第3話 終わりの始まり
荷物をまとめて会社を去ったあと、拳一郎は自分がどうやって自宅まで帰ってきたのか記憶がほとんどなかった。
それでも拳一郎は無事に帰宅するなり、そのまま昼食も取らずに部屋の中央で体育座りを始めた。
拳一郎が住んでいるのは、中野区にある築三十年を超えるアパートだ。
こじんまりとした1Kの部屋で、生活臭はあるが清潔感はあまりない。
フローリングの床の上には雑誌や空になったペットボトル、ゴミ箱代わりにしていたスーパーのレジ袋がいくつも散乱している。
他にあるのは小机の上に置いたノートパソコンと部屋の隅に設置していたテレビ。
あとはやや薄汚れたシングルのベッドぐらいだ。
仕事が忙しすぎて日頃から掃除ができていなかったことに加え、特に親しい友人もいなかったことからこのありさまだった。
しかし、今の拳一郎には関係ない。
たった一日で社会的な価値と収入が消えたパニックと絶望で、拳一郎は夜になっても食事を取らずに呆然と無意味な時間を過ごしていた。
その中で考えていたのは美雪のことである。
どうして彼女は付き合っていたはずの自分をストーカー呼ばわりしたのか?
「……わかっていたさ」
やがて拳一郎は苦笑した。
「俺みたいな何の取り柄もない中年男と真面目に付き合うはずがないよな」
もっと早くに気づくべきだった。
自分は美雪にとって恋人でも何でもなかった。
どうりで何度も部屋に誘っても体よく断られていたはずだ。
最初は拳一郎もいつ美雪が部屋に来てもいいように部屋の掃除をしていた。
けれども何度も断られているうちに中年独身男にありがちな生活感が漂う部屋になってしまった。
うすうす気づいていたが、気づきたくはなかった。
自分は軽くその気にさせれば豪勢な夕食代を出してくれる、ただのATMの中年男に過ぎなかったことに。
美雪との連絡が一切取れなくなったことがその証拠だった。
そうなると間宮が言っていたことは本当だったのだろう。
もしかするとあの短髪の男は美雪の知り合い――もしくは本当の彼氏だったのかもしれない。
お笑い草だった。
もしも本当にその通りだったとしたら、彼氏面をして美雪を守ろうとした自分は間抜けな道化以外の何物でもない。
「くそ!」
拳一郎は苛立ちに任せてテレビのリモコンを壁に投げつけた。
『――それではダンジョン・ニュースの時間です』
壁に当たった衝撃で電源が点いたのだろう。
テレビからは女性アナウンサーによるダンジョン関連のニュースが流れてくる。
拳一郎はのそりと立ち上がると、リモコンが落ちている場所へと足を動かす。
『ここ最近ではイレギュラーの目撃情報が相次ぎ、出現場所も上層へ近づいている傾向が見られます。一方ではイレギュラーによる死傷者の増加とともに、ランクに関係なく探索者やDライバーが相次いで行方不明になるという事件が頻発しています。シーカー協会や迷宮探索庁、警視庁迷宮課によりますと、事件の裏には〈アルカナ創魔会〉が関係していると見られ合同で捜査を――』
そこでニュースはぷつりと途切れた。
拳一郎がリモコンを操作してテレビを消したからだ。
「何がダンジョンだ……何が魔道具卸売り業だ……何がダンジョン探索者だ……ダンジョンに潜る連中なんてクソばかりだ」
もちろん、拳一郎のつぶやきは本心ではなかった。
現在の日本は、ダンジョンで採取される特殊資源によって大きな経済発展を遂げている。
ダンジョンは三十年以上前、東京に突如出現した謎の洞窟を起源とし、内部には魔物がはびこる異界が広がっていた。
やがて内部でレアメタルを超える鉱物が発見され、それを採取する探索者という存在が現れたことで、日本は大ダンジョン探索時代へと突入する。
そんなダンジョンは現在では主要都市に必ず一つは存在し、資源の中核を担っているのは子供でも知っていることだ。
他にもダンジョン内では特殊な薬品や鉱物によって魔法が使える。
特殊な薬品や鉱物とは〈魔法石〉や〈魔鉱物〉のこと。
〈魔法石〉は特殊な薬品と調合することで魔法を扱えるようになる鉱物で、火、水、風、土のどの属性を得るかは運次第。
一方の〈魔鉱物〉は安全なエネルギー源や通信技術の発展に貢献し、武具の素材としても利用されている。
これらはダンジョン関連の会社を転々としてきた拳一郎にとって、あまりにも当たり前な知識だった。
拳一郎は幽鬼のような足取りでキッチンへ向かう。
では、これから自分はどう生きればいいのか?
ダンジョン探索者になる――その考えはすぐに否定した。
探索者ほど今の日本で命が軽い職業はない。
「じゃあ配信者のDライバーになるって道は……はは、もっと無理だ。こんな弱い元社畜のおっさんの配信なんて誰が視にくるんだよ」
拳一郎は自嘲気味につぶやくと、シンク下の扉を開けて包丁入れから一本の包丁を取り出す。
そして右手で持った包丁の刃を左手の手首につけた。
呼吸が速くなり、心臓の鼓動が早まる。
このまま一気に動脈を切れば、ものの数十秒で出血死するだろう。
これですべてが綺麗に終わる。
などと考えたときだった。
ブブブブブブ。
拳一郎は口から心臓が飛び出そうなほど目を剥いた。
ズボンのポケットにあるスマホの着信音が鳴ったのだ。
拳一郎は包丁をシンクの端に置くと、おそるおそるスマホを取り出して相手を確認する。
画面には『神山花緒』と表示されていた。
実家の福井県に住んでいる母親からの連絡だ。
最初こそ応答しようかどうか迷った拳一郎だったが、ここで着信を拒否するのは本能が拒んだ。
数秒後、拳一郎は花緒からの電話に出た。
「――もしもし」
『……あ、拳一郎? ほんとに拳一郎やね?』
「俺のスマホなんだから俺が出るなんて当たり前だろ」
『ほやねぇ。何や急に連絡してごめんな。まだ仕事中?』
拳一郎の胸にチクリとした痛みが走る。
「……いや、もう終わったよ。それで、何の用?」
『あんた、今仕事は忙しいの? 福井に帰って来られる時間はある?』
もちろん、ある。
というか仕事を失った以上、今日からするのは転職活動か貯金を切り崩す無職の日々しかない。
「ど、どうしたんだよ急に? あの馬鹿親父と喧嘩でもしたの?」
拳一郎の父親の神山源次郎は、もう六十歳を超えた初老である。
仕事は一軒家の庭に建っている空手道場〈仙武館〉の館長。
拳一郎は高校を卒業したときに源次郎と喧嘩別れをして実家を出たのだが、そのときでも通いの門下生はほとんどいなかった。
なので収入などまったくないはずなのに、神山家は普通に生活が成り立っていた。
詳しくは知らないが、源次郎の若い頃の仕事の貯えがあるからだという。
そんな道場にはたまに武道家や格闘家がふらりと現れて立ち合ったり、明らかに事務系のスーツ姿の人間が出入りしていたのは知っている。
とにかく源次郎は実父ながらまともな人間ではなかった。
言うなれば特大の空手バカである。
空手のことしか頭になく、学生の頃にも学校に通うぐらいなら道場で稽古しろと言われていたぐらいだ。
まあ、それはともかく。
『そ、そんなことないわ。お父さんはいつだって優しいんだから……それで? 帰って来られるの?』
拳一郎は言葉に詰まる。
今日の一件がなかったらすぐに断っているところだが、すべてを失った今となっては母親からの帰郷の申し出は雨雲から覗いた陽光に等しかった。
『……あんた、仕事で何かあったんか?』
拳一郎はスマホを握る手に力が入り、同時に下唇を強く噛み締める。
どれぐらい無言を続けただろう。
『帰ってきねの』
花緒の落ち着いた優しい声が拳一郎の全身に響き渡る。
『あんたの好物のソースかつ丼とおろし蕎麦を用意して待っとるさけ。帰ってきねま』
拳一郎は涙を堪えながら返事をする。
「……ああ、帰るよ」
それから拳一郎は都会から離れる手続きを終わらせ、実家のある北陸の福井県へと帰郷したのだった。
♦♢♦♢♦♢
一車両の電車から降りて駅前の小さなロータリーに向かうと、拳一郎の全身に心地よい懐かしさが広がった。
ここは福井県の坂木市にある、拳一郎の実家近くの最寄り駅である。
「帰ってきたんだな」
拳一郎は額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
遠くから聞こえる蝉の大合唱を聞きながら、都会とは違う澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。
都会の空気が人工甘味料の入った清涼飲料水ならば、この北陸の片田舎の空気は無糖の炭酸水と言ったところか。
いつまでも深呼吸をしていたい気分だったが、今は夏真っ盛りの八月だ。
まだ駅内なので殺人的な日差しは受けていないものの、エアコンのない屋外に長くいれば熱中症になってしまう。
拳一郎は駅舎からロータリーを見回す。
時刻が昼前ということもあってか、ロータリーには一台のタクシーが停まっている。
拳一郎はタクシーに近づくと、助手席の窓をコンコンと叩く。
するとスマホを観ていた運転手は拳一郎に気づき、後部座席のドアを開けてくれた。
「すみません、トランクも開けてもらえませんか?」
「はいよ……って、あれ? あんた、神山先生のとこの息子さんじゃないかい?」
どうやら運転手は源次郎と自分のことを知っているようだ。
「はい……そうです」
トランクを開けてもらった拳一郎は、たどたどしい口調とは裏腹に持ってきたスーツケースをさっさと入れる。
続いて拳一郎は自分も後部座席へと乗り込む。
運転手はスマホをシャツの胸ポケットへと仕舞った。
「最近、神山先生の顔を見ていないんだが、病気でもなさったのかね?」
冗談だろう、と拳一郎は思った。
一年中筋トレや空手修行に明け暮れている空手バカだ。
風邪など引くはずがない。
きっと寄合の旅行にでも行っているのだろう。
拳一郎は作り笑いのまま答える。
「今日、東京から帰ってきたばかりなので……たぶん、病気や怪我での入院はないと思いますよ」
「そうやな。あの人に限ってそれはないか……んで、あんたは都会で彼女にでも振られての傷心帰郷かい?」
運転手の悪気のない言葉の矢が心に突き刺さる。
拳一郎は適当に返事をはぐらかし、自宅まで送ってほしいと静かに告げた。
「場所、わかります?」
「わかるさ。敷地内に道場が立っている家だもの」
会話はこれで終わりだった。
ハンドルを握った五十半ばと思しき恰幅の運転手は、楽しそうに鼻歌を歌いながらアクセルを踏んだ。
(あの親父、まさか本当に怪我でもして入院してんのかな)
拳一郎の心配をよそに、タクシーは夏の陽炎の中を滑らかに走り出す。
そして、このときの拳一郎はまだ知る由もなかった。
この片田舎の福井県への帰郷が、自分の人生どころか全世界を驚愕させる第一歩になることに――。
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