第4話 ダンジョン転移
タクシーに乗ってから十数分後――。
拳一郎は十年以上ぶりに実家へと帰ってきた。
「全然変わってないな」
拳一郎の実家は村の中でも外れのほうにある。
周囲を高い塀で囲われた、木造建築の一軒家だ。
敷地面積はそれなりに広く、正門口からでも庭にあるプレハブ小屋を改築した道場の外観が見える。
左右の隣家とも距離があるため、道場で激しく稽古していても騒音苦情はない。
すべてが懐かしかった。
そして青春のほとんどを捧げた空手道場を見たせいだろうか。
拳一郎は右手の拳をギュッと握り締めた。
道場で稽古がしたいという〝うずき〟が怒涛の如く湧いてくる。
それでもまずは帰郷の挨拶からだ。
拳一郎は玉砂利の上に配置されている飛び石の上を歩き、母屋の玄関まで来ると少し緊張した面持ちでインターホンを押した。
「あら、拳一郎。思ったより早かったね」
出迎えてくれたのは花緒だった。
もう五十も半ばを過ぎているというのに、背筋はピンと伸びて顔のしわも少ない。
光沢のある艶やかな黒髪は染めているのかわからないが、真夏でも茶道教室の先生として着物を着ているのが母らしかった。
「さあ、上がって。まだ居間の場所は覚えているでしょう。すぐに冷たい麦茶を持っていくから」
このとき、拳一郎は小首をかしげた。
一見すると久しぶりに息子を快く出迎えたように見えたが、よく見ると顔色が少し悪くどこかよそよそしい。
「母さん、親父に何かあったのか? 病気や怪我をして入院しているとか?」
「え?」
花緒は立ち止まり、大きく目を見開きながら顔を向けてくる。
しかし、そんな表情も一瞬だけだった。
「いやね~、あの人に限って何もないよ。お父さんはちょっと寄合に行っててね。すぐに戻ってくるはずだから」
本当かもしれない。
拳一郎は花緒から道場へと視線を移す。
道場からは何の声も音も聞こえず、誰かが稽古している気配が感じられない。
源次郎は母屋よりも道場にいる時間のほうが長い空手バカだった。
だとすると、寄合に行っているので姿が見えないだけだろう。
「母さん、麦茶はいいよ。その前にちょっと道場で稽古してくる」
「稽古って……あんた、帰ってきたばかりなのに?」
「だからだよ。ずっと移動ばかりで身体がこってるからさ。少し稽古をして解したいんだ」
花緒は仕方ないとばかりにうなずく。
「あんまり無理せんときねの」
「ああ、わかった」
拳一郎は玄関の中にスーツケースを置くと、中から空手着と黒帯を取り出す。
大半の荷物はすでに実家へ送っていたが、この空手着と黒帯だけはスーツケースの中に入れていた。
実力の有無は関係なく、空手家は常に稽古できるように胴着と帯は手元に置いていろ。
これは源次郎の教えでもあり、拳一郎は上京してからも休みの日には近所の公共施設で空手の稽古を続けていた。
たとえ喧嘩別れした父親の教えでも、嫌いなのは父親の源次郎であって空手ではない。
拳一郎は胴着と帯の他にもタオルと500ミリのお茶のペットボトルを二本持ち、プレハブ小屋を改築した道場へと向かった。
玄関口で一礼してから中へと入る。
瞬間、むわっとした熱風が拳一郎を出迎えた。
「ここも変わってないな」
プレハブ道場の広さは三十畳ほど。
床には薄めのジョイント・マットが敷かれ、壁際にはバーベルやダンベル、天井の梁からはサンドバッグが吊るされている。
他にも年季の入ったスタンド式の巻き藁や木人もあり、道場の奥には昔からある小さな神棚も鎮座していた。
十数年前と何一つ変わらない光景だった。
しかし、拳一郎の中で何かが引っかかった。
「……ん?」
拳一郎は目眉をひそめながら神棚に歩み寄っていく。
観音開き式の神棚の扉が開いていたのだ。
拳一郎の脳裏に昔の記憶がよみがえってくる。
子供の頃、稽古の休憩中にこの神棚の扉を好奇心で開けようとしたことがある。
そのときに源次郎に激しく怒られ、それ以降は半ばトラウマになって神棚には一切近寄らなくなった。
なので神棚の中に何があるのか知らなかったのだが、実際に中を覗いてみたら黒曜石を想起させる黒い菱形の石が収められていた。
「何だこれ?」
拳一郎は眉間にしわを寄せた。
武道場の神棚に収められているものといえば、すぐに思いつくのは武道に縁のある神社の御札や流派を創設した開祖の写真か位牌である。
しかし仙武流空手は源次郎が一代で創始した流派であり、近所には武道に縁のある神社など一つもない。
「あのクソ親父……何がこの神棚の扉は絶対に開けるな、だ。どこで手に入れたのかわからない変な石を御大層に祀ってんじゃねえよ」
拳一郎は大きくため息を吐くと、道場の全部の窓を開放して空気を循環させた。
続いて道場の端で衣服を脱ぎ、空手着に着替えて黒帯を締める。
右胸の位置に【仙武館】と刺繍されている空手着だ。
そして拳一郎は壁の端に用意されていた業務用の大型扇風機を稼働させ、軽い準備運動をして本格的な稽古を始める。
最初は基本的な突きや蹴りの数稽古だ。
「……はあ、はあ……はあ、はあ……」
久しぶりの道場での稽古で熱を込めすぎてしまったようだ。
拳一郎は暴れ回る心臓の鼓動と呼吸を鎮めるべく、その場で何度も深呼吸を繰り返す。
やがて呼吸が正常に戻ってきたとき、拳一郎の脳裏に休憩という文字が浮かんだ。
「くそ……俺も年を取ったな」
若い頃は基本稽古で休憩するなどなかった。
むしろ身体が温まってきたと高揚していたぐらいだ。
だが、年齢というのは着実に身体から体力というものを奪っている。
「せめて三戦の型をしてから休憩だな」
三戦の型。
これは沖縄空手発祥の接近戦を得意とする、剛柔流という流派の代表的な型だ。
突き技と受け技、両手での貫手で構成されたシンプルな型である。
仙武流空手は源次郎が若い頃に沖縄で習った剛柔流空手を元に、中国本土や台湾などを武者修行したときに会得した拳法をミックスさせた流派。
そんな仙武流でも基本の型は三戦とされ、他にもねばりのある受け技のみで構成された転掌という型がある。
源次郎はいつも「仙武流の型は三戦に始まり、転掌で終わる」と言っていて、拳一郎も最初に仙武流を習ったときは三年間は三戦の型しか教えてもらえなかった。
「三戦に始まり、転掌で終わる……か」
拳一郎は昔の記憶を思い出しながら苦笑すると、気息を整えて三戦の型を始めた。
不動の姿勢から丹田に意識を落としつつ平行立ちに。
その後、両足を「ハ」の字になるような立ち方を取る。
背筋はまっすぐに保ち、拳を握った状態の両手の肘を曲げて中段内受けの構えになる。
コオオオオオオオオオオオオ――――…………
拳一郎は息吹きと呼ばれる独特の声を上げながら、半円を描くような独特の歩法とゆっくりとした突きを放つ。
他の型と違って三戦の型は時間がかかる。
すべての動作と呼吸をゆっくりと丁寧に行う型だからだ。
実際に拳一郎は一分以上をかけて三戦の型をやり終えた。
(さて、少し休憩するか)
と、全身の緊張を解いたときだった。
――誰か
拳一郎は「ん?」と道場内を見渡した。
道場には自分以外に誰もいない。
念のために開放した窓から外を確認してみたが、庭にも誰かがいる気配はなかった。
「気のせいか」
そう思ったものの、耳をすますと「誰か……おらんのか……」と関西弁の少女の声が聞こえてくる。
拳一郎は声が聞こえている場所に両足を動かしていく。
「嘘だろ……」
声が聞こえているのは、神棚の中にある黒い石からだった。
両膝を折り曲げて顔を真横に向ける。
――誰でもええんや……うちの声が聞こえたら助けてくれんか
間違いない。
少女の声は黒い石から聞こえている。
「どうして石から人間の声が――」
拳一郎は無意識に黒い石に手を伸ばし、指先が黒い石の表面に触れた。
そのときだ。
「――――ッ!」
拳一郎の視界が裏返った。
続いて全身が宙に投げ出されたような浮遊感が襲ってくる。
そして拳一郎の身体はどこかへと強制的に転移された。
♦♢♦♢♦♢
「…………冗談だろう」
拳一郎は周囲を見渡しながら独りごちる。
さっきまで実家の道場の中にいたはずなのに、ふと気がつけば奇妙な場所に立っていた。
道場の中でもなければ、実家のある村の中でもない。
拳一郎の視界に広がっているのは、古代ローマの都市を彷彿とさせる石造りの街並みだった。
だが、どの建物も亀裂や損傷が激しく、人の気配が感じられないことから廃墟ということがわかる。
(これは幻覚なのか……いや、違う)
拳一郎はごくりと生唾を飲み込む。
福井よりも空気は澄んでいて、足裏から伝わってくる石畳の感触も本物。
試しに近くの建物に触れてみたが、やはり石造物の冷たくて固い感触が伝わってくる。
間違いない。
ここはダンジョンの中だ。
一度もダンジョンに足を踏み入れたことのない拳一郎だったが、ダンジョンの中がどういった世界かは知っている。
伊達にダンジョン関連の会社を転々としていたわけではない。
拳一郎は空を見上げた。
ダーク・グリーンの夜空には、月はおろか一つの星すらも見えない。
それでいて百メートル先まで周囲の光景が視認できるのは、建物や地面自体が薄っすらと均一の光を放っているからだ。
これは明らかにダンジョン世界の特徴と一致している。
大変だ、どうしよう……と、先ほどまでの拳一郎ならば慌てふためいただろう。
けれど今の拳一郎は自分でも驚くほど冷静だった。
ダンジョンの中にいるというのに、不安や恐怖がほとんどない。
不思議な感覚である。
福井に帰ってきたときよりも何倍もの強い郷愁があった。
それだけではない。
自然呼吸をするだけで全身に力がみなぎってくる。
まるで死んでいた細胞の一つ一つが息を吹き返したようだ。
拳一郎は右手を顔の近くまで持ってくると、小指から親指まで順番に折り曲げて正拳の形を作る。
そして、あらん限りの力を込めて強く握り締めた。
ギュウウウウウウウウウ。
「…………」
拳一郎は大きく目を見開き、筋肉すらも生まれ変わったような感覚を味わった。
今までの自分は半ば死んでいたのだろうか。
そう思ってしまうほど拳一郎の肉体は著しい変化を遂げていた。
自身でも身震いするほどの力が身体の奥底から湧き上がってくる。
「この状態ならもしかして……」
拳一郎は近くにあった石柱に顔を向けた。
二メートルほどの高さで斜めに崩壊していた石柱は、三本分の電信柱ほどの太さがあった。
拳一郎は石柱に近寄ると、拳が届く距離で立ち止まる。
平行立ちの状態から左足を大きく前方に踏み出し、後ろ足は腰からまっすぐ後方に伸ばす安定した立ち方――前屈立ちになった。
その前屈立ちの状態から左手を石柱に突きつけ、固く握りしめた右拳は指の面を上に向くようにして脇腹へと引く。
――馬鹿なことをするな、拳がぶっ壊れるぞ!
理性が慌てて忠告してくる。
当然だった。
どうして自分でもやる気になったかわからない。
サンドバックや巻き藁ならまだしも、本物の石柱に正拳突きを放つなど拳を破壊する行為以外の何物でもなかった。
それでも突きの構えに入っている生身の拳一郎は、理性の声を無視して実際に行動した。
「セヤアアアアッ!」
裂帛の気合一閃。
全身の筋肉から発生させた力と内なるエネルギーの力を右拳に凝縮させ、石柱に向けて渾身の正拳突きを繰り出す。
ドゴオオオオオオオオオオオンッ!
拳一郎の放った正拳突きは、内側から手榴弾を炸裂させたように石柱を爆裂四散させた。
「マジか……」
素早く身を引いて残心を取った拳一郎は、地面に散らばった大量の石柱の欠片を見下ろしながら唖然とする。
ヒビくらいは入るだろうと高をくくっていたが、まさか粉砕できるとは夢にも思わなかった。
「どうして急に当破の力がこんなにアップしたんだ?」
当破とは沖縄空手にある、相手の内部に衝撃を与える特殊な打法のことだ。
仙武流も沖縄空手がベースなため、突き技系はこの当破を意識することが絶対条件だった。
しかし今しがた拳一郎が放った当破による突き――〈破砕拳〉はこれまでと威力が桁違いであり、突きを繰り出した右拳も完全に無傷だったのである。
これは一体どういうことだろう?
拳一郎は棒立ちになると、両手を何度も開閉して自身の力の具合を確かめる。
あれほど自分の身体がバラバラになっていたような感覚が減っていた。
健康診断や精密検査ではわからない、もっと身体の内部の不具合のことだ。
その不具合がダンジョンに来てから明らかに減少していた。
もちろん、まだ本調子という感じではない。
それでも失っていた力の一部が元に戻っている感覚はありありと感じた。
「まだだ……」
拳一郎はぼそりとつぶやく。
「俺の本気はまだこの程度じゃない」
何の根拠もないことだったが、本能がそう告げている。
お前の力はまだまだこんなものじゃない。
あいつのせいで封印されていた力はもっとあるぞ、と。
「あいつ?」
拳一郎は首をかしげた。
あいつとは誰のことだろう?
何となく。
本当に何となく思ったことだった。
自分の本当の力は誰かに封印された状態にある。
だが、肝心のあいつという存在に心当たりがない。
危険なはずのダンジョンの中において、拳一郎はあいつという謎の存在を思い出すべく両腕を組んで目を閉じた。
そのときである。
――ちょ、ちょう待てや!
拳一郎の耳が気の強そうな少女の声を拾った。
――こら、このゴブリンども! うちを閉じ込めとる聖宝箱を殴んなや!
聞き間違えではなかった。
道場の神棚に祀られていた、黒い石から聞こえていた関西弁の少女の声だ。
――ホンマに待てや、このボケども! あんまり殴ると衝撃がうちに届くんや! ぐあっ、誰か助けてくれええええええええ
そして少女の声からは危機を予感させる焦りが含まれている。
拳一郎が声が聞こえてくる方角に顔を向けた。
ダンジョンの中に生息する魔物の中には、人間の声真似をしておびき寄せる狡猾な魔物も存在しているという。
そんな狡猾な魔物の罠という可能性もある。
けれども本当に誰かのSOSの可能性も否定できない。
だとしたら拳一郎の行動は一つだった。
直後、拳一郎は地面を蹴って声が聞こえたほうにダッシュした。
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