第二章 「憎悪という名の燃料」
街道を揺らす馬車の振動と、乾いた木輪の音が心地よく響いていた。「ほらエレナ、口を開けてみな!この街の名物の干し肉、絶品なんだから!」大柄な斧使いの男・ガロンが、焚き火の肉を串ごと差し出してきた。街道沿いの木かげで開かれた、ささやかな昼食の席。若き修道女のマリアも、木彫りのスープ皿を両手に掲げて微笑んでいる。「スープもできましたよ、エレナさん。少し野菜が硬いかもしれませんけれど……」「あ、ありがとうございます……!」エレナは申し訳なさそうに両手で皿を受け取り、そっとスープを口に含んだ。 温かい野菜の甘みと塩気が、喉を通って胃を満たしていく。「……美味しいです。すごく、温かい……」「だろー!冒険の醍醐味はメシだ!固いパンばかり食ってちゃ戦えねえからな!」ガロンが豪快に笑い、マリアも嬉しそうに頬を緩める。その光景に包まれながら、エレナの胸の奥は小さな温もりで満たされていた。人間たちと同じものを食べ、同じように笑い合い、今日という日を無事に生きられたことを喜び合う。魔王城の冷たい黒石の玉座では、決して味わうことのできなかった「世界の温かさ」。ふと視線を遣ると、少し離れた大木の根元に腰掛け、羊皮紙の羊皮帳にペンを走らせているレイの姿があった。彼はお仕着せのパンを淡々と口に運びながら、一度もこちらを見ようとしない。しかし、彼が己の正体を知りながらも告発せず、こうして同行を許しているからこそ、いまの平穏があることも事実だった。(レイさんは……私を観察している。ただの『サンプル』として……)彼にとって自分は、心を持った少女ではない。世界という複雑な機械の構造を解き明かすための「異彩を放つ部品」なのだ。それでも、自分を頭ごなしに否定せず、その存在理由を論理として理解しようとしてくれるのは、世界中でレイただ一人であった。歪んだ関係性。けれど、エレナにとってその冷徹なまでの客観性は、どこか救いでもあった。「どうした、エレナ? レイの奴のツラばかり見て。あんな冷血漢のどこが面白いんだ?」ガロンが肉をかみちぎりながら呆れ顔で言う。「いえ……ただ、静かな方だなと思って」「ハッ、静かというより気味が悪いんだよ!あいつ、魔族の討伐数を数える時も『これでデータのサンプルが揃った』とか抜かしやがる。熱い血ってもんが通ってねえのさ」ガロンの言葉に、レイは帳面から視線を上げることすら落とさず、淡々と返した。「感情で刃を振るう者ほど、寿命が短いのが戦闘の統計データだ、ガロン。君も余計な脂肪と一緒にその大雑把な思考を削ぎ落とした方がいい」「なんだとコラ!」怒るガロンと、それを慌てて宥めるマリア。そのやり取りがあまりにも微笑ましく、エレナの口元から小さく可憐なこぼれ球のような笑いが漏れた。(この温かい日々が……ずっと続けばいいのに)自分の中に潜む「黒い怪物」の存在を、一瞬だけ忘れられるような気がしていた。
だが、悪夢は唐突に、そして最も残酷な形で訪れる。その日の夜、一行は山間にある小さな開拓村へと立ち寄っていた。 村の宿屋で静かな眠りにつこうとした、まさにその時であった。ギィギャアアアアッ!夜空を切り裂くような、耳を劈く不快な咆哮。直後、宿屋の天井が凄まじい衝撃とともに爆破され、木屑と土煙が室内へ雪崩れ込んできた。「キャアアアアッ!?」「魔族だ! 敵襲――ッ!」ガロンの叫び声が響く。土煙の向こうから現れたのは、全身を硬質な漆黒の甲殻で覆った、体長三メートルを超える巨体を持った三体の魔族であった。村のあちこちから火の手が上がり、平穏だった開拓村は一瞬にして悲鳴と血の海へと変貌していく。「クソッ、こんな人里離れた場所にまで降りてきやがったか!」ガロンが巨大な斧を構え、襲いかかる魔族の爪を受け止める。マリアも必死に詠唱を開始し、防護の聖壁を展開した。エレナも咄嗟に細身の剣を抜き、仲間たちを守るために前線へと躍り出た。 洗練された剣舞。鋭い一閃が魔族の膝関節を打ち抜き、体勢を崩したところへガロンの斧が叩き込まれる。連携は完璧だった。このまま押し切れる。誰もがそう確信した、その時だった。「ひぃぃっ! 助けてくれ!」「うちの子が……うちの子が家の中にいるんだああっ!」燃える家屋の周囲で、逃げ惑う村人たちが絶叫していた。彼らが目撃したのは、圧倒的な恐怖と、日常を破壊された理不尽であった。そして、彼らの心の中に溢れ出した感情は、助けてくれた冒険者への感謝などではなかった。「魔族どもめ! 殺せ! 一匹残らず惨殺しろ!」「呪われて死ね!お前たちさえいなければ! 消えてなくなれぇぇッ!」ドロドロとした、濃厚で殺意に満ちた苛烈な憎悪。それは目に見えぬ黒い濁流となって大気を満たし、渦を巻きながら、村の中心に立つエレナの身体へと一気に収束していった。(あっ……ダメ……来ないで……ッ!)エレナは息をのんだ。体内の魔力回路が、濁流のような憎悪を強引に吸い上げていく。昼間、仲間たちと食べた温かいスープの記憶も、ガロンの笑い声も、すべてが黒い奔流に呑み込まれて消え去っていく。吸えば吸うほど、彼女の肉体の中で「魔王の血」が覚醒していく。
「ウ……ァアアアアアッ!?」
エレナは剣を落とし、己の胸を強く掻きむしった。心臓が破裂しそうなほどの拍動。皮膚の表面に、黒い紋様が不気味に浮かび上がっていく。「エレナ!?どうしたんだ、しっかりしろ!」ガロンが驚いて振り返る。だが、いまのエレナには仲間の声すら届かない。村人たちの「魔族を殺せ」という憎しみが、そのまま彼女の魔力となり、意思に反して周囲を破壊しようと暴走を始めていた。背中から漆黒の魔力で形成された巨大な翼が生えかけ、目からは紫色の怪光が撒き散らされる。(嫌……! 壊したくない……! この人たちを……仲間を傷つけたくない……!)自分自身の身体が、勝手に人間を殺戮するための化物へと変貌していく絶望。激しい苦痛と恐怖に耐えかね、エレナは燃える村の地面に膝を突いた。「助けて……レイさん……ッ!」
「全員、下がれ」取り乱すガロンとマリアの前に、静かに歩み出たのはレイだった。彼は腰の長剣すら抜いていなかった。ただ冷徹な瞳で、黒い魔力を巻き散らしながら胸を押さえて苦しむエレナを見つめている。「レイ!何言ってるんだ、エレナが変なんだぞ!早く助けないと――」「言ったはずだ、ガロン。感情で動くなと」レイは懐から小さな金属筒を取り出すと、それを地面へと投擲した。筒から強烈な音響と光が弾け飛び、一時的に周囲の魔力伝達を阻害する。「マリア、ガロン。君たちは村人の避難と残りの魔族の処理を優先しろ。彼女の治療は僕がやる」「治療って……レイ、お前……!」「命令だ。隊長である僕に従え」レイの声には、一切の反論を許さない絶対的な拒絶が含まれていた。ガロンは歯噛みしながらも、暴れる最後の魔族へと向かって走り出した。マリアも涙目になりながら村人たちの誘導へと向かう。周囲から仲間たちの気配が消えた。残されたのは、燃え盛る火の海の中、黒い魔力の暴走に耐えきれず、地面に伏して泣き叫ぶエレナと彼女を見下ろすレイの二人だけであった。「ウ、アァ……ッ! 近寄らないで……レイさん……!」エレナは爪が割れるほど強く地面をむしり取りながら、必死に叫んだ。「私……抑えられない……!村の人たちの憎しみが……頭の中に流れ込んできて……!あなたまで……殺してしまう……!」彼女の体から解き放たれる黒い波紋は、周囲の土を腐敗させ、大気を腐食させていた。近づけば、人間など一瞬で肉塊に変えられてしまうほどの絶対的な殺気。しかし、レイは足足を止めることすらもしなかった。靴底で燃える木片を踏みつけながら、彼はまるで雨の日の散歩でもするかのように、静かにエレナへと歩み寄っていく。「レイさん……逃げて……お願いだから……ッ!」絶望に濡れた紫水晶の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。救いたいと願うほど、自分は化物になる。誰かを愛したいと願うほど、世界は自分に「誰かを殺すための力」を与えてくる。この不条理な呪いから逃れる術など、どこにも存在しないのだ。
レイは、暴走する黒い魔力の渦の中へと迷いなく踏み込んだ。彼の皮膚が魔力に侵され、薄く血を滲ませる。だが、レイの表情には痛みも恐怖も存在しなかった。ただ、新種の未知なる鉱石を発見した研究者のような、深く、澄んだ理知の輝きだけがそこにあった。「ハァ……ハァ……っ!」泣きじゃくり、丸まってうずくまるエレナの目前に、レイの革靴が止まる。そしてレイは、地面にひざまずくと黒い魔力を放出し続けるエレナの頭の上に、そっと優しく手を置いた。ポン、と。 まるで怯える幼子をあやすかのような、温かく、静かな手つきだった。「……ッ!?」エレナの息が止まった。頭頂部から伝わる人間の温度。自分という化物に対して、恐怖も抱かず差し出された手。「泣くなよ、エレナ」頭の上から、レイの低く静かな声が降ってくる。「美しい顔が台無しだ」「な……なにを……言っているのですか……? 私を見なさい……!私は……魔王の娘で……人間の憎しみを食らって暴走する……化け物なんですよ……!?」エレナは涙に濡れた顔を上げ、すがるようにレイを見つめた。しかし、レイの口元に浮かんでいたのは、憐れみでも慈愛でもなかった。それは、世界の法則そのものを愚弄するかのような、圧倒的な不敵の笑みであった。「だからどうした?」レイはエレナの髪を、愛おしそうに、けれど冷徹な手つきで静かに撫で下ろした。「原理は理解した。実に単純な回路だ。『憎悪』という負の入力値を、魔力という出力値に変換するだけの単純な永久機関だ」レイの指先が、エレナの頬に伝わる冷たい涙を拭い去る。「エンジンの構造が分かっているなら、恐れる理由はどこにもない。……憎悪で動くエンジンなら、別の燃料を突っ込んでシステムをオーバーロードさせればいいだけだ」「別の……燃料……?」エレナは呆然と呟いた。魔族とは一千年間、人間の憎悪だけを喰らって存在してきたはずだ。それ以外の感情が力になるなど、世界の法則が許すはずがない。だが、レイの瞳に宿っていたのは、世界共通の常識など破棄して当然と言わんばかりの、狂気的な「攻略意欲」と「執着」であった。「そうさ。たとえば僕のこの、歪んだ独占欲や理解みたいなものをね」レイは顔を寄せ、エレナの耳元で囁いた。その瞳は、暗闇の中で妖しく発光しているかのようだった。「安心しろ、エレナ。この不条理でくだらない世界の法則を僕が綺麗に書き換えてやる」レイの手から伝わる温もりと、その言葉に込められた圧倒的な説得力。暴走していたエレナの黒い魔力が、一瞬だけピタリと動きを止めた。解読された世界。狙いを定められた不条理。狂気の青年が提示するハッキングの予兆を前に、世界の理が静かに、だが確実に軋みを上げ始めていた。




