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第一章 「魔族は人間が生む」

 宿場町の喧騒が、遠い過去の出来事のように遠のいていく。青年の冷たい一言によって氷ついた空気の中で、エレナは自身の心臓が早鐘のように打つのを感じていた。「君という『世界のバグ』を、ずっと探していたんだ」青年レイは、そう言って不敵な笑みを浮かべたままであった。しかし、エレナが身構え、剣の柄に手をかけた瞬間、レイは肩をすくめてあっさりと身を引いた。「そんな目で見ないでくれ。ここで争うつもりはないよ。第一、僕がここで『彼女は魔王の娘だ!』と叫んだところで、誰も信じないだろう?こんなに美しい魔法剣士様がね」「……あなたは、一体何者なのですか」エレナはフードの隙間から、紫水晶の瞳でレイを射抜くように見つめた。レイは腰に下げた小袋から一枚の羊皮紙を取り出し、ひらひらと揺らしてみせた。それは王都のギルドが発行した、魔族討伐の正式な委任状であった。「僕はレイ。見ての通り、ただの冒険者さ。……だが、世界の『裏側の仕組み』に少しばかり興味があるただの観測者でもある」レイはそう言うと、踵を返して歩き出した。「ついておいで。ここは人が多すぎる。君にとっても、無駄な燃料を吸いたくはないだろう?」その言葉に、エレナは息をのんだ。彼にはすべてが見えている。自分が何者で、どのような不条理を抱え、何を恐れているのかまで。エレナは迷いを振り払うように拳を固く握り締め、青年の背中を追って歩き出した。記憶は、数日前に彼女が訪れた漆黒の居城。魔王城の玉座の間へと戻っていた。



 天地を揺るがすような雷鳴が、黒煙に包まれた魔王城の尖塔を穿っていた。巨石を積み上げて造られた玉座の間は、太古の沈黙と圧倒的な威圧感に支配されていた。その奥深くに佇む巨大な玉座に、世界の不条理そのものである大魔王が鎮座していた。「父上……お願いです。この無意味な戦争を終わらせてください」床に膝を突いたエレナは、頭を垂れながら哀痛の声を上げた。「人間たちを殺し、家を焼き、恐怖を撒き散らすことに何の意味があるのですか!私たちが刃を収めれば、人間たちもきっと……!」「無知なる我が娘よ」大魔王の声は、激怒でも失望でもなく、ただ果てしなく冷徹な絶対の理として玉座の間に響き渡った。「お前は未だに理解していないのだな。我らがなぜ存在し、なぜ戦い続けるのかを」「……理解できません!争いがさらなる憎しみを生み、その憎しみが私たちを縛り付けている! こんな悪循環、誰かが断ち切らなければ――」「断ち切る? 滑稽な妄想だ」大魔王の巨躯から、ゆらりと黒い影が立ち上る。それは一千年前、最初に人間と魔族が交わした血と惨劇の歴史そのものであった。「一千年前、とある村が我ら魔族によって一夜にして滅ぼされた。人間どもはそれを『魔族による一方的な蹂躙』と語り継いでいる。……だが、真実は逆だ」エレナは息をのんだ。「あの村の人間どもが、長年にわたって蓄積し、他者へ叩きつけていたドロドロとした『憎悪』。それが限界を超えて溢れ出し、集積し、反乱を起こして形を成した存在――それこそが、最初の魔族であったのだよ」「……!魔族が……人間の憎悪から生まれた……?」「そうだ。我らは生まれたくて生まれたわけではない。人間が誰かを呪い、排斥し、憎んだ結果として産み落とされた排泄物に過ぎん。……百の魔族が生まれ、千となり、数億に達するのに時間はかからなかった。人間の数と、彼らが抱く憎悪の数は等しいからだ」大魔王は細い指を組み、冷ややかな眼差しを娘へと向けた。「我が娘よ。我々が自害したところで、明日には新たな魔族が人間ども自身の憎悪によって産み落とされるだけだ。我らを滅ぼしたくば、人間どもから『憎悪』という感情そのものを消滅させてみよ」「それは……」「不可能だ。人間が無欲になり、他者を憎まなくなった時、彼らの存在論そのものが崩壊する。人間と魔族は鏡合わせ。共に滅ぶ以外に、このシステムを止める術はないのだ」「そんな……そんな悲しい仕組みがあって溜まるものですか……!」エレナは床に拳を叩きつけた。悔し涙が頬を伝う。「理解したならば去れ、エレナ。お前が人間に肩入れし、彼らを救えば救うほど、彼らは魔族を憎む。そしてその憎悪を食らい、お前は我ら魔族の絶対的象徴へと昇華する。逃れられぬ呪縛の中で狂い咲くが良い」「いいえ……私は認めません!」エレナは立ち上がり、父親である大魔王を睨みつけた。「もし、人間が憎悪を生み出すシステムだというのなら……私は人間社会の底まで降りていきます。人間を知り、彼らが憎しみを抱かずにすむ方法を、私は絶対に見つけてみせます!」そう言い放ち、エレナは魔王城を飛び出したのだった。人間社会の監視と、「憎しみの連鎖を止める術」を探すために。



 「なるほど。人間と魔族の人口がほぼ拮抗している理由が、これで理屈としてつながった」薄暗い路地裏の奥。人目を避けた小さな空き地で、レイは顎に手を当てて納得したように頷いていた。エレナは驚愕に目を丸くした。彼女は自分の口から魔王城での出来事を語ったわけではない。ただ、レイが提示したあまりにも正確な世界の仮説に対して、言葉を詰まらせただけだったのだ。「なぜ……そこまで分かってしまうのですか。あなたは、魔法を使えるわけでもないのに」「観察と推論だよ、エレナさん」レイは淡々と答えた。「この世界の魔力の総量は一定だ。そして魔族の発生頻度は、人間同士の戦争や飢饉の時期と完全に一致している。命や体力を燃料にするなら、人間が減れば魔族は弱体化するはずだが、実際は逆だ。人間が絶望し、世界を呪うほど、魔族は強大化する」レイの言葉には、感情の揺らぎが一切なかった。まるで複雑な数式や幾何学の構造を解き明かしているかのような、恐ろしいほどの客観性。「つまり、魔族とは『人間の負の感情を動力源とする永久機関』だ。そして君は、その負のエネルギーを例外的にダイレクトに変換できる最高性能のレシーバーというわけだね」「私を……そんな機械のように言わないでください……!」エレナは悲しげに瞳を伏せた。「私はただ……誰も傷つかない世界にしたいだけです。私が強くなってしまうのは、嫌なんです……。誰かを救うたびに、自分が化物になっていくのが……怖いんです」震えるエレナの肩。その姿は、世界の不条理なシステムに巻き込まれた、ただの切ない一人の少女そのものであった。レイはその姿を静かに見つめていたが、やがてフッと口元を緩めた。「面白い」「え……?」「君のその矛盾だよ。魔王の娘でありながら、人間を愛し、己の存在基盤である憎悪を拒絶している。……これ以上ない、世界のシステムに対するバグだ」レイはエレナに向かって一歩踏み出し、手を差し出した。「僕たちのパーティに来ないか?」「……え?」「今、僕の所属している討伐隊は、北の山脈に現れた大型魔族の調査に向かう予定なんだ。優秀な魔法剣士の枠が一つ空いている。正体を隠して同行するといい」エレナは差し出された手を凝視した。「なぜ……私を誘うのですか?私が魔族だと知っていて……私を恐れないのですか?」「恐れる? 滅相もない」レイの目が、怪しい理知の光を宿して細められた。「原因が分かっている現象を恐れる人間はいないよ。僕が知りたいのは一つだけだ。『世界のルールは、本当に書き換えることができないのか』。……君というバグを使えば、この不条理なシステムにハッキングを仕掛けられるかもしれない」



 宿場町の広場では、レイの仲間と思われる数人の冒険者たちが待機していた。大柄な斧使いの男や、杖を抱えた若い修道女が、レイの戻りを安堵の表情で迎える。「おう、レイ!遅かったじゃないか。腕利きの剣士は見つかったのか?」「ああ。最高の腕前を持つ魔法剣士さんをスカウトしてきたよ」レイは後ろに控えるエレナを振り返り、爽やかな笑みを向けた。 エレナはフードを少し深ぶり直し、胸の前に手を置いて、しとやかに一礼してみせた。「はじめまして。エレナと申します。微力ながら、皆様のお力になれればと……」「おお、なんて綺麗な嬢ちゃんだ! 歓迎するぞ!」「よろしくお願いしますね、エレナさん!」仲間たちは無邪気に喜び、エレナの加入を温かく受け入れた。彼らの純粋な善意と温もりに触れ、エレナの胸の中に小さな灯火が宿る。(この人たちを守りたい……。今度こそ、誰も憎ませないように……)正体を隠し、人間と共に歩む第一歩。 不安の中にも、かすかな希望を感じてエレナが微笑んだ、その時だった。「さあ、行こうか」レイがエレナの隣に並び、出発の合図を出した。そして、仲間たちが先頭を切って歩き出し、二人が少し出遅れたその刹那。すれ違いざま。レイはエレナの耳元へと顔を寄せ、仲間たちには決して届かない、氷のように冷徹な声で囁いた。「よろしく、魔法剣士さん。で、君はその体で『誰の憎しみ』を食ってそこまで強くなったんだ?」「―――ッ!!」エレナの全身の血が凍りついた。透き通るような青空の下、眩しい太陽の光が降り注ぐ街道の中で。レイの横顔には、仲間たちに見せていた爽やかな笑みとは対極の、冷ややかで狂気じみた愉悦の笑みが浮かんでいた。(バレている……! 最初から、何ひとつ誤魔化せてなんていなかった……!)彼が見ているのは、自分という少女ではない。自分の皮膚の裏側で蠢く、ドロドロとした人間の「憎悪」そのものなのだ。逃げ出したいほどの恐怖と、それでも引き返すことのできない不条理。不敵に前を見据えるレイの側顔と、顔を蒼白にして立ち尽くすエレナのアップ。見開かれた彼女の紫水晶の瞳に、逃れられない絶望の影が落とされていた。



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