第67話 大停電
東京、丸の内。
オメガ・リスクマネジメントの広大なペントハウスは、深夜の深い静寂に包まれていた。
壁面に並ぶメインモニターには、太平洋上を航行する豪華客船『レヴィアタン』の現在のGPS座標と、微弱な暗号化通信のトラフィックデータだけが、無機質な明滅を繰り返している。
メインデスクの前でキーボードに細い指を添えたまま、弥生は小さく息を吐いた。
現場の佐藤たちからの通信は、作戦開始時から意図的に途絶している。船内の強固な電波妨害を警戒し、こちらからのアプローチは極限まで制限されていた。遠く離れた安全な場所にいながら、待つことしかできない後方支援の重圧が、彼女の華奢な肩にじっとりと重くのしかかっている。
ふと、足元から微かな音が聞こえた。
「……スピー、……プスゥ……」
弥生が視線を落とすと、そこには黒猫の子猫、ダシの姿があった。
数十分前まで、佐藤が特別に仕込んだホタテとササミのムースを猛烈な勢いで平らげていた彼は今、弥生の足元に置かれたふかふかのクッションの上で、完全に無防備なヘソ天の姿勢で丸くなっている。
満腹になった小さな腹を上下させ、黒い鼻をヒクつかせて、一定のリズムで微かなイビキを立てている。時折、ピンク色の肉球がピクッと痙攣するのは、夢の中でまだ獲物を追いかけているのだろうか。
「……呑気なもんだね、ダシは」
弥生はクスリと笑い、ダシの柔らかい腹をそっと撫でた。
ゴロゴロという低い喉鳴りが、手のひらを通して伝わってくる。その平和すぎる寝姿と温もりは、極限まで張り詰めていた弥生の神経を、ほんの少しだけ解きほぐした。
だが、モニターのトラフィックに目を戻せば、現実は依然として冷酷な戦場だ。一つのミスが仲間の命に直結するシビアな世界。
「……無事でいてよ、みんな」
弥生はダシのイビキを背景音に、再びモニターの波形へと鋭い視線を戻した。
★★★★★★★★★★★
豪華客船『レヴィアタン』、最下層エリア。
VIPルームの重厚な防音扉の向こう側で、幹部の男と黒服たちが千尋に銃口を向けていた、まさにその時刻。
佐藤はすでに、VIPエリアの電源とネットワークを統括する中継分電室の内部に陣取っていた。
彼の手首に装着された小型の演算デバイスは、すでにメイン配電盤の保守用ポートに有線で直結されている。暗がりに巨大なサーバーラックが整然と並び、太い配線が血管のように這い回る無機質な空間。空調の低い唸り声だけが反響する中、佐藤はプレスの効いたシャツの袖をまくり、画面に流れる膨大なトラフィックデータを見つめていた。
彼の指先が、一切の迷いなくキーボードを叩く。流れるような速度でコマンドが入力されていく。
(豪華客船の基幹システムも、ひとたび物理的な内部侵入を許せば脆いものだ)
佐藤は冷徹な思考を巡らせながら、船の心臓部である電源管理システムの制御権限を、上位プロトコルから次々と奪取していく。何重にも設定されたファイヤーウォールを、内部からの特権アクセスを用いて無力化し、すべてのセキュリティゲートの物理ロック機構へと干渉するための経路を確保する。
「メインジェネレーターへのコマンド、上書き完了。非常用電源回路、物理的切断シークエンスに移行」
佐藤は懐中時計を確認した。
ルームサービスを装ってVIPルームに潜入し、襟華の足元へ極小のセラミックブレードを滑り落としてから、経過した時間は完璧な計算通りだ。千尋が話術で稼いでいる時間は、そろそろ限界に達するはずである。
「これより、ブラックアウトを開始します」
佐藤は、一切の感情を交えずにエンターキーを叩き込んだ。
★★★★★★★★★★★
「ふざけるな! これ以上時間を引き延ばすなら、まずそこの小娘の膝の皿を撃ち抜け!」
VIPルームに、幹部の男の怒声が響き渡った。
彼の額からは不快な脂汗が滴り落ちている。自分の保身のために組織のルールを破り、正規のオークションデータを強引に奪い返そうとしている焦りが、その声にありありと滲み出ていた。
黒服の男が、床に転がる襟華の足元に銃口を向ける。
千尋は、至近距離に銃を構えられながらも、優雅に脚を組み替えた。表情の筋肉はピクリとも動かず、その瞳には一切の恐怖が宿っていない。
「時間が惜しいのはそちらでしょう? システムの復旧を待たずに私を殺せば、あなたが欲しがっている資金は永遠に引き出せなくなるわよ」
「黙れ! 撃て!」
黒服の指がトリガーにかかった、まさにその瞬間だった。
ブツッ、という不快な重低音。
直後、部屋を照らしていた煌びやかなシャンデリア、空調の稼働音、そして床から微かに伝わっていた巨大エンジンの振動までが、一瞬にして完全に消失した。
訪れたのは、絶対的な暗闇と静寂。
数千人が乗る巨大な豪華客船のすべての電力が、深海に沈むように断ち切られたのだ。視覚と聴覚の情報を突如として奪われ、部屋の空気が一気に凍りつく。
「なっ……なんだ!?」
幹部がパニックを起こし、暗闇の中で声を荒らげる。
「停電だ! 非常電源はどうした! 早く明かりをつけろ!」
黒服たちが慌てて懐中電灯を探そうと動く衣擦れの音が響く。
その混沌とした暗闇の中で、千尋は一切動揺することなく、氷のように冷たい声で告げた。
「襟華。……『お食事』の時間よ」
「了解」
床に転がっていたはずの襟華の声が、暗闇の中で鋭く響いた。
彼女の手首を縛っていた革のベルトは、すでに床に落ちていた。佐藤が残していったセラミックブレードを使い、暗闇になる直前に強靭な繊維を完全に断ち切っていたのだ。
紘子が用意した暗視コンタクトレンズを装着している襟華の視界には、狼狽する幹部と黒服たちの姿が、鮮明な緑色の輪郭として浮かび上がっている。完全な視覚の優位。
襟華は無音で跳躍した。
彼女は最も近くにいた黒服の腕を下から力強く蹴り上げ、銃を天井へ向けて弾き飛ばすと同時に、身を翻して幹部の手からオークション管理用のタブレット端末を強引に奪い取った。
「何っ! 貴様ら……!」
もう一人の黒服が盲滅法に銃を構えようとするが、千尋がテーブルの上のシャンパンボトルを正確に黒服の顔面へと投げつけた。
ガツッ、という鈍い音が響き、黒服がうめき声を上げて床に崩れ落ちる。
襟華は奪い取ったタブレットに、自身の服の袖口に隠されていた極細の有線ケーブルを素早く接続した。
真っ暗な部屋の中で、タブレットの画面だけが青白く発光し、襟華の真剣な横顔を照らし出す。
「ローカルネットワーク経由で、オークションのメインサーバーに直結。……ビンゴ。こいつの端末、最高権限持ったままだ」
襟華の指先が、タブレットの仮想キーボードを怒涛の勢いで叩く。
「ウロボロスの顧客リスト、資金洗浄のルート、出品者のデータ。……全部まとめて、私が頂く」
画面上のプログレスバーが、急速に右へと伸びていく。膨大な非合法のデータが、襟華の用意した特殊なストレージへと次々と吸い出されていく。
「や、やめろ……! そのデータが外部に漏れたら、俺は上に消される……!」
幹部が青ざめた顔で画面の光にすがりつこうと這い寄って手を伸ばすが、千尋のハイヒールの鋭い踵が、彼の膝の裏を正確に、そして容赦なく蹴り抜いた。
「ぐああっ!」
「無能な男の悲鳴は、聞いていて不快ね」
千尋は床に這いつくばる幹部を、絶対零度の目で見下ろした。
ピピッ、と電子音が鳴る。
「ダウンロード完了。……完全にもらったよ」
襟華がケーブルを引き抜いた。
その瞬間、襟華と千尋の耳に装着された極小の骨伝導イヤホンから、佐藤の冷静な声が響いた。
『よくやりました。……非常電源が物理的に復旧するまで、あと120秒。グレタが確保した船尾の脱出ハッチへ急行してください』
「了解。行くよ、千尋さん」
「ええ」
二人は暗闇の中を、音もなく部屋から滑り出た。
後に残されたのは、暗闇の中で自らの破滅に呻く幹部と、システムを完全に掌握された豪華客船の残骸だけだった。




