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序章 「憎悪を喰らう少女」

 燃える集落の熱気が、夜の空気を赤く染め上げていた。乾いた木造の家屋が弾け、火の粉が夜空へと舞い散る。血と油脂の焦げる匂いが立ち込め、悲鳴と怒号が重なり合って耳膜を震わせる。「逃げろ!魔族だ!魔族が降りてきたぞ!」「助けてくれ、誰か、誰か……!」逃げ惑う人間たちの背後から、黒く歪んだ影が追ってくる。それは二足歩行の猛獣にも似た巨大な異形であった。身丈は三メートルを超え、四本の腕には巨大な骨の刃を握り締めている。人間の悲鳴を聞くたびに、その顔面に裂けた口から粘着質の唾液を撒き散らし、不快な高笑いを上げた。「無駄だ、矮小な人間ども!お前たちの肉も、命も、すべて我らの糧となる!」魔族の振り下ろした骨刃が、逃げ遅れた老人の頭上に迫る。老人は腰を抜かし、死を覚悟して両目を固く閉じた。



ドゴォン!



 激しい衝撃音が響き渡った。だが、痛みが訪れることはなかった。老人が恐る恐る目を開けると、そこには背中まで届く美しい黒髪を夜風になびかせる、一人の少女の背中があった。少女の名は、エレナ。彼女は手に握った一筋の細身の剣で、魔族の巨大な骨刃を完璧に受け止めていた。華奢な腕からは想像もつかない威力が、その小さな体に宿っている。「……そこまでです」鈴を転がすような、凛とした声だった。エレナが身を翻すと同時に、剣閃が夜の闇を鋭く切り裂く。美しい一閃。次の瞬間には、巨躯を誇っていた魔族の四本の腕が、まるで熟した果実のようにまとめて宙を舞っていた。「ガ、アアアアッ!?なんだ貴様は、人間ごときが――!」魔族が吐血しながら叫ぶ。しかし、エレナは一切の容赦を見せなかった。 彼女の身体能力は人間の域をはるかに越えている。視線すら追えない速度で踏み込むと、魔族の胸の突起、魔力の核を的確に穿った。「清められなさい」透明感のある声とともに、エレナの剣から蒼白い光が放たれる。核を貫かれた魔族は、悲鳴を上げる間もなく黒い灰となって霧散していった。村のあちこちで暴れていた他の魔族たちも、エレナの登場によって瞬く間に駆逐されていく。舞うような剣舞。一切の無駄がない完璧な戦闘挙動。十数体の魔族は、わずか数分のうちに一匹残らず消滅した。火の海と化した村に、静寂が戻る。「す、凄い……」「助かった……俺たちは、助かったんだ!」逃げ惑っていた村人たちが、おそるおそる瓦礫の陰から顔を出した。彼らの視線は、中央にたたずむエレナへと集中する。闇の中に浮かび上がる彼女の容姿は、あまりにも美しく、そして神秘的であった。透き通るような白磁の肌に、深遠な紫水晶を思わせる瞳。「皆様、お怪我はありませんか?」エレナが振り向き、柔らかく微笑む。その姿はまさに、危機に駆けつけた救世の聖女そのものであった。「ありがとう、お嬢さん!あんたのおかげで命が助かった!」「なんて強いお方だ……神の使者様に違いない!」村人たちは涙を流して感謝し、エレナの手を握り締めた。エレナは優しく微笑み返し、彼らの言葉に一つひとつ丁寧に頷いていく。傷ついた人々を助け起こし、燃える家々に魔法のすいを放ち、鎮火を手伝った。誰もが彼女を称賛し、敬愛の眼差しを向けた。しかし、エレナの紫水晶の瞳の奥には、決して誰にも見せることのできない深い悲痛が沈んでいた。(ああ……胸が、痛い……)エレナは絶望を悟られないよう、笑顔の仮面を強く固定した。人々が感謝を口にすればするほど、彼女の体内で「何か」が重く、冷たく、肥大化していくのを感じていたからだ。



 真夜中。村人たちが安堵の中で眠りについた頃、エレナは静かに集落を離れた。村から数キロメートル離れた、人の気配が完全に絶えた深林の奥深く。巨木が乱立し、月光すら届かない暗闇の只中で、エレナはついに耐えきれなくなったように膝を突いた。「ハッ……、くっ……! アハッ……!」口から漏れ出たのは、艶やかな声ではなく、苦悶の呻きだった。 胸を掻きむしる。皮膚の裏側で、ドクドクと不気味な鼓動が波打っていた。「やめて……来ないで……!」エレナが胸を押さえて絶叫すると同時に、彼女の全身から黒酷こくこくとした不気味な魔力が爆発的に吹き出した。周囲の樹木が、その黒い魔力に触れた瞬間に枯れ果て、腐朽していく。それは、純粋な破壊の力であり、おどろおどろしい負の質量を持っていた。これこそが、彼女の身体が持つ「呪い」の正体であった。今夜、村人たちは魔族に襲われ、家を焼かれ、仲間を奪われた。彼らが心の中に生み出したものは、助かった安堵だけではない。討たれた魔族への、そして世界への、理不尽に対する「猛烈な憎悪と怨嗟」である。『あの汚らわしい魔族どもを殺せ!』『一匹残らず全滅しろ!』『なぜ我が家が、なぜ我が子がこんな目に遭わなければならない!』村人たちが無意識に撒き散らしたその激しい憎悪の感情は、不可視の波動となって大気を満たしていた。そして、その憎悪の波動を根こそぎ吸い上げ、己の魔力へと変換して溜め込んでしまう器こそが、エレナの肉体だった。黒い魔力がエレナの体内になだれ込んでいく。吸えば吸うほど、彼女の体内の魔力回路は強化され、肌は艶を増し、筋力は跳ね上がり、魔法の精度は増していく。「あぁぁ……ッ!」あまりの魔力の奔流に、エレナの背中から黒い光の帯が羽のように広がる。それは、彼女が人間を救えば救うほど、強固になっていく呪縛だった。エレナの正体。それは、人間に危害を加える魔族の頂点に君臨する、「大魔王」の実の娘であった。



 通常の魔族は、人間の「肉体」や「生命力」を奪って生きる。だからこそ人間にとって魔族は捕食者であり、害獣であった。しかし、魔王の純血を引くエレナの体質は、決定的に異なっていた。彼女は人間の「憎悪」を直接のエネルギー源として吸収し、無限に強くなることができるのだ。人間が誰かを強く憎めば憎むほど、彼女は強くなる。人間が魔族を怨めば怨むほど、彼女の魔力は爆発的に覚醒していく。「また……強くなってしまった……」黒い魔力が体内に収まると、エレナは地面に両手をつき、ポロポロと大粒の涙をこぼした。なんという皮肉だろうか。彼女の本心は、戦いを望んでなどいなかった。心から平和を望み、悲しむ人間を助けたいと願っていた。誰かと笑い合い、温もりを分かち合いたかった。だが、彼女が人間を救うために振るう剣は、村人に「魔族への憎悪」を再認識させる。救われた人間が魔族を憎めば憎むほど、彼女の体はより凶悪な、より絶対的な「最強の魔族」へと進化を遂げてしまうのだ。「私が出会う人が……私が助けた人たちが……みんな私を、化物に変えていく……」強くなればなるほど、愛したいはずの人間から遠ざかっていく。人間を誰よりも愛しているのに、人間の憎しみによってしか己の存在を維持できない。「誰か……私を止めて……」月明かりのない森で、魔王の娘は一人、膝を抱えてすすり泣いた。



 その時であった。空間が、歪んだ。エレナのすすり泣く声が、突如として途絶える。周囲の音が完全に消え去り、風のそよぎすら止まった。時間が停止したかのような錯覚。森の木々が黒い影へと変貌し、エレナの足元の影がぐにゃりと歪んで広がり始める。影の底から、底知れぬ圧迫感が溢れ出してきた。それは、世界の法則そのものが質量を持って押し潰してくるかのような、絶望的な神威。「虚しい抗いだ、我が娘エレナよ」脳髄に直接響くような、重厚で冷徹な声だった。声が発せられるたびに、大気が震え、エレナの皮膚がピリピリと痺れる。「……父上……」エレナは顔を上げ、蒼白な唇を震わせた。彼女の眼前に広がる影の中から、二つの紅蓮の光が浮かび上がっていた。それは実体ではない。遥か遠く、魔王城の玉座から投げかけられた、大魔王の視線であった。「人間を助け、人間と交わり、平和を祈るか。……滑稽だな。お前がどれほど善性を装おうと、お前の本質は我が血族。人間の負の感情を食らう不条理の器なのだ」「違います!私は……私は人間と争いたくない!この悲しい連鎖を終わらせたいだけです!」エレナは立ち上がり、父親の影に向かって叫んだ。だが、魔王の声には怒りも呆れもなく、ただ冷徹な絶対の理だけが込められていた。「終わらせる?どうやってだ?人間が生きている限り、憎悪は生まれる。憎悪が生まれる限り、我ら魔族は無限に湧き出る。我らとは、人間が自ら吐き出した毒が形をなしたものに過ぎん」魔王の影が、ゆらりと巨大化する。エレナの背後に覆いかぶさるように、巨大な角を持った大魔王のシルエットが天地を切り裂くほどに膨れ上がった。「お前が人間を愛せば愛すほど、お前は彼らの憎悪を吸い上げ、我ら魔族の頂点へと近づいていく。お前が人間を救う行為そのものが、お前を最強の大悪魔へと仕立て上げているのだ。……これこそが、この世界の完成されたシステムなのだよ」「そんな……そんなこと……ッ!」エレナは己の手を見つめた。 今夜吸い上げた憎悪によって、彼女の体内にはさらなる強大な力が充填されている。絶望的なまでに、魔王の言葉は正しかった。「抗いは終わりだ、エレナ。人間に化け、人間を観察するお前の遊戯はここまでとせよ。……帰還せよ。次なる絶望の宴が始まる」大魔王の影が、圧倒的な威圧感とともにエレナを飲み込もうと迫る。「嫌……!私は戻らない!私は……諦めない!」エレナは必死の思いで剣を抜き、父の影を切り裂いた。闇が弾け、停止していた時間が再び動き出す。風が吹き抜け、森に音が戻った。大魔王の気配は消えていた。しかし、去り際に残された冷酷な宣告だけが、エレナの鼓膜に重く残り続けていた。一人取り残されたエレナは、荒い息をつきながら剣を鞘に収めた。手は細かく震えている。(諦めない……。でも、どうすれば……?どうすれば、この憎しみの連鎖を止められるの……?)憎悪をエネルギーとする世界。人間が存在する限り、憎しみは生まれ、魔族は生み出され続ける。そして自分はその憎しみを喰らって強くなり続ける。出口のない暗闇の中に、彼女はたった一人で放り出されていた。涙を拭い、エレナは夜空を見上げた。雲の隙間から、わずかな月光が差し込んでいる。(人間社会の深くまで入ろう。勇者と呼ばれる者たちが集まる街へ……。世界の理を変える手がかりが、きっとどこかにあるはずだから)自分自身が最強の化物になってしまう前に。少女は、悲痛な決意を胸に、静かに歩き出した。



 数日後。王都へと続く街道の沿線にある、活気あふれる宿場町。エレナは身分を隠すためのフードを深くかぶり、喧騒の中を進んでいた。人間たちの活気、笑顔、焼きたてのパンの匂い。ここにいる人々を守りたいという想いと、自分が近づくことで彼らの憎悪を吸ってしまうのではないかという恐怖が、交互に胸を締め付ける。その時だった。「おい、そこの魔法剣士」不意に、背後から声をかけられた。立ち止まり、振り返るエレナ。そこに立っていたのは、一人の青年だった。使い込まれた皮の胸当てに、一振りの標準的な長剣。華美な装飾はなく、一見すればどこにでもいる一駆け出しの冒険者に見える。だが、その青年の眼光は、あまりにも静かで、冷徹なまでの観察眼を宿していた。「……何かご用でしょうか?」エレナは努めて朗らかに、旅の剣士としての微笑みを浮かべた。青年はエレナの顔をじっと見つめると、ゆっくりと歩み寄り、彼女の耳元に顔を寄せた。そして、周囲には聞こえないほど小さな、だが氷のように冷たい声で呟いた。「いい演技だね。……で、君はその体で、何人分の『人間の憎しみ』を食ってそこまで強くなったんだ?魔王の娘さん」「―――ッ!?」エレナの息が止まった。全身の血が凍りつくような感覚。なぜ?完璧に隠していたはずだ。魔力も、姿も、気配すらも。初対面の、見知らぬ人間に過ぎないはずのこの青年は、一目で彼女の最大の秘密「憎悪を食らうシステム」の核心まで見抜いていた。呆然と目を見開くエレナに対し、青年は冷ややかな、けれどどこか狂気じみた愉悦を孕んだ笑みを浮かべた。

「僕の名前はレイ。君という『世界のバグ』を、ずっと探していたんだ」驚愕に染まるエレナの瞳と、不敵に微笑む青年の顔が重なり合う。世界の理に抗う少女と、世界をハッキングしようとする狂気の青年。二人の運命が出会った瞬間、世界のシステムが歪み始めていた。



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