第66話 船底の死闘
重厚な防音扉が静かな音を立てて閉まり、ルームサービスを装った佐藤の気配が通路の向こう側へと完全に消え去った。
外界から隔絶された豪華客船『レヴィアタン』のVIPルーム。
後に残されたのは、煌びやかなイブニングドレス姿の千尋、床で両手を背後に縛られ丸まっている襟華、そして護身用の小型拳銃を構えた幹部の男と、その左右に控える二人の屈強な黒服だけだ。
「……さて、マダム。小芝居は終わりだ」
幹部の男が、銃口を千尋の眉間へ向けて一歩踏み出した。彼の額には、先ほどまで余裕たっぷりに葉巻をふかしていた時にはなかった、不快な脂汗がじっとりと滲んでいる。
「オークションのシステムを直ちに復旧させろ。そして、あなたが落札したデータとプールしてある暗号資産を、すべて我々の指定するウォレットへ移行するんだ。そうすれば、その可愛らしいペットごと、痛い目は見せずに済む」
千尋は銃口を至近距離に向けられながらも、表情の筋肉をピクリとも動かさなかった。
彼女は優雅な所作でクリスタルのシャンパングラスを手に取り、冷えた黄金色の液体を軽く喉に流し込む。炭酸が弾ける微かな音が、奇妙な静寂の中に響いた。
「焦らないで。単に太平洋のど真ん中で、衛星回線が一時的に混み合っているだけかもしれないわよ?」
「ふざけるな! これ以上時間を引き延ばすなら、まずそこの小娘の膝の皿を撃ち砕くぞ!」
男の声が裏返った。組織の膨大な裏金を預かる身として、このまま顧客データも資金も失えば、彼を待っているのは責任追及という名の海への転落(物理的な死)しかないのだ。
千尋はグラスの縁から、冷ややかな流し目で男を観察した。
銃を握る右手の微かな震え、不規則で回数の多い瞬き、そして荒くなった呼吸。プロの交渉術を待つまでもない、典型的なパニック状態に陥った人間の兆候だ。
「……そんな物騒なものを向けられては、デリケートな入力作業なんてできやしないわ。少し落ち着いたらどう?」
千尋は言葉のトーンを意図的に一段階落とし、男の神経をわざと逆撫でするようにゆっくりと脚を組み替えた。ドレスのスリットから覗く白い肌に、黒服たちの視線が一瞬だけ無意識に吸い寄せられる。
その千尋の視線は、ほんのコンマ数秒だけ、足元で恐怖に震えているように丸まる襟華へと向けられていた。
襟華は、顔を絨毯に伏せたまま、微かに頷くような仕草を見せた。
背手に回された彼女の小さな手の中には、先ほど佐藤がワゴンの影から音もなく床へ滑り落とした、長さ数センチの極小のセラミックブレードがしっかりと収まっている。
襟華は、幹部と黒服たちの意識が千尋の挑発的な態度と銃口に向けられているその隙を突き、手首の角度をミリ単位で調整しながら、自らを縛る拘束ベルトの強靭な繊維をジリジリと断ち切っていた。
(……あと少し。……切れろ、切れろ!)
手首に刃の腹が食い込み、薄皮が裂けて血が滲む。だが、その痛みを焦りと共に押し殺し、息を潜めて刃を動かし続ける。
彼らの目的は、この場で黒服たちを相手に派手に暴れ回ることではない。佐藤が船の制御システムの中枢に物理的に到達し、客船全体を暗闇に沈める「大停電」を引き起こすまでの数分間を、無傷のまま稼ぎ切ることだ。
「カウントダウンだ。三秒以内に端末を操作しろ。……三!」
幹部が引き金に指をかける。
千尋はグラスをテーブルに置き、小さく、ひどく退屈そうなため息をついた。
「わかったわ。……でも、一つだけ条件があるの」
彼女は妖艶に微笑み、男の血走った目を見据えた。
時計の針が、致命的な瞬間へ向かってジリジリと進んでいく。
★★★★★★★★★★★
同時刻。東京・丸の内。
タワーマンションの最上階、『オメガ・リスクマネジメント』のペントハウスでは、太平洋上の殺伐とした空気とは対極の、しかし別の意味で極めて緊迫した時間が流れていた。
「……ちょっと待っててね、ダシちゃん。今、厳密な温度を測るから」
弥生は白衣姿のまま、アイランドキッチンで赤外線温度計を構え、真剣な眼差しでボウルのお湯を睨んでいた。
彼女の足元では、すっかり体格がしっかりしてきた黒猫の『ダシ』が、ピンと立てた尻尾を小刻みに震わせながら、「ミャァ! ミャウッ!」と切実な声で鳴き続けている。スウェットの裾に爪を立てないよう、柔らかい肉球だけで必死にすがりついてくるその姿は、狂おしいほどの食欲に完全に支配されていた。
佐藤たちが船へ向かう前、弥生は恐ろしいほどの圧力を伴う厳命を受けていた。
『ダシの食事は、私が真空パックにしてチルド室に保存してあります。湯煎で解凍し、提供時の温度は38.0度から38.5度の間に厳密に調整してください。それ以下でも以上でも、彼のデリケートな消化器官に不要なストレスを与えます。……誤差は許しません』
「よし、38.2度。完璧な社長レシピの再現だよ」
弥生はお湯からパウチを取り出し、中身を有田焼の平皿に絞り出した。
今日のメニューは、真鯛とホタテの身を極限まで滑らかにペーストし、上質な昆布出汁のジュレで包み込んだ特製ムースだ。海の幸の濃厚な香りが広がる。
弥生が皿を床に置いた瞬間、ダシは猛烈な勢いで顔を突っ込んだ。
「ハグッ、チュプ、チュプチュプチュプ……!」
脇目も振らず、ピンク色の小さな舌を高速で回転させる。美味しいものを食べている時の猫特有の、鼻に皺を寄せる必死な表情。あっという間にゼリー状のムースが吸い込まれていく。
「……すごい食欲。みんなが帰ってくる頃には、また一回り大きくなってるかもね」
弥生はクスリと笑い、ダシの背中を優しく撫でた。
彼女の視線の先にあるメインモニターには、太平洋上を航行する『レヴィアタン』のGPSシグナルと、船内のトラフィックデータが、静かに、しかし不気味な沈黙を保ったまま点滅し続けていた。
★★★★★★★★★★★
豪華客船『レヴィアタン』最下層、第三機関室。
巨大なディーゼルエンジンが発する地鳴りのような重低音と、むせ返るような重油の匂いが支配する灼熱の空間。入り組んだ無数の配管と太い鉄格子が、視界を極端に狭めている。
グレタは、足音を完全に殺し、油の染み付いたグレーチングの上を滑るように進んでいた。
手には、特殊警棒ではなく、抜き身のコンバットナイフが逆手で握られている。狭く、障害物の多いこの空間では、長い得物は振り回すスペースがなく、かえって致命的な隙を生むからだ。
目的は、船尾にある緊急脱出用のハッチの物理ロックを解除し、停電後に合流する佐藤たちの退路を確保すること。
だが、彼女の足は不意に止まった。
前方十メートル。太い蒸気管の影から、一人の男が立ち塞がるように姿を現した。
長身。仕立ての良いスラックスとベストを着ているが、上着はない。首元と腕には、ウロボロスの幹部以上の地位を示す、蛇が尾を噛む意匠のタトゥーがびっしりと刻まれている。
男の手には、湾曲した刃を持つ東南アジアの伝統的な短剣――カランビットナイフが握られていた。
(……事前のデータにあった、専属暗殺者のヴィクター)
グレタの脳裏に情報がよぎる。
無駄な言葉は一切なかった。目が合った瞬間、それは互いが互いを「速やかに排除すべき障害」と認識した合図だった。
ヴィクターが動いた。
エンジンの轟音を差し引いても、床の鉄板を軋ませるような足音が全くしない。体重移動に伴う重心のブレすら感知できない、幽霊のような踏み込み。
あっという間に十メートルの間合いが潰れ、下からえぐるようなカランビットの刃が、グレタの腹部を狙って跳ね上がる。
グレタは半歩身を退き、ナイフの腹を自らの刃で弾き落とした。金属同士が激突し、火花が散る。
すかさず、グレタは空いた左手で相手の顔面へ最短距離のジャブを放つ。だが、ヴィクターはそれを微かな首の動きだけで躱し、そのまま流れるように刃を反転させ、グレタの右腕の腱を切り裂きにきた。
「……ッ」
グレタは腕を引くが、刃の先端がジャケットを裂き、浅く皮膚を切り裂いた。熱い痛みが走る。
(速い。そして、無駄な殺気すらない)
かつて相対したシュナイダーのような、薬物で恐怖を麻痺させた狂戦士とは次元が違う。踏み込みに伴う予備動作も、刃を振るう際の呼吸の乱れも一切ない。彼の繰り出すカランビットの軌道は、ただひたすらに、一切の感情を排した物理現象としてグレタの急所だけを最短距離で削り取りにきている。
一瞬の交錯の後、二人は再び間合いを取った。
轟音。蒸気の噴出音。
ヴィクターの瞳は、グレタの傷口から流れる一筋の血を、ただの対象物の損傷として冷たく捉えている。
再び、ヴィクターが連続攻撃を仕掛ける。上段への突きから、足払い、そして逆手持ちにしたカランビットでの頸動脈狙いの斬撃。
刃の嵐。
グレタは防戦に回った。狭い通路では回避のスペースがない。彼女はシステマの呼吸法で痛みをコントロールし、最小限の動きで致命傷だけを避けていく。
刃が頬をかすめ、プラチナブロンドの髪の毛が数本空中に舞い散る。
(防いでいるだけでは、いずれ出血量で削り殺される)
グレタの冷徹な脳が、現状を打破する唯一の勝機を弾き出した。
ヴィクターの刃が、再び彼女の首元を狙って閃いた。
その瞬間、グレタは回避の動作を完全に捨てた。
あえて一歩、相手の刃が届く懐へと深く踏み込む。
「――!」
常に無表情だったヴィクターの目が、わずかに見開かれる。
カランビットの湾曲した刃が、グレタの左肩に深々と突き刺さる。肉を裂き、鎖骨に達する鈍い音。
だが、グレタは表情一つ変えなかった。
刺された左腕の筋肉を爆発的に収縮させ、相手のナイフを持つ腕を骨ごと挟み込んでロックする。
ヴィクターがナイフを引き抜こうともがいた、そのコンマ数秒の硬直。
それが、グレタが肉を切らせて意図的に作り出した「致命的な隙」だった。
グレタの右の掌底が、ヴィクターの顎の先端――脳幹を激しく揺らす急所――を下から完璧な角度で打ち抜いた。
ゴガッ、という骨が軋むような恐ろしい音が響く。
ヴィクターの脳が激しく揺さぶられ、瞳孔が一瞬で開ききった。
グレタは攻撃の手を緩めない。ロックしていた相手の腕を強引に捻り上げ、肘の関節を逆方向に完全にへし折る。
声にならない呼気を漏らし、ヴィクターの巨体が鉄の床に崩れ落ちた。
グレタは容赦なく、倒れた男の頸動脈をブーツの踵で踏みつけ、脳への血流を絶って完全に意識を刈り取った。
痙攣が止まり、機関室には再びエンジンの無機質な轟音だけが響き渡る。
「……ハァ……ハァ……」
グレタは肩に刺さったままのカランビットナイフを乱暴に引き抜き、血だらけの手で止血用のガーゼを押し当てた。激痛が全身を駆け巡るが、彼女の顔には職務を遂行したプロフェッショナルとしての冷酷な安堵しかなかった。
彼女は深く息を整え、インカムのスイッチを入れる。
「……ルート、クリア。少し手間取った」
ノイズが走り、やがてクリアな音声が耳に届く。
『了解しました。ご苦労様です』
佐藤の、感情の抜け落ちた氷のような声だった。
『こちらも、メイン配電盤への物理アクセスに成功しました。これより、船の視神経を完全に刈り取ります。……夜に備えてください』
グレタは血の滴るナイフを鞘に収め、数秒後には暗闇に包まれるであろう非常ハッチへと向かって、重い足を引きずり始めた。




