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最終章 「システムのハッキング」

 荒涼とした岩場に、夜風が吹き抜けていた。レイに抱きしめられたまま、エレナは全身の震えを止めることができずにいた。「レイ……さん……ダメです……!離れてください……!私の体からは、人間の憎しみでできた毒が溢れ出ているんです……!あなたまで狂ってしまいます……!」エレナの背から伸びる漆黒の翼が、拒絶するように不気味な黒光りを放ち、頭上の黒角が周囲の大気を凄まじい圧力で歪めていく。これまでの千年間、魔族とは「人間の憎悪」という排泄物だけを燃料にして生きてきた。魔王の娘であるエレナの体質は、その世界の理そのものだ。どんなに優しさを求めても、触れた人間の正気を奪い、憎しみの渦へと巻き込んでいく。しかし、レイの腕が緩むことはなかった。むしろ、骨が鳴るほどの力でエレナの細い身体を強く、強く引き寄せ、逃がそうとしない。「離れる? 断るね」耳元で響くレイの声には、恐怖の欠片すら存在しなかった。彼の体温が、服を焼き焦がすほどの黒い魔力越しに、ダイレクトにエレナの皮膚へと伝わってくる。「レイさん……私を……怖くないのですか……?」「怖がる?なぜ僕が、僕の最高の研究対象を怖がらなきゃならないんだ」レイはフッと不敵な笑みを漏らした。その瞳は、エレナという一人の少女を通して、その向こう側に横たわる世界という名の巨大な構造体を凝視していた。「いいか、エレナ。この世界の法則は欠陥だらけだ。『魔族は人間の憎悪からしか生まれない』『魔族は憎悪しか吸い上げられない』……誰もがそれを世界の理だと信じ込み、思考を停止させてきた」レイの手が、エレナの背中を、髪を、愛おしそうに撫で下ろす。だが、その触れ方は聖者による慈愛ではない。未知の概念を力ずくで書き換えようとする、一人の天才的な観測者による絶対的な執着であった。「誰も……そんな実験をしていないだけさ」



 「実験……?」エレナの紫水晶の瞳が、驚愕に揺れた。「そうさ。誰も試したことがないんだ。憎悪という負の感情の受信回路に、まったく別の、もっと苛烈で、もっと歪んだ巨大なエネルギーを流し込んだらどうなるか」レイはエレナの顎を指先で掬い上げ、自らの顔を至近距離まで寄せた。 二人の息が触れ合うほどの距離。「憎悪の回路を……僕のこの、歪んだ独占欲と執着、そして『愛』という名の過剰なエネルギーで、過負荷にしてやる」「あ……愛……?」エレナの息が止まった。「そうだ。誰も救おうとしない、誰も理解しようとしない君という世界のバグを、僕だけのものにする。君の苦しみも、不条理も、そのおぞましい魔王の血すらも、すべて僕が観測し、支配し、解明してやる」レイの言葉は、常識的な愛の告白などではなかった。それは、世界というプログラムに対する宣戦布告であり、目の前の少女を永遠に縛り付ける狂気的なまでの誓いであった。「……ッ!?」レイの胸から、言葉を介さぬ感情の波動が爆発的に解き放たれた。それは、生温かい同情などではない。 世界の理を力ずくでねじ伏せ、エレナという存在を丸ごと自分の領域へと引きずり込もうとする、圧倒的で、苛烈で、どこまでも美しい狂った執着。その巨大なエネルギーが、エレナの体内に存在する負の受信回路へと容赦なく流し込まれた。世界の根底で、何かが切り替わる音が響いた。



 「異常値検出」「世界構成概念の異常変動を確認」「既存の入力値フォーマットが破綻――再構築を開始」



 脳内に直接響くような、世界のシステムログ。次の瞬間。エレナの背中から生えていた黒い羽が、頭上の禍々しい角が、全身を覆っていた紫の紋様が瞬時に閃光へと変換された。ドドドドドドッ!!「な……んだと……!?」レイすらも目を見開いた。エレナの身体から噴出したのは、これまでの不吉な黒い魔力ではなかった。それは、夜の荒野を真昼のように照らし出し、天界の星々すら霞ませるほどの「眩い白色の魔力」であった。黒から白へ。 負から正へ。憎悪から、狂おしいほどの「愛情と執着」へ。千年間、世界を縛り付けていた「魔族は憎しみから生まれる」という絶対の法則が、レイという一人の人間の狂気によって、完全に塗り替えられた瞬間であった。「ア……アーーーーーッ!!」エレナの口から解き放たれたのは、苦痛の叫びではなかった。 己を縛り続けていた呪いから解き放たれ、新しい「世界の力」を得た少女の、高らかな産声であった。光の柱が天を穿ち、雲を押し拓き、夜空全体を眩い白色の光芒で染め上げていく。



 その影響は、荒野だけに留まらなかった。世界の果て。黒雲に包まれ、永劫の闇に閉ざされていたはずの魔王城。玉座の間で、目を閉じて沈黙を守っていた大魔王が、突如として激しく目を見開いた。「なに……!?」大魔王は巨躯を震わせ、一千年の歴史の中でただの一度も動かすことのなかった重厚な玉座から、ガタリと音を立てて立ち上がった。彼の前に展開された「世界の魔力潮流図」が、狂ったように真白な光で塗りつぶされていく。「馬鹿な……!あり得ん……!憎悪以外の感情が……あの娘の中で、魔力へと変換されたというのか……!?」大魔王の顔が、生まれて初めての「恐怖」と「困惑」に歪む。「世界のシステムが……壊れる……!一千年続いた、我らの存在基盤そのものが……書き換えられていく……!!」魔王城の外では、空を覆っていた太古の黒雲がバリバリと音を立てて引き裂かれ、遥か高みから降り注ぐ「眩い白色の光」が、魔族の都を照らし出していた。そして、世界中が目撃した。朝でもない、夜でもない。暗闇に包まれていた世界全体を、天を割って降り注ぐ巨万の白光が優しく包み込んでいく見開きの光景を。「憎しみの連鎖」によって構築されていた世界の法則が、たった二人のバグによってハッキングされ、不可逆の破綻を迎えた瞬間であった。



 荒野のただ中。天を突き破った光の奔流がゆっくりと収まり、嵐のような魔力の余波が、凪いだ海のように静まり返っていく。そこには、互いを強く抱きしめ合うレイとエレナの姿があった。エレナの頭上から伸びていた禍々しい黒角は綺麗に消え去り、背に広がる黒い翼は、まるで夜明けの霧が溶けるように純白の光の羽となって散っていった。「あ……あ……」エレナの口から、掠れた吐息が漏れた。いつも彼女を苛んでいた、胸の奥を抉るような「世界の憎悪」の痛みが、跡形もなく消えていた。代わりに体内を満たしていたのは、温かく、けれど息が止まるほど濃厚で、逃れようもないほど深く重いレイから注ぎ込まれた「執着」と「愛」の残熱であった。エレナはそっと、自分を抱きしめる青年の胸元に触れた。レイの衣服は、彼女が放っていた黒い魔力によって焼け焦げ、皮膚には痛々しい火傷の痕が残っている。それなのに、青年の鼓動はどこまでも静かで、規則正しく脈打っていた。「レイ……さん……。私……私、どうなってしまったのですか……?」エレナの紫水晶の瞳には、かつて彼女を打ちのめしていた絶望や恐怖の影は、もはや一切残っていなかった。己を抱きしめる青年。自分という「化物」を恐れず、世界という理不尽な構造ごと力ずくで書き換えてしまった狂気の青年へ向けられた、深く澄んだ憧憬と依存の光が宿っていた。レイはエレナの身体を抱く力をゆっくりと緩めると、満足そうに口元を歪めた。その瞳は、傷ついた少女を憐れむ聖者のものではなく、難攻不落の巨大な要塞をついに陥落させた攻略者の愉悦に満ちていた。「どうなった、か。言葉通りのことが起きただけさ」レイは指先でエレナの頬を包み込み、優しく、けれど絶対に拒絶を許さない強い力で己の目を合わせさせた。「君という存在の動力源が、完全に差し替わったんだ。千年間、魔族を縛り続けてきた『憎悪』という古いプログラムは、僕が流し込んだ『愛』という名の過剰なデータによって破綻した」「私の……燃料……」「そうさ。これからの君は、人間たちの憎しみを吸って強くなる化物じゃない。僕の執着と独占欲、僕が君へ向ける感情のすべてを喰らって動く。僕だけの『絶対的なバグ』だ」レイの言葉は、恐ろしいほどの独占欲に満ちていた。それは決して優しいだけの救済ではない。エレナという存在の根底を、自分という存在なしでは生きられないように上書きしてしまう、甘く残酷な束縛。だが、エレナはその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱く震えるのを感じていた。世界中の誰からも「憎しみの対象」としてしか見られなかった自分。 救おうとすればするほど、愛そうとすればするほど、排斥され、嫌悪されてきた己の存在。そんな自分を、この青年だけは世界を敵に回してでも「自分だけのもの」として求めてくれた。「……はい」エレナは涙に濡れた瞳を細め、自分を包み込むレイの手のひらに、すがるように頬を寄せた。



「私を……あなたのものにしてください、レイさん」



 可憐な声の中に、明確な覚悟と、取り返しのつかない深い愛着が宿っていた。「あなたが私を求める限り……私は、あなたのための力になります。世界が私たちを何と呼ぼうと……私は、あなただけの剣であり、盾になります」「良い返事だ」レイは口元を歪め、深く、静かな笑みを浮かべた。二人はゆっくりと身を起こし、並んで夜空を見上げた。かつて世界を包み込んでいた暗雲は切り裂かれ、天の破れ目からは、眩いまでの純白の光線が地上へと降り注いでいた。遥か遠くの村々や、冒険者たちが眠る街、そして人間を拒絶し続けてきた魔王城にまで、その異常な光の帯が届いている。一千年間、誰も疑うことのなかった「世界のルール」は、いまや完全に破壊されたのだ。「さあ、始めようか」レイはエレナの手を、指を絡め合わせるようにして強く握り直した。エレナもまた、その手を強く握り返す。握り締められた二人の手のひらから、優しくも圧倒的な白色の魔力が小さく爆ぜた。破綻した世界に向かって、レイは不敵に、そしてどこまでも冷徹な愉悦を込めて呟いた。



 「ここからが、僕たちの世界の書き換えだ」透き通るような白い光が、荒野の二人を、そして変わりゆく世界を飲み込んでいく。「憎しみの連鎖」によって創られた旧世界が終わりを告げ、狂気の青年と魔王の娘による、新しい世界の変革が、いま静かに幕を開けたのだった。





【エピソード一 完】




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