第61話 人身売買の宴
秋葉原の裏通り。
無数の電子部品やジャンク品が山積みになった薄暗い店舗の並びを、パーカーのフードを目深に被った襟華が足早に歩いていた。
すれ違う人々の奇異な視線を気に留めることもなく、雑多な路地をすり抜けていく。
その後ろを、ダークスーツを着崩した佐藤が、紙袋を提げて一定の距離を保ちながら続いている。
休日の電気街の喧騒から少し外れた、高架下の小さな公園。
錆びたベンチに腰を下ろした襟華は、ため息をついて手元のビニール袋の中身を確認した。
「……とりあえず、並列処理用の古い演算チップと、物理隔離用のハードウェアはこれで揃った。あとはオフィスに戻って組み上げるだけ」
「お疲れ様です。少し休憩にしましょう」
佐藤はベンチの隣に座り、持参した小さな魔法瓶のキャップを開けた。
立ち上ったのは、カカオの濃厚な香りと、カルダモンやクローブといった複雑なスパイスの匂い。彼が深夜に調合し、温度を完璧に管理して持ち込んだ特製のホットチョコレートだ。
佐藤は小さな紙コップにそれを注ぎ、さらに別の小箱から、濃い焦げ茶色に焼き上げられた一口サイズの焼き菓子を取り出した。
「フランスの伝統菓子、カヌレ・ド・ボルドーです。銅製の専用型に蜜蝋を塗り、オーブンでじっくりと焼き上げました」
襟華はコップとカヌレを受け取り、小さくかじる。
ガリッ、という硬質な音。
蜜蝋でコーティングされた外側のほろ苦いカラメルの層を突破すると、内側からはカスタードのように滑らかで、ラム酒とバニラの香りが弾ける柔らかな生地が現れた。
そこに、スパイスの効いたホットチョコレートを流し込む。強烈なカカオのコクがカヌレの甘みと融合し、冷えた体にじんわりと熱を行き渡らせていく。
「……美味しい。外側のガリガリした食感と、中のモチモチ感が全然違う」
襟華の張り詰めていた顔の筋肉が、少しだけ緩む。
「糖分とスパイスは、思考の霧を晴らすための最良の触媒です」
佐藤は自分のコップを手に取り、高架下を通り過ぎる電車の音に耳を傾けた。
頭上を響く電車の音が遠ざかるのを待ち、襟華がホットチョコレートの表面を見つめたまま口を開く。
「……ねえ、社長」
「はい」
「川崎のプラントにいた、あの男の人。カロンの……生体プロキシ」
佐藤は無言で彼女の次の言葉を待つ。
「私たちがハッキングのトラフィックを強引に遡ったせいで、あの人の脳は焼き切れたんでしょ。……もし私がもっと違うアプローチをしてたら、あの人は死なずに済んだのかな」
彼女の手が、微かに震えていた。
ディスプレイの向こう側の情報戦だと思っていたものが、直接、生身の人間の命を削っていたという事実。それは17歳の少女が背負うには、あまりにも重い現実だった。
「結果論で自分を裁くのは、非生産的なノイズです」
佐藤の落ち着いた声が、初夏の風に溶けるように響いた。
「相手は、人間の脳を使い捨てのルーターとして設計していた。我々が何もしなくても、あの青年は遅かれ早かれ廃棄されていました」
「理屈ではわかるよ。でも……」
「……その震えは、あなたが人間であるという何よりの証明です」
佐藤はコップを置き、襟華の横顔を見据える。
「我々が対峙しているのは、人間の命を単なる演算リソースや数字として処理する、倫理の底が抜けたシステムです。あなたが今抱いている罪悪感こそが、我々が彼らと同じ怪物に成り下がらないための、最後の重しになる。……その痛みを忘れないでください」
襟華は唇を噛み締め、何度か深く呼吸をした。
やがて、残りのカヌレを一口で飲み込み、立ち上がる。
「……戻ろ。サルベージしたデータの解析、今日中に終わらせるから」
その瞳からは、迷いの濁りが消えていた。
★★★★★★★★★★★
午後4時。
オメガ・リスクマネジメントのオフィス。
襟華は秋葉原で調達したハードウェアを基幹システムに組み込み、川崎のクラウドサーバーから強引に引き抜いた断片的なデータの復号化を再開した。
背後では、彩と紘子が静かにその推移を見守っている。
複数のモニターに意味不明な文字列が高速で流れ、それを襟華のプログラムが片端から解読していく。
「……いける。暗号キーの欠損部分は、過去のウロボロスの通信パターンのアルゴリズムから逆算して補完する」
キーボードを叩く乾いた音が、室内に響き続ける。
数十分の張り詰めた沈黙。
誰も口を利かず、ただプログレスバーがじりじりと進むのを見つめていた。
「開いた……!」
襟華の弾んだ声と共に、メインモニターの黒い画面が切り替わった。
表示されたのは、幾重にも暗号化されたダークウェブの深層領域にある、一つの隠しサイトのインデックス画面。
サイトのタイトルには、『タルタロス・オークション』と記されている。
「……あのフォーラムの、さらに奥ってわけね」
コーヒーを運んできた千尋が、足を止めた。
「ええ。VIP専用のクローズド・オークションのようです」
佐藤がモニターに歩み寄り、表示されている商品リストのテキストデータをスクロールさせた。
そこに並んでいた文字列に、部屋の温度が一気に数度下がったような錯覚を覚える。
『商品番号004:某国国防省、次期戦闘機開発データのバックドア・アクセス権』
『商品番号012:東アジア某国、野党党首の未成年買春の決定的な映像データ』
国家を揺るがす機密情報や、政治家の致命的なスキャンダルが、平然と値札をつけられて並んでいる。
「……ちょっと、これを見てよ」
襟華の声が、かすれた。彼女がマウスのカーソルを合わせたのは、リストのさらに下層、『Special』と名付けられたカテゴリだった。
『商品番号088:生体プロキシ(適性ランクA・初期化済み)。年齢19歳、男性。高い演算耐久性を保証』
『商品番号089:生体プロキシ(適性ランクB・初期化済み)。年齢15歳、女性。感情操作のテストベッドに最適』
添付されているのは、病院のカルテのような無機質な顔写真と、脳波の波形データ、そして信じられないほどの高額な開始価格だった。
「……吐き気がする」
彩が、口元を押さえて顔を背けた。
「人間の命や人格を……本当にただの部品として売買しているのね」
「ウロボロスは、自らの手で生体プロキシを開発・運用するだけでなく、それを兵器として世界の権力者や犯罪組織に売り捌いているのでしょう」
佐藤はリストを静かに見つめた。
「彼らの莫大な資金源の正体は、このオークションです」
「つまり、ここが奴らの本丸ってことね」
紘子が腕を組み、鋭い視線をモニターに向けた。
「このオークションのシステムに潜り込んで、主催者側のサーバーを逆に叩くことができれば……ウロボロスの中枢に手が届くかもしれないわ」
「潜入の算段はつきますか、田中君」
佐藤の問いに、襟華は画面を睨みながら渋い顔をした。
「システム自体の防壁は、時間をかければ抜けると思う。でも……」
彼女は画面の端にあるログインプロンプトを指差す。
「これ、ただのパスワード認証じゃない。すでに参加資格を持っている既存のVIPからのデジタル署名付きの招待コードと、参加保証金として500万ドル相当の暗号資産を専用のウォレットにデポジットする必要がある。バカみたいにハードルが高い」
「500万ドル。……約7億5000万ね」
千尋が深いため息をついた。
「氷室から回収した裏金を使えば用意できない額じゃないけど……。そんな巨額の暗号資産をいきなり動かせば、足がつくリスクが高すぎるわ」
「見せ金としてデポジット用の口座にプールするだけなら、私が複数のミキサーを経由させて偽装できなくはないわ」
紘子も腕を組んで思案顔になる。
「ただ、時間はかかるし、完全に痕跡を消せるかは確実じゃない。仮に資金が用意できても……」
「問題は推薦人の方ですね」
佐藤が静かに指摘した。
「我々の手元には、既存のVIPのリストすらありません。誰から招待コードを奪うか、そのターゲットの選定すら不可能な状態です」
重い沈黙が落ちる。
デジタル技術だけでは越えられない、アナログな信用の壁。
世界中の悪意が渦巻くオークションの入り口は、彼らの前に強固な扉を閉ざしていた。
ガチャリ、とリビングの奥の扉が開く。
愛永がスマホを片手に現れた。彼女は自身のネット番組の配信を終え、ラフな部屋着に着替えている。
メンバーたちが難しい顔をしているのを見て、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「……だったら、一人だけ心当たりがあるわよ」
愛永はメンバーたちの視線を一身に浴びながら、ソファに腰を下ろした。
「私がテレビ局にいた頃、番組のスポンサーを務めていた大手IT企業の会長よ。彼は裏で、未成年のタレントを集めたヤバいパーティーを開いていた。……そのパーティーの隠語が『蝶の羽化』だったの」
青い蝶。
メメント・モリの象徴であり、ウロボロスの痕跡。
「その会長が、タルタロスのVIP会員である可能性は高いですね」
佐藤の目が鋭く光った。
「ええ。テレビ局を追われた私には、もう彼に忖度する義理はないわ」
愛永は手元のスマホを軽く叩いた。
「私が直接コンタクトを取ってみる。あいつ、まだ私のことを諦めてなかったみたいだし。食事にでも誘い出して、隙を作ってあげるわ」
彼女の表情は、かつての清純派アナウンサーの仮面とは違う、プロのメディア関係者としての冷徹な顔だった。
「ただし、相手はIT企業のトップよ。セキュリティ意識は腐っても高いわ。物理的な接触で確実に仕留めるしかない」
「ええ、その通りです」
佐藤は襟華に向き直った。
「田中君。偽装用のウォレットと、招待コードを奪取するためのマルウェアの構築をお願いします」
「……了解。急ぎで作る」
襟華が再びキーボードに向かう。
「千尋さん。愛永さんのバックアップと、会長の身辺警護を突破するシナリオの構築を」
「ええ、任せて。……久しぶりに、少しだけ本気で騙してあげるわ」
千尋が優雅に微笑んだ。
佐藤は視線を外し、窓の向こうで広がる東京の夕景を見つめた。
太陽が沈みかけ、ビル群のシルエットが黒く浮かび上がっている。
彼の視線の先にあるのは、見えない悪意がうごめく夜の東京だ。
佐藤は手元のタブレットを静かに閉じた。




