第64話 狂気の品揃え
豪華客船『レヴィアタン』の最下層。表の乗客には存在すら知らされていない、重厚な防音扉の向こう側。
船の巨大なエンジンが発する微かな低周波の振動だけが、足元から静かに伝わってくる。
すり鉢状に設計されたVIP専用のオークション会場は、異様なほどの静けさと、熱を帯びた欲望の匂いに満ちていた。
床には分厚い真紅の絨毯が敷き詰められ、足音すら完全に吸収される。配置された数十の座席は最高級のベルベットで覆われ、それぞれが独立したブースのように仕切られていた。空間には、最高級の葉巻の煙と、むせ返るような濃密な香水の香りが入り混じり、外界の常識や倫理から完全に隔絶された退廃的な空気を醸し出している。
千尋は、その中央付近の席に深く腰を下ろした。
タイトな漆黒のイブニングドレスに、存在感のあるダイヤのネックレス。手元には、入札用の電子端末と冷えたシャンパングラスが置かれている。
彼女の足元、正確にはシートのすぐ傍の床に敷かれたクッションの上には、襟華が静かに膝を抱えて座っていた。
首元の鈍く光る金属製チョーカーと、腕を縛るような革のベルトが、彼女が千尋の所有物であることを無言で示していた。時折、周囲のブースに座る富裕層たちから奇異な、あるいは露骨な劣情を含んだ視線が向けられるが、千尋は氷のように冷ややかな横顔を崩さず、一切の関心を示さない。
「……姿勢が悪いわよ」
千尋が冷たい声で小さく呟く。
襟華は無言のまま、背筋をわずかに伸ばした。その伏せられた瞳の奥では、ドレスの裏地に仕込まれた極薄のフレキシブル基板と通信モジュールの稼働状況を、自身の皮膚感覚で絶えずチェックしている。
『……社長。第一関門はクリアした。予定の座標にいる』
千尋の耳の奥、極小の骨伝導イヤホンから、襟華の微かな声が佐藤に向けて発信された。
襟華の右腕の袖口に隠された有線接続用の極小コネクタ。それを、この会場の床下にある物理ポートに差し込まなければ、彼女のハッキングは始まらない。
★★★★★★★★★★★
同じ頃、東京・丸の内のペントハウス。
オメガ・リスクマネジメントの広大なオフィスは、深夜の静寂に包まれながらも、ピリッとした緊張感が漂っていた。
弥生は、複数のモニターが並ぶデスクの前に座り、船内の千尋や佐藤からの通信状況を監視している。隣のソファでは、彩と愛永が手元のタブレットでダミー口座の資金状況と法的な逃げ道の最終確認を、一切の雑談を交えることなく進めていた。万が一作戦が露見した場合の、海外ダミー法人の切り離し手続きと、非常用の逃走資金のルーティング。二人のプロフェッショナルは、最悪の事態を想定したセーフティネットを無言で構築し続けている。
「……通信、安定しています。暗号化トンネルにもノイズはありません」
弥生がインカムに向かって呟いた直後。
「ミャッ」
彼女の足元から、短く甘えるような鳴き声がした。
黒猫のダシだ。彼は弥生の足に頭をすりつけ、かまってほしいとアピールしている。
「ごめんね、ダシ君。今は手が離せないの」
弥生が視線をモニターに向けたまま声をかけると、ダシは不満そうに喉を鳴らし、軽い跳躍でデスクの上へと飛び乗った。
着地音は全くない。ダシはキーボードを器用に避け、弥生の右手のすぐ横、マウスパッドの余白部分に丸く陣取った。
画面上を動くマウスポインタの矢印に興味を持ったのか、彼は黄金色の瞳をクリクリと動かし、短い前足で画面の中の矢印を「パシッ」と軽く叩こうとする。柔らかな肉球の感触が、弥生の手の甲に微かに触れた。
「あ、こら、ダメだよ。エンターキー押しちゃったら大変だからね」
弥生が慌ててダシの体を少しだけ遠ざける。ダシは「ニャウ」と抗議の声を上げたが、すぐに諦めたように弥生の腕に顎を乗せ、スヤスヤと目を閉じた。
張り詰めた冷酷な電子戦の空間で、その柔らかい体温と規則正しい寝息だけが、彼女たちを現実の平穏な世界に繋ぎ止める小さな錨となっていた。
★★★★★★★★★★★
船内のオークション会場。
照明が一段階落とされ、ステージの中央にスポットライトが当たった。
仕立ての良いタキシードを着た初老の男が、うやうやしく一礼する。
「皆様、今宵も『深淵の市場』へようこそ。……無駄な前置きは省きましょう。皆様のお時間は、何よりも高価ですから」
司会者の男が背後のスクリーンを指し示す。
最初の出品物が映し出された。
「ロットナンバー001。完全な状態の『スペアパーツ』のカタログです」
画面に並んだのは、機械の部品ではない。年齢、性別、血液型、そしてHLA(白血球の型)が詳細に記載された、数十人の人間の顔写真だった。
「健康状態は極めて良好。落札者様の指定したタイミングで、新鮮な状態でご指定の医療機関へお届けします。……スタートは、500万ドルから」
会場から、一切のどよめきは起きない。
ただ、手元の電子端末で無機質に入札ボタンが押される音だけが響く。金額が跳ね上がっていく。
命が、ただの部品として消費される空間。人間としての尊厳などそこにはなく、あるのは需要と供給の冷酷な原則だけだ。
千尋は表情を全く変えず、手元のシャンパングラスを優しく揺らした。隣の襟華が、わずかに奥歯を噛み締める気配が伝わってくる。微かな怒りの震えだ。
「……感情を殺しなさい」
千尋が、唇をほとんど動かさずに襟華に囁く。
襟華は短く一度だけ瞬きをし、再び人形のように静止した。
続いて、兵器の出品が始まった。
「ロットナンバー005。自律型マイクロドローンの群制御システム、および試作機100機のセット。特定のDNA配列をターゲットに設定し、群れで標的を追尾・暗殺します。都市部での使用において、完全な証拠隠滅が可能です」
殺戮の効率化。国家の軍備すら凌駕するような非合法のテクノロジーが、札束の力で次々と競り落とされていく。
そして、その時が来た。
司会者の顔つきが、一段と引き締まる。
「さて、本日の目玉です。ロットナンバー012」
スクリーンに、複雑なアルゴリズムの羅列と、脳のシナプスを模したようなネットワーク図が浮かび上がった。
「かつて、この国を裏から支配しかけたAI『パノプティコン』。……その残骸から我々の技術班が抽出・再構築した、人間の感情と行動を予測・誘導するコアエンジンのバックアップデータ、およびその運用マニュアルです」
会場の空気が、一瞬にして変わった。
ただの臓器や兵器ではない。大衆を支配し、国家の世論すらコントロールできる断片。
「大国であれば、喉から手が出るほど欲しい代物でしょう。……スタートは、5000万ドル」
静寂を破り、即座に入札の電子音が鳴った。
『6000万ドル』
スクリーンに金額が表示される。入札したのは、千尋の斜め前方に座る男だった。恰幅が良く、葉巻の煙をくゆらせている。その手首には、ウロボロスの幹部であることを示す、蛇が尾を噛む意匠のタトゥーが微かに覗いていた。
(……データを身内に残しつつ、マネーロンダリングを行うためのサクラね)
千尋は心の中で冷笑した。あからさまな価格の釣り上げだ。
彼女の細い指が、端末のパネルを滑る。
『8000万ドル』
会場がわずかにざわめいた。一気に2000万ドルの釣り上げ。
前方の幹部が、忌々しそうに千尋を振り返る。千尋は視線を合わせず、ただ退屈そうにシャンパンを口に含んだ。
幹部が再び太い指で端末を叩く。
『9000万ドル』
千尋は即座に返す。
『1億2000万ドル』
もはや躊躇はなかった。氷室レイの隠し資産から奪い取った裏金。いくら使おうが痛くも痒くもない。
幹部の男が、葉巻を灰皿に押し付けた。彼の顔に、明確な苛立ちが浮かんでいる。ウロボロスの資金にも、現場で動かせる上限というものは存在する。
男は直接、声を張り上げた。
「……随分と気前がいいな、マダム。だが、それは素人が手を出していい代物じゃない。火傷をする前に降りた方が身のためだぞ」
明確な脅し。会場の視線が、一斉に千尋に集まった。
千尋はゆっくりとグラスを置き、男の方へ冷ややかに視線を向けた。
「……たった1億ドル少々で、未来の支配権を買えると思っているの? 随分と安上がりね」
彼女の声は大きくはなかったが、防音の効いた会場の隅々にまで冷たく響き渡った。
「私は、退屈をしのげる極上の玩具を探しているだけ。あなたのお小遣いの限界がそこなら、潔く引き下がりなさいな」
男の顔が、怒りで赤黒く染まる。
「このアマ……ッ!」
男が立ち上がろうとしたその瞬間。会場の照明が、不自然に一度だけ明滅した。
★★★★★★★★★★★
オークション会場の裏側。従業員専用の薄暗い通路。
白のコックコートを着た佐藤は、壁面に設置された巨大な配電盤のパネルを開け、複雑に絡み合うケーブルの束と向き合っていた。
「……千尋さんの見事なヘイトコントロールのおかげで、警備の意識は完全に表に釘付けです」
佐藤の指先が、一切の迷いなく特定のケーブルを引き抜き、持参したバイパス用の特殊なハブを割り込ませる。配電盤の基盤に物理的に干渉し、船の監視網に気づかれることなくアクセス権限を奪取していく手際は、まさに精密機械のようだった。
「物理ポートへの接続、完了しました。襟華君、届いていますか」
佐藤がインカムで呟く。
会場内。千尋の足元でうずくまっていた襟華の右腕の袖口から、極細のケーブルが蛇のように伸び、床に隠された通信用スリットへと既にねじ込まれていた。
佐藤が確保したバックヤードの物理ポートと、襟華のドレスの通信モジュールが、船の内部ネットワークを介して完全に同期する。
「……届いてる。道は開いた」
襟華が、地面に指を這わせたまま、誰にも聞こえない声で呟いた。
拘束された姿勢のまま、彼女の頭の中だけで、凄まじい速度の演算が開始される。幾重にも張り巡らされたセキュリティの壁を、あらかじめ組み上げていたハッキングツールで次々と突破していく。
標的は、オークションの管理サーバー、そして「パノプティコン」のデータそのもの。
「……さあ、狂った買い物を終わらせてやる」
襟華の指が、見えないキーボードを弾くように微かに動き、そして静かにエンターキーを押し込んだ。




