第56話 深淵の入り口
深夜2時。
東京湾を見下ろすタワーマンションのペントハウスは、深い静寂に包まれていた。
リビングの照明は落とされ、ダウンライトの微かな光だけが、磨き上げられたアイランドキッチンを照らしている。
佐藤任三郎は、静まり返ったキッチンに一人立ち、柳刃包丁を握っていた。
まな板の上には、透き通るような白身に美しい血合いが混じる、鮮度抜群の天然真鯛のサクが横たわっている。
姿なきゲームマスター・カロンの正体を暴くため、連日連夜データの海を泳ぎ続けている仲間たち。彼女たちが数時間後に限界を迎えて起きてくることを見越し、佐藤は「脳の燃料」となる極上の夜食を、完璧なタイミングで提供できるように仕込んでいるのだ。
包丁の重みだけを利用し、舌の上でとろけるような極薄の削ぎ切りにしていく。
ボウルに自家製の濃厚な擦り胡麻と、少しの煎り胡麻、最高級の濃口醤油、煮切った本みりん、そして奥久慈卵の黄身だけを落とし、特製の胡麻醤油ダレを手早く練り上げる。そこに薄切りの真鯛を投入し、旨味をコーティングするように優しく和えた。
土鍋の中では、夜食用に少し硬めに炊き上げた白米が、ツヤツヤと輝いて出番を待っている。
「……下準備は完了です」
佐藤は手を洗い、リビングの広々としたソファに深く腰を下ろして、ふぅ、と静かな息を吐いた。
常に張り詰めている神経の糸を、ほんの数分だけ緩める。
そのわずかな「隙」を見逃さなかったのは、このペントハウスに住む気まぐれな同居人だった。
「……ミャウ」
短く、甘えるような鳴き声と共に、黒猫のダシが音もなく足元から跳び乗ってきた。
ダシは佐藤の太ももの上を器用に歩き、佐藤がソファの肘掛けに乗せていた右腕のすぐ横に、コロンと身を横たえた。
佐藤が視線を向けると、ダシは佐藤の右腕に自分の頭をスリスリと擦り付け、そのまま腕を枕にするようにして、小さな顎をちょこんと乗せた。
漆黒の柔らかな被毛が、佐藤の肌に触れる。
そして、前足をぐーんと伸ばして佐藤の腕をギュッと抱きかかえるようにホールドし、安心しきったように目を閉じた。
スゥ……スゥ……。
わずか数秒で、規則正しい微かな寝息が聞こえ始める。
ダシの体温が、佐藤の腕にじんわりと伝わってくる。時折、夢でも見ているのか、ピンと張った黒い耳がピクッと動き、温かいピンク色の肉球が佐藤の腕を優しく押したり引いたりしている。
自分の居場所はここだと言わんばかりに、全身で無防備に信頼を預けてくるその愛らしい姿に、佐藤は硬く結んでいた眉間を思わず緩めた。
「……全く。あなたというノイズは、本当に予測不能で、そして心地が良い」
佐藤は左手でダシの滑らかな背中を二、三度撫でてから、ダシの枕になっている右腕を動かさないようにして、目を閉じ、しばしの休息を味わった。
数十分後。
不意に、ペントハウスのエントランスの重厚な電子ロックが解除される音が響いた。
「……ふぅ。疲れたわ」
暗がりから現れたのは、レザージャケットを羽織った佐々木紘子だった。彼女の手には、厳重にダイヤルロックがかけられたアタッシュケースが握られている。
「紘子さん。お帰りなさい」
佐藤が声をかけると、紘子の帰還の音でダシがビクッと目を覚まし、不満げに「ニャァ」と鳴いてキャットタワーの方へ歩いていった。
「ただいま。……頼まれていたブツ、手に入れるのに骨が折れたわよ。裏社会の相場もインフレ気味でね」
紘子がアタッシュケースをダイニングテーブルに置いた音に釣られるように、奥の部屋のドアが開き、目をこすりながら田中襟華がリビングに現れた。
「……あ、紘子さん、帰ってたんだ。ブツって、例の?」
襟華がフラフラとふらつく足取りで、ダイニングチェアに座り込む。
「ええ」
佐藤は立ち上がり、キッチンの照明を一段明るくした。
「作戦会議の前に、酷使した脳に燃料を補給しましょう。……極上の夜食を用意して待っていました」
佐藤は小ぶりな有田焼の茶碗にご飯をよそい、その上に胡麻ダレをたっぷりと纏った真鯛を隙間なく敷き詰める。最後に、大葉と本わさびを天盛りにしてアクセントを加える。
「仕上げです」
佐藤は別のコンロで温めておいた熱々の液体を、真鯛の上からゆっくりと回しかけた。
昆布の王様と呼ばれる羅臼昆布から一晩かけて水出しした極上の出汁と、香ばしく焙煎された京都産の玄米茶を、一対一の黄金比でブレンドした特製の茶出汁だ。
熱い茶出汁に触れた瞬間、真鯛の表面が霜降り状に白く変色し、胡麻と玄米茶の香ばしい匂いが爆発的に広がり、深夜のペントハウスの空気を満たした。
「天然真鯛の胡麻だれ茶漬けです。……冷めないうちにどうぞ」
「……最高。匂いだけで寿命が伸びそう」
襟華がレンゲを手に取り、熱々の茶漬けをすする。
「うまっ……! 鯛が口の中でとろけるし、出汁の旨味と玄米茶の香りが鼻から抜けてく……。徹夜明けの胃袋に、これ以上の贅沢はないよ」
「本当ね。濃厚な胡麻のコクがあるのに、わさびと玄米茶のおかげで信じられないくらいさっぱりしてる。……いくらでも食べられそうだわ」
紘子も、一瞬で半分ほど平らげて感嘆のため息をついた。
「美味しい食事は、戦場を生き抜くための最良の防具です」
佐藤は自分用の茶漬けを静かに味わいながら、紘子のアタッシュケースに視線を向けた。
「それで、紘子さん。調達の首尾は?」
「完璧よ」
紘子は最後の一口を飲み込み、アタッシュケースのダイヤルロックを解除した。
中に入っていたのは、黒いUSBメモリ型のハードウェアウォレットが一つだけだった。
「指定された通り、完全に資金洗浄された暗号資産よ。……複数のミキシングサービスを何十回も経由させて、トランザクションの履歴を完全に物理切断してある。各国の諜報機関が束になっても、この資金の出所は絶対に追跡不可能よ」
「素晴らしい手際です」
佐藤はそのウォレットを受け取り、自身の作業デスクに置かれた強固な暗号化を施した外部接続用のノートPCに接続した。
「カロンの残した改良型パノプティコンのコード。その深層部分には、開発者がAIに学習させるために使用した巨大なデータセットの『購入履歴』の痕跡がわずかに残されていました。……これほど膨大なビッグデータを個人で収集するのは不可能です。必ず、裏の市場で情報を買い漁ったはずです」
佐藤はキーボードを叩き、通常のブラウザではなく、多重の暗号化通信を用いた特殊なTorブラウザを起動させた。
画面が真っ黒になり、無数の緑色の文字列が滝のように流れ始める。
「これから我々が向かうのは、ダークウェブのさらに深淵。通常の検索エンジンでは絶対に辿り着けない、世界中のブラックハットハッカーや情報屋が蠢く完全閉鎖型のアンダーグラウンド・フォーラムです」
「……名前は?」
襟華が真剣な表情でモニターを覗き込む。
「『タルタロス』。ギリシャ神話における、奈落の底を意味する名前です」
佐藤がエンターキーを叩くと、黒い画面の中央に、血のように赤い三頭犬の紋章が浮かび上がった。
ログインプロンプトが表示される。そこにはIDやパスワードを入力する欄はなく、ただ一言、『通行料を支払え』とだけ書かれていた。
「このフォーラムは、一見さんお断りの完全招待制です。……内部にアクセスするためには、身元の保証されたメンバーからの招待コードと、莫大な額の暗号資産を入場料として支払わなければなりません」
佐藤は紘子が調達したハードウェアウォレットから、指定されたアドレスへと暗号資産を送信した。
日本円にして、およそ一千万円に相当する額だ。それが、たった一つのフォーラムの入場料として一瞬で電子の海へと消えていく。
数秒の沈黙。
やがて、三頭犬の紋章がゆっくりと開き、無機質なダッシュボードの画面へと切り替わった。
潜入成功だ。
「ここが、タルタロス……」
襟華が息を呑む。
画面上には、違法なマルウェアの売買、機密データベースの横流し、ゼロデイ攻撃の脆弱性情報など、表のインターネットでは決して見ることのできない、純度百パーセントの犯罪情報の羅列が絶え間なく流れていた。
「田中君。……ここから先は、あなたの領域です。この泥沼のような情報の海から、数ヶ月前に大量の個人データセット、あるいはパノプティコンに類似したAIアルゴリズムの断片を買い漁っていたベンダーの痕跡を探し出してください」
「了解。……任せて」
襟華は自分のノートPCを佐藤の端末経由でサンドボックス環境のネットワークに接続し、タルタロスの内部データベースへのクローリングを開始した。
彼女の指先が、流れるような速度でキーボードの上を舞う。
「……相手は相当用心深い。取引履歴はすべてダミーのアカウントで分散されてる。でも、AIの学習用データのような巨大なファイルサイズなら、必ず転送時のトラフィックに不自然な偏りが生じるはず……」
襟華は数十分間、無言でスクリプトを走らせ、膨大なログをフィルタリングし続けた。
そして、不意に彼女の手がピタリと止まった。
「……社長。見つけたよ」
襟華がメインモニターに一つの取引ログを映し出した。
「約八ヶ月前。このフォーラムに出入りしているロシアのクラッカー集団から、東アジアの数百万件に及ぶSNSの裏垢のテキストデータと、監視カメラの映像データを一括で購入しているアカウントがある」
「アカウント名は?」
佐藤が身を乗り出す。
「『Blue_Morpho』。……青いモルフォ蝶、だよ」
青い蝶。
連続飛び降り自殺事件の被害者たちに共通して刻まれていた、メメント・モリの象徴。
カロンの痕跡と、完全に一致した。
「間違いないわね。カロンはここでAIの学習データを買っていたんだわ」
紘子がモニターを睨みつける。
「田中君。その『Blue_Morpho』の、現在の接続状況と通信ログは追えますか?」
「やってみる。……ただ、相手もプロだ。通信経路はオニオンルーティングで何重にも偽装されてる。すぐに物理的な場所を特定するのは難しいかも……」
襟華が解析を進めようとした、まさにその瞬間だった。
『……覗き見は、感心しないな』
不意に、佐藤が座るデスクの正面、厳重に暗号化され外部ネットワークからは完全に隔離されているはずの「オフィスの基幹システム」のメインモニターのスピーカーから、機械的に合成された無機質な声が鳴り響いた。
「なっ!?」
襟華が驚愕してキーボードから手を離す。
佐藤の顔色が変わった。
「……外部接続用のサンドボックス環境から、物理的にネットワークを分離しているはずのローカルの基幹システムへ、未知の脆弱性を突いて一瞬で横断されたのか……!?」
『タルタロスの深淵まで潜ってくるとは、さすがだね、処刑人さんたち。……だが、そこは私の庭だ。君たちが私の痕跡に触れた瞬間、逆探知してシステムに潜り込む仕組みを仕掛けておいた』
スピーカーから流れる声は、間違いなく廃ビルで対峙した姿なきゲームマスター、カロンのものだった。
「……何の用ですか、カロン。わざわざ挨拶に来るとは、随分と律儀ですね」
佐藤は瞬時に冷徹な表情を作り、基幹システムのスピーカーに向かって冷たく問いかけた。内心の驚愕を微塵も悟らせない、完璧な氷の指揮官のポーカーフェイスだ。
『ただの招待状だよ。……君たちは、私の美しいゲームを二度も邪魔してくれた。だから今度は、君たちを私のゲーム盤の「特別ゲスト」として招き入れてあげようと思ってね』
カロンの低い笑い声が響く。
『明日の夜。新しいタスクを始めよう。……もし君たちが現れなければ、今度こそ、美しい青い蝶がたくさん空を舞うことになるだろうね。期待しているよ』
プツン。
強制的にオーバーライドされていた音声通信が一方的に切断され、ペントハウスには再び重苦しい静寂が戻った。
「……完全に宣戦布告ね」
紘子が唇を噛む。
「相手は我々の存在と能力を認識した上で、正面から挑発してきました」
佐藤は基幹システムのセキュリティログを確認し、静かに立ち上がった。
その瞳には、かつての強敵・氷室レイの遺産を弄ぶ底知れぬ怪物への怒りと、獲物を確実に仕留める処刑人としての冷酷な光が宿っている。
「受けて立ちましょう。……姿なき殺人鬼を、深淵から物理世界へと引きずり出すために」
カロンとの直接対決の時が、刻一刻と迫っていた。




