第62話 仕立て屋と令嬢
重厚なマホガニーの扉が静かに閉じられると、都心の喧騒は完全に遮断された。
案内されたのは、完全予約制レストランのさらに奥深く、特別客専用の動線の先にある個室だった。壁の厚みと吸音材の効いた空間は、隣室の気配すら微塵も感じさせない。照明は極限まで落とされ、テーブル中央に置かれたキャンドルの炎だけが、磨き上げられたカトラリーを静かに照らし出している。
佐藤はプレスの効いたダークスーツの袖口をわずかに覗かせながら、手元の白ワインのグラスを回した。
グラスの底から立ち上るシャルドネの香りを確かめ、小さく頷く。
「見事な温度管理です。硬質なミネラル感が、海鮮の旨味を正確に引き立てている」
佐藤の視線の先には、純白のプレートに美しく盛り付けられたホッキ貝のサラダがあった。微かな柑橘の香りと、貝の瑞々しい食感。細かく刻まれたハーブが、見た目の美しさだけでなく、複雑な風味の層を作り出している。
それに続くのは、車エビのみそソースだ。エビの殻と脳味噌をじっくりと炒め、コニャックでフランベしてから極限まで旨味を抽出した濃厚なソースが、プリプリとした身に絡みつく。火入れの時間は秒単位で計算されており、中心部にはわずかにレアな食感が残されていた。それが白ワインの酸味と完璧なマリアージュを成立させている。
「外食でここまで完璧な温度と提供のタイミングを維持できる店は、そう多くありません。食材のポテンシャルを極限まで引き出している」
「あなたが文句を言わないなんて、珍しいわね。紘子が手配しただけのことはある」
向かいの席で、千尋がワイングラスを傾けながら口角を上げた。彼女は今夜の作戦会議のために、深いエメラルドグリーンのシルクのドレスを纏っている。
その隣では、襟華が慣れないテーブルマナーに悪戦苦闘しながらも、出された料理を猛烈な勢いで平らげていた。彼女のグラスに注がれているのは、ワインと同じボトルから注がれたように見える、最高級のノンアルコール・ブドウ果汁だ。
「美味しいけど、量少なくない? これ。もっとガッツリ食べたいんだけど」
「フレンチはコース全体の計算で成立しているのです。それに、これから胃袋を重くするわけにはいかないでしょう。頭脳をクリアに保つ必要があります」
佐藤は静かにナイフを入れた。
運ばれてきたのは、シタビラメのソテー、キノコソース。香ばしく焼き上げられた肉厚な白身魚に、ポルチーニやマッシュルームを煮詰めた芳醇なソースがかけられている。さらに、蒸したカブにあん肝を詰めたものと、付け合わせのワイルドライスが続く。カブの優しい甘みとあん肝の暴力的なまでのコク、そして大地の香りを残したワイルドライスの野性味が見事な対比を生み出していた。
「別動隊の進捗はどう?」
シタビラメを優雅に口に運びながら、千尋が視線を上げた。
佐藤は手元の端末を一瞥した。画面には、暗号化された短いシグナルが点滅している。
「予定通りです。愛永さんが現在、ターゲットであるIT企業の会長と、港区のホテルで会食中です」
佐藤は画面をスクロールさせ、音声のない監視映像の断片を確認した。愛永が会長に笑顔でワインを勧めている映像だ。
「昔のスポンサーという立場を利用し、警戒心を解くのは彼女の独壇場でしょう。弥生さんがこのために用意した遅効性の筋弛緩剤は、アルコールと混ざることで無色透明、無味無臭のまま正確に効果を発揮します。愛永さんの手際なら、会長にグラスを傾けさせることなど造作もない」
「彼が眠りに落ちれば、端末から招待コードと生体認証のデータを抜き出す。これで潜入の切符は確保できるわね」
千尋が小さく笑う。
襟華がワイルドライスをフォークで突きながら顔を上げた。
「デポジット用の資金、指定の口座にプールし終わったよ。マジで頭パンクするかと思った。巨額の暗号資産をノーミスで転がし続けるのって、神経すり減る」
「ご苦労様です。我々が演じるのは、その程度の金額を端金としか思っていない傲慢な買い手です。資金の出処を疑われる隙は与えません」
タイミングを見計らったかのように、メインディッシュが運ばれてきた。
柔らか牛タン。
じっくりと赤ワインと香味野菜で三日間煮込まれたそれは、ナイフの重みだけで繊維がほどけるほどに柔らかい。
佐藤はそれに合わせ、ブルゴーニュの赤ワインのグラスを手にとった。
「豪華客船で開催されるオークション。千尋さん、あなたは招待コードの元の持ち主が推薦した、新たなVIPとして潜入していただきます。親の莫大な遺産を相続し、違法な娯楽に手を染める退廃的な資産家という設定です」
「悪くないわね」
千尋は赤ワインを含み、瞳の奥に静かで危険な光を宿した。
「じゃあ、私はバックアップ?」
襟華が牛タンを頬張りながら尋ねる。
「いいえ。あなたは千尋さんと共に、船に乗り込みます」
「はあ? 私も? 招待コードは一つしかないんでしょ?」
「ええ。ですから、あなたは招待客としてではなく、所有物として乗船するのです」
佐藤は淡々と告げた。
「は?」
「オークションの性質上、商品や余興のために、特殊な技能を持つ人間を伴って乗船するVIPは珍しくありません。あなたは千尋さんが金で買い取った、才能あるハッカーの奴隷として、彼女の足元に控えてもらいます」
佐藤はエスプレッソの小さなカップを口元に運んだ。
「船内は極めて強力なジャミングと、最新の生体スキャナーで守られています。外部からの遠隔ハッキングは不可能です。内部に物理的に侵入し、彼らのローカルネットワークのポートに直接アクセスできる人間がどうしても必要なのです」
襟華は自身の皿に残ったソースを睨みつけた。
「そして、VIPの持ち物であれば、ボディチェックの基準は異なります。人間そのものがデバイスの隠し場所となる。これは我々が中枢に触れるための、唯一の物理的な侵入経路です」
沈黙が降りた。
襟華はやがて乱暴にエスプレッソを飲み干した。
「やってやるよ。その代わり、しくじったら承知しないからね」
★★★★★★★★★★★
食事を終えた三人が向かったのは、紘子が秘密裏に所有している都内某所の地下アトリエだった。
表向きはアンティークの輸入雑貨を保管する倉庫だ。木箱や古い家具が積まれた薄暗い通路には、微かに埃と古い紙の匂いが漂っている。しかし、奥にある分厚い防音扉のロックを解除して中に入ると、そこは外界とは全く異なる無菌室のようなハイテク空間だった。
世界中から集められたハイブランドのドレス、特殊素材の衣服、そして偽造のためのあらゆる機材が整然と並んでいる。
「お待ちしていたわ」
メジャーを首から下げた紘子が、満足げな笑みを浮かべて出迎えた。
「愛永から連絡があったわ。招待コードの抜き取りは無事に完了したそうよ。これで、あなたたちはVIPね」
「時間があまりありません。直ちに彼女たちの偽装を」
佐藤の指示を受け、紘子はアトリエの奥から数着のドレスを引きずり出してきた。
紘子が千尋のために選んだのは、背中が腰のあたりまで大胆に開いた、漆黒のベルベットのイブニングドレスだった。装飾は極限まで削ぎ落とされているが、生地そのものが放つ光沢と、計算し尽くされたドレープが、着る者の身体の線を官能的に、かつ暴力的なまでの存在感で強調する。
千尋が着替えを終えて姿を現すと、アトリエの空気が一変した。
彼女は意志の強さを感じさせる太い眉を少しだけ釣り上げ、射貫くような視線を鏡に向けた。その立ち姿は、他者の命を金で買うことに何の躊躇いも持たない、冷酷な資産家そのものだった。
「いい服ね。重みがある」
千尋がベルベットの質感を確かめるように生地を撫でる。紘子が用意した衣装は、事前の採寸データからミリ単位で調整されており、千尋の身体に吸い付くようにフィットしていた。
「完璧ね。血の匂いがしそうなくらい、美しいわ」
紘子が頷く。
「さて、問題はこっちね」
紘子は、不満げに腕を組んで立っている襟華に向き直った。
「私は何を着ればいいわけ? ゴスロリとかメイド服とか出してきたら、マジで燃やすからね」
「そんな安っぽい服は置いてないわよ」
紘子が用意したのは、一見するとシンプルな、オフホワイトのタイトなノースリーブのワンピースだった。しかし、首元には鈍く光る金属製のチョーカーが取り付けられており、手首から肘にかけては、拘束具を模したような革のベルトが巻きつくデザインになっている。
「服の裏地には電磁波シールドを織り込んでいて、そこに極薄のフレキシブル基板と通信モジュールを仕込んであるわ。バッテリーの配置も重さを感じさせないように分散させている。チョーカーは生体認証を誤魔化すための偽装パルス発生器よ。右手の袖口には、有線接続用の極小コネクタを隠してあるわ」
「悪趣味」
襟華が吐き捨てるように言いながらも、指示通りに着替えを済ませる。
鏡の前に立った彼女の姿は、いつもの生意気な面影を残しつつも、明確に誰かの所有物であることを示す、奇妙な倒錯感と無力感を漂わせていた。
「姿勢が悪いわよ」
不意に、千尋が冷たい声で指摘した。襟華は息を呑んだ。
千尋は襟華の背後に立ち、彼女の顎を指先で強引に持ち上げた。
「反抗的な目は悪くないわ。でも、あなたは飼い慣らされているの。私があなたに何百万ドルも投資し、その自由を完全に買い取った。その屈辱と、それでも私に逆らえないという諦観を、体の隅々まで染み込ませなさい」
千尋の言葉には、演技とは思えないほどの重く冷たい圧があった。
襟華は一瞬反発しようとしたが、千尋の圧倒的なオーラに呑み込まれ、思わず反論の言葉を飲み込む。
「歩幅は私の半分。常に私の右斜め後ろ、半歩遅れて歩きなさい。私が止まれば止まり、私が手を出せば、即座にあなたのデバイスを起動する。ノイズは一切許さないわ」
「わかったよ」
襟華は唇を噛み締め、小さく頷いた。
プロとしての覚悟。中枢を破壊するためなら、この屈辱的な配役も完璧にこなしてみせるという、彼女なりの闘志だった。
佐藤は少し離れた場所から、二人の仕上がりを静かに観察していた。
服装、視線、立ち振る舞い。心理工作のスペシャリストである千尋のリードにより、襟華の身に纏う空気が、ただの少女から高価な所有物へと変質していく。
物理的な偽装と、心理的な偽装。その両方が完全に重なり合った瞬間、佐藤は小さく頷いた。
「チェック完了。完璧な偽装です」
佐藤は手元のタブレットを操作し、暗号化された通信回線を開いた。
「グレタ。港までの送迎と、周辺海域からのバックアップの準備は?」
『いつでも出せる。船底のソナーの死角は、計算済みだ』
インカムの向こうから、グレタの冷静な声が返ってくる。
「よろしい」
佐藤はダークスーツの襟を正し、二人の姿に向き直った。
「オークションが開催される豪華客船『レヴィアタン』は、明日の夜、横浜港を出航します。我々が目指すのは、単なる資金の流れの解明ではありません。このオークションを管理している中枢サーバーへの物理的なアクセス、そして、彼らの顧客リストの全容解明です」
佐藤の感情の抜け落ちた氷の瞳が、静かに光を放った。
「豪華な檻の中の宴。その全てを、深海へと沈めましょう」
千尋は優雅に微笑み、襟華は静かに決意の炎を瞳に宿した。
二人は足並みを揃え、重厚な防音扉の向こうへと歩み出していく。




