第65話 VIPルームの罠
襟華の指先がエンターキーを押し込んだ瞬間、豪華客船『レヴィアタン』の最下層を支配していた空気が、決定的な異音と共にひび割れた。
『1億2000万ドル。……落札で――ギ、ギィィィッ』
すり鉢状のオークション会場に響き渡っていた無機質な電子音声が、金属を引っ掻くようなノイズに変わり、突如として途切れる。
同時に、会場の中央に投影されていた巨大なホログラムの出品リストが激しく明滅し、一斉にブラックアウトした。
数百の視線が、暗転した空間で戸惑い交じりに交錯する。水を打ったような静寂は、一瞬にしてざわめきと怒号に変わった。
「どうなっている!」
「システムエラーか! 私の入札は通ったのか!」
混乱の渦中、中央付近のブースに座る千尋は、グラスに残ったシャンパンをゆっくりと飲み干し、伏せられた襟華の頭を微かに撫でた。襟華の仕込んだマルウェアが、ウロボロスのオークション管理サーバーの中枢に到達し、トランザクションを強制的に麻痺させたのだ。これで、物理的なデータ移行や資金の移動は完全に停止する。
「……随分と派手な真似をしてくれたな、マダム」
背後から、低く濁った声がした。
振り返ると、先ほどまで千尋と競り合っていた恰幅の良い男が立っていた。手首にはウロボロスの幹部であることを示すタトゥー。彼の顔には、隠しきれない焦燥と明確な殺意が浮かんでいる。背後には、テーラードスーツを着崩した筋骨隆々の黒服が四人、退路を塞ぐように配置についていた。
「あら。システムダウンの腹いせかしら?」
「ここでの取引には、それ相応の身元の保証が必要でね。少し別室で話をさせてもらおう。お前が何者で、この状況にどう関与しているのかも含めてな」
それは提案ではなく、強制だった。黒服の一人が、ジャケットの懐にある鈍色の膨らみに手を添える。周囲の客たちは関わり合いを避けるように目を背けている。
千尋は小さくため息をつき、優雅な動作で立ち上がった。
「ええ、構わないわ。……襟華、来なさい」
足元のクッションで膝を抱えていた襟華が、無言で立ち上がる。首輪とリードに繋がれた隷属的なポーズを崩さないまま、彼女は千尋の背後にピタリと寄り添った。怯えたような瞳を演技で装いながらも、襟華の視線は周囲の黒服たちの筋肉の付き方や武器の携行位置、そして監視カメラの死角を瞬時にスキャンしている。ハッキングの痕跡を完全に隠蔽し、千尋をバックアップするためには、このまま無害な所有物を演じて懐に潜り込むのが最善だと判断したのだ。
千尋たちは男に促され、会場の裏手にある重厚な隠し扉へと足を踏み入れた。
★★★★★★★★★★★
一方その頃、船の上層階に位置するメイン厨房。
ステンレスの調理台が銀色の冷たい光を放つ空間で、佐藤は目の前の食材と対峙していた。
彼の右耳に極小サイズで埋め込まれたインカムから、千尋の生体センサーが拾った心拍数の微かな変動と、暗号化された音声データが流れ込んでくる。千尋と襟華がVIP専用の尋問室に連行されたことはすでに把握していた。
だが、佐藤の包丁を持つ手は1ミリの狂いも生じない。彼は粛々と、次なるオーダーの仕込みに取り掛かった。
佐藤の目の前には、十種類のハーブと葉野菜が用意されていた。
彼はそれらを氷水に短時間だけ放ち、細胞壁に水分を吸わせて限界までシャキッとさせた後、専用のスピナーで徹底的に水分を遠心分離する。水滴が一滴でも残っていれば、ドレッシングの乳化は崩れ、味の焦点がぼやけてしまう。
ボウルにディジョンマスタード、白ワインビネガー、極少量の天然塩を入れ、ホイッパーで撹拌しながら、エキストラバージン・オリーブオイルを糸のように垂らしていく。完全な乳化状態となったヴィネグレットソースを、葉の一枚一枚に薄い皮膜を作るように、指先だけでふわりと和えた。
続いて、コンロの上の巨大なフライパン。
バスマティライスと日本米を独自の比率でブレンドした生米が、澄ましバターで透き通るまで炒められている。そこに、佐藤が事前に仕込んでおいた極上の液体を注ぎ込んだ。
オマール海老の殻を焼き上げ、コニャックでフランベして抽出した濃厚なアメリケーヌソースと、フュメ・ド・ポワソンの混合液だ。
ジュワァァァッ! という凄まじい音と共に、甲殻類の圧倒的な香りが厨房に爆発する。
具材である真鯛、ホタテ、ヤリイカは、米と一緒に炊き込まない。魚介の細胞が硬縮するのを防ぐため、炊き上がりの直前に余熱だけで火を通し、最も柔らかい食感を保つ。
佐藤は炊き上がった黄金色のシーフードピラフを、保温性の高い銀のドーム・クロッシュで覆い、静かにワゴンを押して厨房を後にした。
★★★★★★★★★★★
船の最下層、エンジン音の振動が直接響く窓のない一室。
千尋は、金属製の冷たい椅子に座らされていた。最新型のポリグラフのセンサーが、彼女の指先や胸部に吸盤で貼り付けられ、無数のコードがモニターへと伸びている。
部屋の隅では、黒服の男が襟華の背後に立ち、彼女の後頭部にサプレッサー付きの銃口を押し当てていた。
「質問に『はい』か『いいえ』で答えろ。もし波形が乱れれば、その可愛いペットの膝の皿を撃ち抜く」
葉巻の煙を吐き出しながら、幹部の男が冷酷に言い放つ。
千尋はセンサーだらけの自身の指先を見つめ、小さく息を吸った。呼吸のコントロール。交感神経の働きを意図的に抑え込み、感情の波を凪にする。
「お前は、警察組織の人間か」
「いいえ」
モニターの波形は、定規で引いたように平坦だ。
「他の犯罪組織、あるいは他国の諜報機関の回し者か」
「いいえ」
波形は動かない。
幹部の男が、忌々しそうに眉をひそめた。
「あの1億2000万ドル。……あれは、お前個人の金か」
千尋は一瞬、間を置いた。
氷室レイの遺産から奪い取った裏金。だが、現在の管理権限は自分たちにある。事実はどうあれ、自分の脳内で「現在の所有者は私だ」と強固に定義づければ、生理的な動揺は生じない。
「……ええ」
波形は微かに揺らいだが、閾値は超えなかった。
「ふざけるな」
幹部が机を強く叩いた。
「どこの馬の骨とも知れない女が、ぽんと出せる額じゃない。システムの障害もお前たちの仕業に違いない。本当の目的と資金の出所を吐け」
千尋は顔を上げ、真っ直ぐに男の瞳を見据えた。
その目は、獲物を品定めする蛇のように冷たく、そして酷薄だった。
「質問の仕方が三流ね。あなたが本当に恐れているのは、私という人間のバックボーンじゃないでしょう?」
「なに……?」
千尋の眼球が、男の全身を微細にスキャンしていく。
右目のわずかな痙攣。ネクタイの結び目を無意識に直す仕草。声のトーンの不自然な上擦り。
「あのオークションデータ。あなたは組織の金を使ってでも、絶対に入手しなければならない立場にあった。でも、私の想定外の入札額に競り負けた上に、システムまでダウンした」
千尋の声は、甘く、そして毒を含んでいた。
「あなたは今、上の人間に報告できないほどの失態を犯してパニックになっている。自分が資金の横領を疑われるか、あるいは無能の烙印を押されて消されるのが怖いから」
「黙れ!」
男の顔色が変わる。
「だからこうして、正規の手続きを無視して私を別室に拉致し、脅しでデータと金を奪い返そうとしているのよ。組織のルール違反を犯してまで、自分の保身のために」
嘘発見器に繋がれている千尋の波形は完全にフラットなままだったが、尋問しているはずの幹部の額にはどっと脂汗が浮かび、その呼吸は明らかに乱れていた。
「……殺せ」
男が震える声で黒服に命じた。
「こいつのペットの頭を吹き飛ばせ。今すぐだ!」
黒服が銃の撃鉄を起こした、まさにその瞬間だった。
コン、コン。
防音扉をノックする、落ち着き払った音が響いた。
「ルームサービスでございます。お食事をお持ちいたしました」
黒服たちが一斉に銃を構える中、幹部が忌々しそうに舌打ちをした。
「……チッ。入れ。食事を置いたらさっさと出て行け」
扉が開き、純白の制服を淀みなく着こなした佐藤が、銀色のワゴンを押して静かに入室してきた。
縛られた少女、無数のセンサーに繋がれた女、銃を構える男たち。異様な状況を目の当たりにしても、佐藤の表情の筋肉は1ミリも動かない。ただの一瞥もくれず、彼は完璧に計算された動作で、テーブルの上にサラダの皿と、ピラフのドーム・クロッシュを並べていく。
最後に、彼は小さなアルコールランプとガラスのフラスコで構成された、サイフォン式のコーヒーメーカーをセットした。
ランプに火を灯すと、下のフラスコの湯が沸騰し、気圧の変化で上のロートへと吸い上げられていく。佐藤はそこへ、深煎りのマンデリンの粉を投入した。竹べらで静かに攪拌すると、コーヒーの粉がふわりとドーム状に膨らみ、部屋の空気を一変させるような濃厚でビターな香りが立ち込めた。
「抽出時間は正確に45秒。それ以上は雑味が出ます」
佐藤は火を外し、ろ過されて落ちてきた漆黒の液体を、純白のカップへと静かに注いだ。
彼はそのカップを、センサーに繋がれた千尋の前に置いた。
カチャリ、とソーサーがテーブルに触れた瞬間。佐藤の長い指先が、千尋から死角にならない絶妙な角度で、極小の電子デバイス――電子ロックのジャマーと、小型の拘束切断用ブレードを、ソーサーの下へと滑り込ませた。
「……深煎りのマンデリンです。極度の緊張状態の緩和と、意識の覚醒には最適かと存じます」
佐藤は感情の抜け落ちた氷のような声で告げ、深々と一礼した。
千尋は彼の顔を見上げることなく、ただカップから立ち上る湯気の香りをゆっくりと吸い込んだ。
「ありがとう。……でも、緊張しているのは私ではなくてよ」
千尋の唇の端が、微かに、そして獲物を狩る前の捕食者のように吊り上がった。
佐藤は背を向け、ワゴンを押して退室する。扉が閉まる瞬間、彼と、部屋の隅で銃を突きつけられている襟華の視線が、ほんのコンマ数秒だけ交錯した。




