第60話 八芒星、再び
夜の帳が降りた六本木。
大通りの喧騒から少し外れた、看板のない会員制ラウンジの奥のブース。
分厚いクリスタルグラスに注がれた琥珀色の液体が、間接照明を受けて妖しく揺らめいていた。
愛永は、深くスリットの入ったタイトなドレスの脚を優雅に組み替え、グラスの縁を赤い爪で静かになぞる。
「……私の収録終わりをわざわざ待ち伏せて、こんな隠れ家に誘い込むなんて。明日、東京に雪でも降るのかしら」
彼女の正面に座る佐藤は、自身のミネラルウォーターのグラスをテーブルに置いた。
「雪ではなく、もっと厄介なものが降るかもしれません。その前に、我々の強力なスピーカーであるあなたに、直接伝えておくべき事態が起きました」
「ウロボロス、ね」
愛永の声から、テレビ用に取り繕った甘さが消え去る。
佐藤が事前に暗号化通信で送っていた、川崎の廃プラントの惨状と、生体プロキシとして使い潰された青年のデータ。彼女はすでにそれを読み込んできていた。
「ええ。巨大な資金洗浄のネットワークと、人間の命を演算装置の部品として消費する倫理の欠如。これまで我々が相対してきたどの組織よりも、強大で異質な存在です」
「だから、私に何をしろと?」
「資金洗浄のダミー会社群のリストを渡します。あなたのネット番組で、彼らのフロント企業に繋がる疑惑を、少しずつ、しかし確実に世論の俎上に載せてほしい。彼らの資金源を外側から乾かしていくための、包囲網の形成です」
愛永は手元のマティーニを一口含み、挑発的な視線を佐藤に向けた。
「相手は国家レベルの隠蔽工作ができる連中よ。私が少しでも嗅ぎ回れば、今度こそ番組の降板どころか、物理的に口を塞ぎに来るかもしれないわ」
「そのリスクを承知の上で、お願いしています」
佐藤は一切の装飾を排した、事実確認のような声で応じた。
「彼らの論理の壁を突破するには、あなたが作り出す熱狂という大衆のうねりが不可欠なのです」
愛永は数秒間、佐藤の目を見つめ返していたが、やがてふっと肩の力を抜いて笑い出した。
「相変わらず、人の使い方が容赦ないわね。……でも、いいわ。乗ってあげる」
彼女はグラスを軽く持ち上げ、佐藤のグラスに澄んだ音を立てて当てた。
「テレビ局を追われてネットに流れ着いた私に、もう一度天下を取らせてくれるって約束したわよね。相手がどんな化け物だろうと、全部ひっぺがして、丸裸にしてやるわ」
「感謝します。……では、そろそろ戻りましょう。チームの再編成が必要です」
佐藤が立ち上がろうとすると、愛永はテーブルの下で、ヒールのつま先を佐藤の革靴にコツンと当てた。
「ちょっと。仕事の話だけで私を帰すつもり?」
佐藤が動きを止める。
愛永は唇の端を吊り上げ、獲物を狙う肉食獣のような艶やかな笑みを浮かべた。
「せっかくの密会なんだから、もう少しだけ……大人の時間を楽しませなさいよ。グラスが空くまでは、帰らないわよ」
佐藤は小さく息を吐き、再び深くソファに腰を下ろした。
「……善処します。ですが、私の話術はあなたの番組のゲストほど面白くはありませんよ」
「そこがいいんじゃない」
二人の夜は、もうしばらく続く。
★★★★★★★★★★★
翌日の夕方。
東京湾を見下ろすペントハウスのキッチンに、強烈に食欲をそそる肉の焼ける香ばしい匂いが充満していた。
佐藤の目の前にあるまな板の上には、見事なサシが入ったA5ランク黒毛和牛のブロック肉が鎮座している。希少部位のイチボ。赤身の旨味と脂の甘みのバランスが最も優れた部位だ。
彼は肉の表面に粗塩と黒胡椒、すりおろしたニンニク、刻んだローズマリーを徹底的に擦り込み、数時間の常温放置で中心温度を室温に馴染ませていた。
熱した鉄のフライパンに牛脂を溶かし、肉の塊を滑り込ませた。
強火で表面全体に強烈な焼き色をつけ、メイラード反応による香ばしい層を形成していく。ジュワァァァという激しい音が弾け、肉の焼ける暴力的な匂いが部屋の隅々まで広がった。表面を焼き固めた後、肉をジップロックに密封し、六十度に設定した低温調理器の湯の中へと沈める。肉のタンパク質が凝固しすぎず、かつ安全に火が通る極限の温度帯。ここから数時間、じっくりと熱を入れていく。
「……うわ、何この匂い。犯罪的だね」
リビングのソファでノートPCを叩いていた襟華が、顔を上げて鼻をひくつかせた。
彼女の隣では、分厚い判例集を読んでいた彩も、視線を上げて小さく息を吐き出している。
「特製のローストビーフを仕込んでいます。……今日は、晩餐にします」
佐藤がそう告げた数時間後。
すっかり陽が落ちたペントハウスの巨大なダイニングテーブルに、チームの八人全員が顔を揃えた。それぞれの持ち場で調査や準備を進めていた面々が、暴力的な肉の香りに引き寄せられるようにリビングへ集まってきたのだ。
佐藤が銀色のプラッターをテーブルの中央に置くと、全員の視線が一点に集中した。
プラッターの上には、完璧な薔薇色に仕上がったローストビーフが、厚さ一センチほどの贅沢なスライスで何枚も重なり合っている。
肉の断面からは、血ではない、旨味が凝縮された透明な肉汁が微かに滲み出していた。
佐藤が小さなソースボウルを添える。
「肉を焼いた際のフライパンに残った旨味に、赤ワイン、フォンドヴォー、バルサミコ酢を加えて限界まで煮詰めたソースです。付け合わせは、インカのめざめを使ったマッシュポテトと、すりおろした西洋わさび。……冷めないうちにどうぞ」
グレタが真っ先にフォークを突き刺し、肉を口に運んだ。
咀嚼した瞬間、彼女の鋭い目がわずかに見開かれる。
「……柔らかい。噛む必要がないくらいだ。赤身の味が異常に濃い」
「美味しい……!」
襟華が目を輝かせる。
「ソースの酸味が脂の甘みを引き立ててて、西洋わさびのツンとした香りが鼻に抜けていく。いくらでも食べられちゃうよ」
千尋も優雅にナイフを使いながら、満足げに微笑んだ。
「本当に、あなたの料理はいつも規格外ね。……で、これほど手の込んだ晩餐を用意したってことは、それなりの理由があるんでしょう?」
佐藤は自分の皿には手をつけていなかった。
彼はグラスの水を一口飲み、背後のメインモニターの電源を入れた。
画面に、ウロボロスの紋章と、複数のダミー会社のネットワーク図が展開される。
「全員の耳にはすでに入っていると思いますが、今後の方針の確認です」
佐藤は無表情のまま、モニターの図を切り替えていく。
「すでに共有している通り、我々が対峙するウロボロスは、パノプティコンの技術を吸収し、生体プロキシを運用する巨大な組織です」
部屋の空気が、一段階重くなる。
肉を味わっていたメンバーたちの表情からも、くつろいだ色が消え失せた。
「資金力、技術力、政治的な背景。すべてにおいて我々を凌駕しているでしょう。これまでは、標的の弱点を突いて局地戦で勝利を収めてきました。しかしこれからは、姿なき巨大な帝国との全面戦争になります」
佐藤はそこで言葉を切り、八人の顔を静かに見渡した。
「相手の規模を考えれば、ここから先は非常にリスクの高い領域に踏み込むことになります。場合によっては、物理的な命の危険も跳ね上がる。……この戦いに、付き合う義務はありません」
数秒の重い沈黙。
最初に口を開いたのは、ワイングラスを弄っていた紘子だった。
「割に合わない取引ね。相手の資金力が桁違いなら、私が使う裏のルートもすぐに塞がれる危険があるわ」
「法的にもブラックよ」
彩が腕を組んだまま続く。
「国家レベルの隠蔽工作をする組織を相手に、裁判や告発のスキームがどこまで通用するか。現行法の枠組みで戦うには限界があるわね」
弥生が不安そうに手元のフォークを見つめた。
「また、昨日の川崎みたいな猟奇的な怪我人が出るかもしれない。……正直、怖いよ」
それぞれが抱える、現実的で妥当な懸念。
誰もが即座に「やってやる」と息巻くような、単純な熱狂はそこにはない。相手の巨大さを正確に理解しているからこその、重い思案だった。
だが。
「……でもさ」
襟華が、ローストビーフの最後の一切れを飲み込み、ナイフとフォークを皿の上に置いた。
「あんな悪魔みたいなシステム、私たちの見えないところで好き勝手動かされてるなんて、腹が立つ。絶対に、あいつらのメインサーバーのコアをぶち抜いてやりたい」
襟華の言葉に、グレタが短く鼻を鳴らした。
「敵が強大であればあるほど、叩き潰す価値がある。サトウ、私の弾倉は常に満タンだ」
「私たちがここで降りたところで、あの連中が見逃してくれる保証もないしね」
千尋がふっと笑い、ワイングラスを揺らした。
「どうせ泥船に乗ったんだから、最後まで付き合うわよ」
愛永が、挑発的な視線を佐藤に向ける。
「昨日も言ったわよね。私が奴らの化けの皮を全部剥がしてやるって」
その言葉を聞いて、彩が仕方なさそうに眼鏡の位置を直した。
「……そうね。法が通用しないなら、法を作る側の弱みを握って無理やり動かすまでのことよ」
「インフレ気味の裏社会の相場だけど、あんたのこの料理の代金分くらいは、限界まで値切って物資を調達してあげるわ」
紘子が肩をすくめる。
弥生は両手で頬を挟み、気合を入れるように軽く叩いた。
「……よし。怪我人が出たら私が絶対に治す。それに、相手の生体プロキシの仕組みがわかれば、逆算してシステムの弱点を見つけられるかもしれないしね」
それぞれの動機、それぞれの矜持。
足並みが揃っているわけではない。だが、彼女たちが向いている方向は、完全に一致していた。
佐藤はモニターの電源を落とし、静かに立ち上がった。
彼の中で計算されていた数万通りのシミュレーションが、一つの明確な解へと収束していく。
「……確認しました。全員の意志はクリアです」
佐藤は深く一礼し、顔を上げた。
その瞳には、巨大な悪意に立ち向かう処刑人としての、鋭く澄んだ光が宿っている。
「これより、我々は対ウロボロス特化の遊撃部隊として動きます。……我々『Octogram』の予測不可能なノイズで、彼らの完璧な秩序を崩壊させましょう」
テーブルの足元で、ローストビーフの匂いに釣られてウロウロしていたダシが、短く「ミャウ」と鳴いた。




