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第三章 「魔王の娘」

 山脈の谷間に広がる、古びた遺跡の広場。不気味な紫色の月光が、崩れ落ちた石柱の影を長く伸ばしていた。「ガハッ……!?クソッ……なんだ……この圧迫感は……!」ガロンが巨大な斧を地面に突き立て、膝を折りながら吐血した。となりに立つ修道女のマリアも、全身をガタガタと震わせながらその場にへたり込んでいる。彼女が展開していた聖なる防護障壁は、まるで薄い硝子細工のように粉々に砕け散っていた。彼らの目の前に立っていたのは、これまでの魔族とは明らかに一線を画す異形であった。身丈は五メートルを超え、頭部には三本の巨大な角。漆黒の甲冑を纏い、背中からは禍々しい悪魔の翼が広がっている。魔王軍が誇る十二大幹部の一人「狂乱のゼルクス」。「ハハハハハ! なんという弱者どもだ! こんな虫ケラどもが我が同胞を狩っていたとは笑止!」ゼルクスが巨大な大剣を軽く振るうだけで、凄まじい衝撃波が巻き起こり、遺跡の石柱が次々と粉砕されていく。「レイ……! ガロン……!ダメです、勝てません……!この魔力は……桁が違いすぎます……!」マリアが涙を流しながら絶叫する。レイは冷や汗を流しながらも、冷静に観察眼を走らせていた。だが、彼の計算を以てしても、いまのパーティの戦力でこの大幹部を撃破する確率は零パーセントに近かった。物理的な能力値の乖離があまりにも大きすぎるのだ。「フン、まずはその威勢の良い斧使いから血祭りにあげてくれる!」ゼルクスが大剣を振り上げ、動けないガロンの頭上へと踏み込んだ。 殺気が広場を削り取る。死が、数秒後に迫っていた。「やめて……ッ!」エレナの叫びが響いた。(嫌……!見たくない……!ガロンさんが、マリアさんが殺されるなんて……!)この数日間で育まれた、温かい日常の記憶。共に食べた食事の味、笑い合った時間、自分を「仲間」として受け入れてくれた優しい手。(私が守る……! 私が……みんなを守るんだ……!)その強い願いが心底から湧き上がった、まさにその瞬間であった。皮肉にも、危険に晒された仲間たちが抱いた「圧倒的な死への恐怖」と「目の前の魔族に対する凄まじい絶望と憎悪」が、爆発的な波動となって大気を満たした。そして、その膨大な負のエネルギーは、吸音材が音を飲み込むかのように、すべてエレナの肉体へと一気に集束していった。



ガァァァァァンッ!!



 空間そのものが鳴動した。「え……?」ガロンが目を見開く。エレナの身体から、これまで経験したこともないほどの濃密で、禍々しく、巨大な漆黒の魔力が柱となって天を突いた。紫色の月光が黒い霧に覆われ、遺跡全体が絶望的な重力に支配される。「ウ……ァァァァァアアアアッ!!」エレナの悲痛な絶叫とともに、彼女の背中の衣服が破け、二対の巨大な漆黒の翼が羽ばたいた。頭部からは、美しい黒髪をかき分けるようにして、禍々しくも気品に満ちた一本の黒角が生え伸びていく。紫水晶の瞳は血のような赤に染まり、白磁の肌には魔王の純血を示す紫の紋様が妖しく浮かび上がった。それは、人間を救う「魔法剣士エレナ」の姿ではなかった。そこに降臨したのは、世界の半分を統べる大魔王の血を引く、真なる王族の姿「魔王の娘」であった。「な……なんだと……!?」大幹部ゼルクスが、驚愕の声を上げて後退した。目の前にいる華奢な少女から放たれる魔力の質量が、魔王城に君臨する大魔王のそれに極めて酷似していたからだ。「貴様……まさか……エレナ様……!?なぜこのような場所で、人間どもと――」「失せなさい」エレナの声は、もはや鈴の音のような可憐さを失っていた。重厚で、絶対的で、あらゆる生者をひれ伏させる「王の威厳」に満ちた声。エレナが細身の剣をひと振りした。ただのひと振り。だが次の瞬間、空間そのものが横一線に切断された。「ガ……ッ!?」ゼルクスは反撃の機会すら与えられなかった。巨躯を誇っていた大幹部の体が、一瞬にして上下二つに真っ二つに裂け、次の瞬間には黒い炎に包まれて影形もなく消滅した。大幹部が一瞬で粉砕されたのだ。圧倒的な、理不尽なまでの絶対的な暴力。



 静寂が、遺跡を支配した。ゼルクスの灰が風に舞い散り、嵐のような魔力の奔流がゆっくりと収まっていく。エレナは肩で息をしながら、ゆっくりと振り返った。背中には巨大な黒い翼、頭上には漆黒の角。真の姿を解放した彼女は、息をのむほど美しく、そしてどこまでも恐ろしかった。「が……ガロンさん……マリアさん……無事ですか……?」エレナは元の可憐な声に戻り、安堵の笑みを浮かべて仲間たちへと歩み寄ろうとした。「ひっ……!来ないでくれぇぇっ!」ガロンが、悲鳴を上げて後ずさった。その手には、震える手で固く握り締められた大斧が掲げられ、その刃先は明確にエレナへと向けられていた。「ガロン……さん……?」「化物……!魔王の娘だったのかよ……!俺たちを騙していたのか!?」ガロンの瞳にあったのは、信頼でも感謝でもなかった。剥き出しの恐怖と、裏切られたことへの激しい嫌悪。「違います……! 私は、皆様を守りたくて――」「触らないで……!来ないでくださいっ!」マリアもまた、十字架を構えて狂乱したように叫んだ。「おぞましい悪魔の血……!騙していたんですね!私たちの仲間になりすまして、裏で嘲笑っていたんですか!?」「違います……!違うんです……!」エレナは必死に手を伸ばそうとした。しかし、彼らの目から溢れ出る「魔王の娘への激しい憎悪と拒絶」が、見えない刃となってエレナの胸を深く抉った。そして皮肉にも、仲間たちが抱いたその憎悪すらも、エレナの体質は容赦なく吸い上げ、彼女の魔力をさらに強く、凶悪に進化させていく。(ああ……ダメだ……)エレナは絶望に顔を歪めた。自分が誰かを救おうとするたびに、世界は壊れていく。自分を愛してくれたはずの人々が、一瞬で自分を憎む敵へと変貌していく。「あ……あああ……っ!」絶叫し、エレナは背中の黒い翼を大きく羽ばたかせた。夜空へと跳躍し、彼女は仲間たちの待つ遺跡を捨て、暗闇の荒野へと逃げ出した。「エレナ!」背後で、レイの声が響いた。仲間たちが恐怖で立ち尽くす中、レイだけが迷うことなく、夜の荒野へと走り出していた。



 月光も届かない、荒涼とした岩場。エレナは岩陰にうずくまり、爪が肉に食い込むほど強く自分の腕を抱きしめていた。背中の黒い翼と、頭の角は消えてくれない。いまや体内に充填された膨大な憎悪のエネルギーが、彼女の体を「魔王の娘」として固定してしまっていた。(誰も……私を愛してくれない……)涙が岩肌を濡らす。人間を救えば救うほど、自分は人間に憎まれる。自分が存在するだけで、周りの人々は憎しみの化物へと変わってしまう。「ハァ……ハァ……っ!」荒い息遣いとともに、岩場の陰から一人の青年が姿を現した。レイだった。彼は常人離れした執念で、夜の荒野をどこまでも走り込み、エレナの元へと追いついていた。服はあちこちが破れ、呼吸は乱れている。けれど、その瞳に宿る理知の輝きだけは、少しも衰えていなかった。「レイさん……! なぜ……追ってきたのですか……!?」エレナは岩背を背にし、角を生やした姿で叫んだ。「来ないでください!見れば分かるでしょう!? これが私の本性です!私は人間の憎しみでしか強くなれない化物なんですよ!?」エレナは己の胸を指差し、悲痛な叫びを荒野に響かせた。「私が優しくすればするほど、みんな私を憎むようになる!私は誰とも分かり合えない!誰からも愛されない呪われた存在なんです!お願いですから……私を一人にしてください……ッ!」絶望の叫び。世界から拒絶された少女の、血を吐くような魂の悲鳴。しかし、レイは足を止めなかった。彼は腰の長剣に手をかけるとカチャン、と素気ない音を立てて、その剣を地面へと投げ捨てた。武器を捨て、丸腰で、魔王の娘の目の前へと踏み込んでいく。「レイ……さん……?」驚愕するエレナ。レイは彼女の前に立つと、冷ややかな、けれどどこか狂気じみた圧倒的な熱量を帯びた目で、エレナの赤く染まった瞳を正面から見据えた。「知るかよ」吐き捨てるような、短く力強い一言。「誰からも愛されない?世界から拒絶されている?……くだらない。そんなものは、この世界の雑な仕様に過ぎない」レイは両腕を広げると、躊躇も、恐れも、躊躇いもなく角を生やしたエレナの身体を、力強くその胸の中に抱き寄せた。「―――ッ!?」凄まじい衝撃。エレナの体から放出されていた黒い魔力が、レイの衣服を焼き、肌を傷つける。だが、レイは痛みに顔を歪めることすらなく、彼女の細い背中を壊さんばかりの力で強く引き抱いた。「レイ……さん……!?離れて……!私の体に触れたら、あなたが……!」「黙ってろ」レイはエレナの耳元で、歯を食いしばりながら笑ってみせた。「憎しみでしか動かないエンジンだと言ったな? 愛されない呪いだと叫んだな?」レイの手が、エレナの背中をさらに深く引き寄せる。「なら、僕のこの『狂った執着』を食ってみろ」「……っ!?」エレナは目を見開いた。抱きしめられた胸の奥から、レイの体温とともに、これまで世界で一度も感じたことのない異質で、強烈で、凄まじい密度の感情が流れ込んでくる。それは純粋な善意ではない。生温かい同情でもない。世界の不条理なシステムを破壊し、目の前の少女を己のロジックで支配・攻略しようとする狂気的なまでの理解と執着。レイの胸の中で、エレナの紫水晶の瞳が驚愕に揺れる。二人の体が重なり合った瞬間、彼女の体内で静かに、だが確実に「世界の崩壊」が始まりを告げていた。


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