分かります」
「私から何人かには話をしてみる」
柳原が少し驚いた。
「よろしいのですか」
「よくはない」
エドガルは即答した。
「だが、お前たちが突然出向くよりはましだ」
「助かります」
「人間を嫌う者もいる。見下している者もいる。逆に、お前たちから何か得ようとする者もいるだろう」
「でしょうね」
「だから勝手に話を進めるな」
「ええ」
柳原は頷いた。
「こちらだけで決めるつもりはありません」
「それならいい」
エドガルは馬車へ向かいかけて、また止まった。
「それと、何を出せるのか考えておけ」
「技術ですね」
「ああ」
「政府で整理します」
「天城蓮が決めるのではないのだな」
「彼一人では決めません」
「やはり妙な国だ」
「もう慣れてください」
「無理だな」
エドガルは少しだけ笑った。
「いずれ、改めて話をする」
「娘さんのことですか?」
「……それだけではない」
柳原は静かに頷いた。
◇
四頭のユニコーンが馬車を引き、人間の町がゆっくり遠ざかっていく。
今朝は、ミレアを連れ戻すためだけに来た。
それが今は、娘を残して帰ろうとしている。
しかも人間との交渉まで持ち帰ることになった。
エドガルは窓の外を見た。
アルセリアは豊かだ。
だからこそ、狙われる。
それは今に始まったことではない。
だが、人間の技術が入れば。
水を上げられる。
少ない人手でも村を維持できる。
これまでできなかったことが、できるようになるかもしれない。
アルセリアを守る方法が、増えるかもしれない。
「……何をしているのだ、私は」
小さく呟いた。
娘を連れ戻しに行ったはずなのに。
だが、それ以上に頭から離れないものがあった。
王家。
人間と敵対するな。
そう命じておきながら、自分たちは一度も接触していない。
アマレイン。
アマギ・レン。
魔王。
エドガルは眉を寄せた。
王家は何を知っている。
◇
馬車が見えなくなったあと、柳原はその場に残っていた。
「IZANAMI」
『はい』
「王家の件だ」
『はい』
「本当に正式な接触はない?」
『ありません』
「それなのに、諸侯には我々と敵対するなと」
『確認済みです』
「理由は?」
『不明です』
柳原は少し黙った。
「お前でも分からないのか」
『はい』
「王家については、かなり見ているだろう」
『確認可能な範囲では』
「それでも?」
『それでも不明です』
柳原は遠くを見る。
「何か、我々が知らないものを持っている?」
『可能性はあります』
「古い記録とか?」
『否定できません』
「……探れるか?」
『指示があれば』
「いや」
柳原は首を振った。
「やめておこう」
『了解しました』
「向こうがまだ何もしていないのに、王家の秘密を暴きに行く必要はない」
『了解しました』
「それより四百九十七人だ」
『はい』
「出身領ごとの人数と、偏りをまとめてくれ。これから話をすることになる」
『すでに準備しています』
「早いな」
『必要になると判断しました』
「助かる」
柳原は歩き出した。
これまでは、こちらから動かなかった。
王家と正式な関係すらないまま諸侯を訪ね歩けば、それ自体が政治的な意味を持つ。
だから待った。
だが、四百九十七人が自ら人間の町までやって来た。
もう、待っているだけでは済まない。
ただの求人だったはずのものが、領主との話になり、王国との話になろうとしている。
その向こうには、まだ一度も顔を合わせたことのない王がいる。
人類を敵にするなと命じながら、人類へ何も語ろうとしない王が。
バベルを宇宙へ伸ばす前に、地上で考えることが増えた。
そしておそらく。
……それだけではない。
第百一話 了




