第5話 魔物との初戦闘
廃墟の街中を疾走しながら、拳一郎はあらためて自身の身体の変化に驚いていた。
身体が羽のように軽くなっている。
事実、拳一郎の両足は空すらも駆けられそうなほど動いていた。
それだけではない。
肉体自体が恐ろしく強靭になっていたのだ。
その証拠に地面には瓦礫の破片が無数に散らばっていて、本来は素足の状態だと一メートルも移動できない状態になっている。
にもかかわらず、今の拳一郎は厚底のブーツを履いているかのように全力疾走が可能だった。
素足なので瓦礫の破片を踏みつけている感触はあるものの、足裏が切れて怪我をするというイメージが湧いてこない。
痛みもなかったことから、拳一郎はトップスピードをほとんど落とさず声の発生源へと駆けることができていた。
だが、土地勘のないダンジョンの中――それも複雑に入り組んだ廃墟の街中だ。
どうしても大きな建物の前に来るなり立ち止まり、迂回して再び走り出すという手間が何度も発生した。
拳一郎は不意に立ち止まり、両目を閉じて神経を集中させる。
理由が不明だった身体能力の向上は、感覚器官の向上でもあったのだろう。
助けを求める少女の声は徐々に大きくなってくるが、思ったよりも距離が離れているらしく地面を走っていたのでは時間をロスしている感じがする。
そこで拳一郎は地面を走るのをやめた。
意を決した拳一郎は全力疾走すると、目の前にそびえ立つ四メートルほどの建物の壁に向かって跳躍。
壁の突起物を足場にして一気に屋上へと駆け上がる。
(これなら、いける!)
拳一郎は屋上から廃墟の街並みを一望し、およその声の発生源を特定すると、そのまま建物の屋上伝いに移動することにした。
建物と建物の間は二、三メートルほどの距離があったが関係ない。
拳一郎は全身のバネを利用して建物から建物へと飛び移り、最短距離で目標の場所へと移動していく。
どれぐらい屋上跳びを繰り返しただろう。
やがて拳一郎の視界に、廃墟の中でも開けた場所の様子が飛び込んできた。
「――――ッ!」
拳一郎は開けた場所に一番近い建物の屋上で足を止め、息を呑みながらその場所を見下ろす。
「ギョギョギョッ!」
「ギャギャギョヘギョエッ!」
「ギョッヘギョッヘ!」
ダンジョンの魔物たちがそこにいた。
禿頭に長い耳と鼻。
目つきは鋭く、大きく開いた口からは獰猛な牙と長い舌が覗いている。
体格は小学生ほどで全身は濃い緑色。
原始人のような頑強な肉体を剥き出しにしながら、大事な部分は腰蓑で隠しているという限りなく人間に近いタイプの魔物だった。
ゴブリン。
専門書や動画などでしか見たことがなかったが、こうして現実に見ると離れた場所からでも強めの獣臭が漂ってくる。
そんなゴブリンたちは扇状に広がり、全員で宝箱を棍棒などで叩いていた。
ダンジョンの中には〈魔法石〉や〈魔鉱物〉などの特殊鉱物以外にも、RPGに登場するような形の宝箱も存在している。
ただし、宝箱と言っても全部にアイテムが入っているわけではない。
大抵はトラップやミミックと呼ばれる魔物の巣であるという。
そんな宝箱だったが、ゴブリンたちが破壊しようとしている宝箱は普通の木製の宝箱と明確に違った。
黄金色の金属製で、錠前部分が白と黒のまだら模様になっていたのだ。
「この、ボケどもが! やめろっちゅうのがわからんのか!」
拳一郎はハッとした。
関西弁の少女の声は珍しい外見の宝箱の中から聞こえてくる。
どうして聞こえているかはわからない。
ダンジョンに降り立った場所からここまで数百メートルはあった。
普通ならば絶対に聞こえない距離だ。
なのに拳一郎の耳には脳に直接届いているように聞こえる。
誰かに助けを求める少女の悲痛な叫び声が。
そう思った瞬間、拳一郎の身体は考えるよりも早く動いた。
屋上から開けた場所に飛び降り、ゴブリンたちに向かって大声で言い放つ。
「やめろ!」
拳一郎の声にビクッとなったゴブリンたちは、宝箱を叩くのをやめて一斉に振り向いた。
「ギョオオオオッ!」
拳一郎を見たゴブリンたちは、それぞれ武器を構えて大声で威嚇してくる。
(これがダンジョンの魔物の威圧感か)
ダンジョン探索専用の動画プラットフォーム――シーク・ストリームに投稿されている動画やアーカイブ配信からは伝わってこない圧倒的なリアル感。
探索者関連の掲示板やZなどのSNSには、ゴブリンなんてゲームでも低級だから実際でも低級の魔物だろうと投稿している者が多い。
とんだ勘違いだ。
拳一郎は腹の下にある丹田に力を入れて臨戦態勢を整えた。
こうしてリアルに対峙すると実感する。
ゴブリンは猪や熊と同じ猛獣だ。
違いは猪や熊と違って人間に似ているというだけで、集団で巧みに武器を使ってくるとなると猛獣よりもタチが悪い。
などと考えている一方、拳一郎は不思議な感覚を味わっていた。
生まれて初めて本物の魔物と視線を交わしているというのに、心は微塵も乱れないのだ。
数週間前、美雪の前でダンジョン探索者に苦汁を飲まされたときとは違う。
今の心境をたとえるなら、一切の波が立っていない静かな水面。
拳一郎は怯えや恐れがなく心が澄み切った状態――明鏡止水の境地を実感しつつ、限りなくリラックスした無構えの状態でゴブリンたちを見つめる。
正直なところ、今の自分ならば視界に映っている三匹のゴブリンたちを素手で倒すこともできるだろう。
理由はどうあれ魔物を前にしても平静でいられる精神力と、込み上げてくる不思議な力のおかげで身体能力が格段に上がっているのだ。
しかし、相手はダンジョンに生息する獰猛な魔物である。
さすがに無傷で退散させることは難しい。
とはいえ、理由のない殺生をするのは嫌だった。
それに拳一郎は正式な探索者でもなければ配信者でもない。
魔物を殺したときに稀に出現するというドロップアイテムを拾っても、探索者ライセンスがなければ交換所でアイテムの交換はおろか現金に換金もできない。
そればかりか探索者ライセンスがない者が勝手にダンジョンに潜る行為は違法だ。
日本政府が定めた「地下迷宮等危険区域管理対策特別措置法」――通称、ダンジョン法に触れて確実に刑事罰を受ける。
では、ゴブリンたちから背を向けて逃げるべきか?
答えは否だ。
耳を澄まさなくても宝箱の中からは「何や! 一体、何が起きてるんや!」と少女の不安げな声が聞こえている。
ここで自分が逃げてしまえば、ゴブリンたちは再び宝箱を攻撃して破壊しようとするだろう。
宝箱の大きさは低学年の小学生が身体を丸めれば十分に入るサイズ。
もしかすると自分と同じで何らかの理由でダンジョン内にワープしてきて、魔物たちから身を守るために宝箱に隠れている人間の子供という可能性もある。
となると、やはり逃げるという選択肢はなかった。
だが、魔物とはいえ理由もなく闘いたくはないというのも本音である。
(どうする? どうすればいい)
と拳一郎が激しく葛藤したときである。
「ギョギョギョギョ」
一匹のゴブリンが首元に下げていたネックレスを見せつけてきた。
何重と巻いた草の根と肉片で作った手製のものらしい。
「…………」
そのネックレスをしっかりと見た拳一郎は目を剥いた。
人間の耳だ。
何かの動物の肉片だと思ったものは、千切り取った人間の耳だったのである。
「ギョギョギョ~ギョギョ!」
「ギョヘギョヘギョギョ!」
「ギョーギョーギャギャギョヘヘ!」
ゴブリンたちの言葉など理解できない。
けれど言葉以外の情報からゴブリンたちの言っていることが理解できた。
楽しそうに人間の耳のネックレスを触って喜んでいるゴブリン。
拳一郎に指先を突きつけて嬉しそうな顔をしているゴブリン。
その場で棍棒を振ってはしゃいでいるゴブリン。
あのゴブリンたちはこう言っているのだ。
『人間だ人間だ!』
『俺たちの餌の人間だ!』
『殺したあとに耳を千切って装飾品にしよう!』
下卑た顔で笑っているゴブリンたちを見つめていると、耳の奥にキイインという不快な耳鳴りがしてきた。
同時に、ここ最近の嫌な出来事がフラッシュバックされる。
――実は怖くてずっと黙っていたんですけど、わたしは以前から神山さんにストーカーされていました
ギリッと右拳を握る。
――はい、これは少ないけど退職金の代わりね。今日までお疲れさまでした……え~と、君は神谷くんだっけ?
ギリリリッと右拳を強く握る。
――そういうことで、あなたのクビは決定しましたよ。社長のおっしゃったように転職活動を頑張ってくださいね。神谷さん
ギリリリリリリッと右拳をさらに強く握る。
拳一郎は自分でもわかった。
拳を強く握り込み続けたせいで、爪が皮膚に食い込んでジワッと血が滲んできたことを。
過去の記憶がフラッシュバックしたせいか、拳一郎の視界に捉えている三匹のゴブリンと別の人間たちの姿が重なった。
灰原美雪、五味岡哲夫、間宮新一の三人の姿と――。
直後、拳一郎の中で理性の糸がぷつりと切れた。
「ああああああああああああああ」
拳一郎は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
野獣の咆哮に似た、尋常ならざる叫び声が周囲に轟く。
これにはゴブリンたちも笑い声をピタリとやめ、顔色を変えて真剣に棍棒を構えた。
拳一郎がただの餌ではなく、実は警戒しなくてはならない敵だったと再認識したのだろう。
一方の拳一郎はゴブリンたちの警戒など完全に無視し、静かな人間性を脱ぎ捨てて暴風のような荒ぶる本能を剝き出しにした。
拳一郎は無構えから天地陰陽の構えにスムーズに移行する。
もう余計な感情は一切なかった。
ダンジョンの中は大自然と同じ。
ダンジョンの中に生息する魔物は大自然に生息している猛獣と同じ。
偶然だろうと必然だろうと、出遭ったからには選択肢は三つに一つしかない。
無抵抗で殺されるか。
何もかも置いて逃げるか。
全身全霊で闘うか。
そして拳一郎は最後の選択肢を選んだ。
「ギョオオオオオオオオオオオオッ!」
拳一郎の全身から放射された闘気に反応したのだろう。
ゴブリンたちは一斉に地面を蹴って間合いを詰めてきた。
五メートルは離れていた距離が瞬く間に縮まる。
(――遅い!)
拳一郎はカッと両目を見開いた。
戦闘モードに入った拳一郎にはゴブリンたちの俊敏な動きもスローモーションのように遅く見えた。
一匹目のゴブリンが頭上めがけて棍棒を振り下ろしてくる。
拳一郎は絶妙なタイミングで身体を半身に切ることで、一匹目のゴブリンの振り下ろし攻撃を回避する。
もちろん、拳一郎は反撃も視野に入れていた。
拳一郎は攻撃を回避しながらも右拳を脇に引いていたのだ。
一匹目のゴブリンが驚愕する間もなく、拳一郎は顔面めがけて正拳突きを放つ。
ゴシャッ!
空気を切り裂きながら繰り出された正拳突きは、一匹目のゴブリンの顔面に直撃して皮膚のみならず頭蓋骨までも粉砕した。
拳一郎の攻撃は止まらない。
続いて二匹目のゴブリンの腹に中段前蹴りを放った。
ドズンッ!
破城槌のような前蹴りをまともに食らった二匹目のゴブリンは、大量の血を吐いて後方に大きく吹き飛ぶ。
拳一郎の猛撃は続く。
三匹目のゴブリンの側頭部に渾身の回し蹴りを繰り出す。
ボギンッ!
太い枝を折ったような音が鳴った。
拳一郎の回し蹴りによって頚椎がへし折れた音だった。
三匹のゴブリンを瞬殺した拳一郎だったが、すぐに後ろに飛んで再び天地陰陽の構えを取った。
残心である。
敵を倒した高揚感や闘いの余韻にひたるためではない。
闘いのあとでも静かに敵と場の状況を見極め、予想外の反撃や不測の事態に対処するために心を残すこと。
拳一郎はこの残心でもってゴブリンたちの様子を見据えたのだ。
時間にして十数秒。
「ふううう……」
拳一郎は構えを解き、細く長い息を吐いた。
ゴブリンたちが完全に息絶えたことを確認したのである。
やがて異様なことが起こった。
絶命した三匹のゴブリンたちの肉体がドロドロに溶けて地面に吸収されていったのだ。
やはり、ここはダンジョンの中だ。
ダンジョン内で命を失った魔物は、ダンジョン自体に吸収されて跡形も残らないのはシーク・ストリームの動画や配信で何度も見たことがある。
そして、そのあとのことも動画や配信でたまに見たことがあった。
「……これは」
ゴブリンが消えた場所の一つには、倒す前には絶対になかったアイテムが転がっていた。
そのアイテムとは――
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