第16話 奈落の王は眠らない
通常、勝負がつくと召喚獣は消える。少なくとも、これまで僕が見てきた召喚獣はそうだった。
けれど、タルタロスだけは違った。
黒い煙の巨体は、なおも戦場に立っている。
煙の奥で揺れる赤い光が、ローウェンを捉えたまま離さない。
「おい……勝負はついただろ」
ローウェンの声が、少しだけ掠れていた。
さっきまであれだけ余裕ぶっていたくせに、今は一歩も動けていない。
いや、動けないのだ。
タルタロスに睨まれたまま、下手に動けば何をされるかわからない。
それは僕にもわかった。
「タルタロス、助かった。戻ってくれ」
僕は命じた。命じた、はずだった。
だが、タルタロスは戻らない。
煙の奥で、赤い光だけがゆっくりとこちらを向く。
その一瞬、胸の奥が冷えた。
それは、召喚獣が召喚者を見る目ではなかった。
そしてタルタロスは、すぐにローウェンへ視線を戻した。
ジャラ、とローウェンの足元で鎖の音がした。
まずい。制御できていない。
「タルタロス、やめろ!」
叫んでも、届かない。
ローウェンの顔から血の気が引いていく。両足には、先ほど召喚獣を闇へ引きずり込んだものと同じ黒い鎖が、蛇のように絡みついていた。
鎖はゆっくりと締まり、ローウェンの身体を奈落へ引きずり込もうとしている。
「っ……!」
ローウェンが歯を食いしばる。
けれど、動けない。振り払えない。
タルタロスに見据えられたままでは、抵抗することすら許されていないようだった。
その時だった。
「……ほんと、しゃれになってないんだけど」
呆れたような声が、後ろから聞こえた。ルナさんだった。
黒い法衣を揺らしながら、彼女はゆっくり前へ出る。
いつもの、人を食ったような笑みはもうない。
タルタロスがゆっくりと視線を動かした瞬間、空気そのものが沈んだような錯覚を覚えた。
胸が圧迫され、呼吸が浅くなる。ローウェンですら動けない。僕もまた、得体の知れない威圧感に身体を強張らせていた。
そんな中、ルナさんだけが動いた。
ルナさんの声が、静かに響いた。
歌うようで、祈るようで、それでいて命令のようでもあった。
「其は暗闇。其は破滅。其は奈落の底に座すもの。契約は果たされた。ゆえに、あるべき淵へ還れ」
タルタロスの動きが、ぴたりと止まる。
空気が凍り、次の瞬間、ローウェンの足から鎖が外れていた。
その光景は目の端に映っていた。
けれど僕は、ルナさんから目を離せなかった。
黒い法衣をまとったルナさんは、ひどく華奢に見えた。
それなのに、その場の誰よりも恐ろしい存在を前にして、一歩も引いていない。
タルタロスの赤い光が、ゆっくりルナさんへ向けられる。
それでもルナさんは、視線を逸らさなかった。
やがて、断末魔のような声を残しながら、タルタロスの巨体が黒い霧となって崩れていく。
煙は地面へ溶けるように沈み、そのまま戦場から消えた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
僕はそこでようやく、自分が息を止めていたことに気づく。
ルナさんが静かにこちらを振り返った瞬間、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。
――その瞬間だった。
ルナさんの顔が、一気に険しくなる。
「何を呼んでんだよ、お前! あんなもん、見ただけでやばいのわかるだろ。デッキに入れるな! 召喚するな!」
先ほどまでの神秘的な雰囲気は消え失せ、いつものルナさんに戻っていた。
まだ喉の奥が冷えていた。
タルタロスの赤い光を思い出すだけで、背中に汗が滲む。
それでも僕は、いつもの調子を取り戻すように言った。
「……負けられない勝負だったので、つい」
「つい、じゃない!」
ぴしゃりと言い切ったあと、ルナさんは眉を寄せた。
「どこからあんなもん手に入れた? もしかして、俺が渡したパックか?」
その声音は、さっきより少し落ちていた。
表情も曇っている。責任を感じているのだろう。
けれど、ルナさんのパックが悪いわけじゃない。
「……いえ、未解放カードです」
「……は?」
ルナさんの表情が固まる。
「未解放カードって、召喚者が一生かけて一枚開くようなもんだぞ? それを十日で解放できましたとか、舐めてんのか?」
またヒートアップしてしまった。
嘘でもルナさんのパックから出たことにしておけばよかった。
ルナさんは頭を押さえるようにため息を吐き、それから僕を睨みつけた。
「さっきのカードも、俺が渡したパックから出た闇属性のカードも、今後使うな。あれは使っちゃいけない」
確かに、一歩間違えば危なかった。
ルナさんがたまたまここにいたから、この場は収まった。
もし、いなければ。
ローウェンは、闇の中に引きずり込まれていたかもしれない。
「わかりました。もう使いませんよ」
「絶対だぞ。次は助けないからな」
そう言ってから、ルナさんは茫然自失としているローウェンに向き直った。
「君も、このことは他言無用だ。絶対、外に漏らすな」
ローウェンは、さっきまでとは違う目で僕を見ていた。
怯えと、警戒と、ほんの少しの畏れが混じった目だった。
青い顔のまま、ローウェンが小さく首を縦に振る。
いつもの軽口を叩く余裕は、もう残っていない。
「しかし、残念でした」
ルナさんが、顔を真っ赤にして怒る。
「まだ未練があるのか? さっきので十分わかっただろ?」
「いえ。ルナさんとの賭け、未解放カード十枚じゃなくて一枚にしておけばよかった」
「なんでそうなる?」
「そうすれば、今ごろルナさんは、僕のものだったのに……」
「つっ……」
今度は怒りではなく、別の意味で顔が真っ赤に染まった。
冗談めかして言ったが、半分は本気だった。
タルタロスを鎮めた、あのときのルナさんの姿が頭から離れない。
「兄さん……今それを言えるの、逆にすごいな」
ローウェンが呆れたように呟く。
さっきまでの怯えはまだ残っているのに、それでも少しだけ、いつもの調子が戻っていた。
そのとき、バインダーの中で亀裂が広がる音が聞こえた。
あぁ、もう次が来るのか。
次はもう少し、おとなしいやつを頼む。
第一章、ここまでです。
読んでくださりありがとうございます。
次章からは、透の召喚師としての活動が本格的に始まります。
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