第55話 見えない糸
廃ビルでの飛び降りライブ配信を間一髪で阻止してから、3日が経過していた。
東京は本格的な初夏を迎え、タワーマンションのペントハウスの広大な窓からは、抜けるような青空と眩しい太陽の光が差し込んでいる。
「……困りましたね。これでは作業が進みません」
アイランドキッチンの奥、佐藤任三郎は自身のノートPCの前で静かにため息をついた。
キーボードの上には、黒猫のダシがデデンと香箱座りを決め込んでいる。画面にはダシの体重によって押されたキーにより、「jjjjjjjjjjj」という無意味な文字列が果てしなく打ち込まれ続けていた。
佐藤が手を伸ばそうとすると、ダシは悪びれる様子もなく「ニャウ」と短く鳴き、今度はPCのマウスのコードに前足でちょっかいを出し始めた。
かまってほしい、あるいは小腹が空いたという、彼なりの愛らしいイタズラだ。
「仕方ありません。……ダシ君、特別におやつの時間としましょう」
佐藤が銀色の細長いパッケージを取り出し、ハサミで端を切り落とす。カサッ、という微かな音がした瞬間、ダシはマウスへの興味を完全に失い、佐藤の足元へとしなやかに飛び降りた。彼のお目当ては、無添加の鶏ささみと極上のホタテエキスを丁寧に練り上げた、ペースト状の特製おやつだ。
佐藤がしゃがみ込み、パッケージの端からペーストを少しだけ押し出す。
ダシは目を細め、小さなピンク色の舌をチロチロと出し入れして、佐藤の指先からペーストを上品に舐め取り始めた。ザリッ、ザリッという、ヤスリのような猫の舌の感触が佐藤の指に伝わる。
ダシの瞳孔は興奮で真っ黒に広がり、両耳は少し後ろに倒れ、口元の立派な髭は前方に向かってピーンと扇状に張っている。これは対象に完全に集中し、至福の喜びを感じている証拠だ。
美味しい時に特有の、喉の奥から鳴るゴロゴロという低い音が室内に響く。がっついてむせるようなことはせず、極上の味を一滴残らず堪能するように、ゆったりと丁寧に舐め続けるダシの姿に、佐藤の口元に自然と柔らかな微笑みが浮かんだ。
ダシがパッケージの最後の一滴まで綺麗に舐め尽くし、前足で口の周りを丁寧に洗い始めた頃、リビングの奥から重たい足音が聞こえてきた。
「……おはようございます。いや、もうお昼か」
フラフラとした足取りで現れたのは、田中襟華と小林弥生、そして二人をサポートしていた渡辺千尋の三人だった。
救出した少女のスマートフォンから抽出されたデータの解析に、3日間ほぼ徹夜で取り組んでいた彼女たちの顔には、隠しきれない深い疲労の色が濃く滲んでいる。
「お疲れ様です、田中君、小林先生、渡辺さん」
佐藤は労いの言葉をかけ、キッチンから銀色のトレイを運んできた。
「皆さんの酷使した脳を癒やすための、特効薬を用意してあります」
佐藤がテーブルに置いたのは、クリスタルのグラスに盛られた色鮮やかなデザートだった。
イタリア産の最高級ピスタチオをふんだんに使用して佐藤自身が練り上げた、濃厚な自家製ジェラート。そこに、たった今抽出したばかりの香り高い熱々のエスプレッソを、惜しげもなくたっぷりと回しかける。
極上の『アフォガート』だ。
「冷たいジェラートと熱いエスプレッソの完璧な温度差。ピスタチオの暴力的なまでのコクと、カフェインの鋭い苦味が、疲労した脳髄に直接糖分と活力を送り込みます。……さあ、溶けないうちにどうぞ」
「……うわぁ、最高!」
田中がスプーンで一口すくい、目を見開いた。
「ヤバい、これ。徹夜明けの体に染み渡る……。甘さと苦さが絶妙すぎるよ!」
「本当ね。ピスタチオの香りが鼻に抜けて、一瞬で疲れが吹き飛ぶわ」
小林も、医者の顔を崩して幸せそうに頬を緩ませる。
「佐藤のスイーツは、本当に罪作りね。こんなの食べたら、またすぐに働かされちゃうじゃない」
渡辺は上品にアフォガートを味わいながら、妖艶に微笑んでみせた。
「皆さんの献身的な働きに対する、私からのささやかな報酬です」
佐藤は彼女たちの笑顔を見て、微かに口角を上げた。
スイーツの甘みが三人の脳に十分な糖分を行き渡らせたのを確認すると、佐藤の顔は、冷徹な氷の指揮官のものへと戻った。
「さて。休息はここまでです」
佐藤はモニターの前に立つ。
「小林先生、田中君。……救出した少女の端末から引き抜いた、『メメント・モリ』のアプリ自体の解析結果は?」
小林がタブレットを操作し、モニターに複雑なグラフやログを表示させた。
「結論から言うとね、社長。……これ、ただの脅迫用のチャットアプリなんかじゃない。極めて高度に設計された洗脳用のマルウェアよ」
田中が横から補足する。
「私がサンドボックスの隔離環境でダミーアカウントを使って潜入していた時は、このアプリ、無害なチャットツールを偽装して完全に休眠状態を保っていたの。だから通信経路の逆探知はできても、アプリ本体に潜む異常な挙動には、私でも気付けなかった」
彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
「でも、被害者の『実機』にインストールされ、スマートウォッチのヘルスケアデータや、実機のマイクやカメラと連動した瞬間、奥底に隠されていた悪魔のコードが展開して起動する仕組みだったんだ。……実機と生体データのトリガーが揃うまで息を潜めるなんて、異常なほど念入りなステルス機能だよ」
小林が厳しい表情でグラフを指し示す。
「このアプリは、マイクで拾った環境音から本人が一人の時間帯を割り出し、カメラのレンズから入る光量で睡眠の質を測定する。さらに心拍数や血圧の変動まで常時モニタリングして、対象者の『精神的脆弱性』が最大になる瞬間を正確に予測していたの」
「……何のためにそこまで?」
渡辺が、眉をひそめて尋ねた。
「人間は、深夜の特定の時間帯や、極度の睡眠不足に陥っている時、論理的な思考力が著しく低下するわ。カロンは、その生体データを元に、ターゲットの少女が最も不安を感じ、判断力が鈍っている絶妙なタイミングをピンポイントで狙って、あの不気味なタスクの通知を送っていたの。……恐怖によるドーパミンの分泌と、服従による一時的な安堵感を人為的にコントロールして、薬物依存と同じような『洗脳状態』を作り出していたのよ」
「ただの悪意じゃできない。……人間の心理と生理学を完全に理解し、それをアルゴリズムに落とし込める異常な技術者の仕業だわ」
小林の顔に、医者としての強い怒りが滲む。
「それだけじゃないよ」
今度は田中が、自分のモニターからメインスクリーンへ、おびただしい数のプログラムのソースコードを転送した。
「このアプリのコア部分に、何重にも強力な暗号化が施されたブラックボックスがあったの。実機のデータキーを鍵にして、私が3日徹夜で量子演算のクラックツールをぶん回して、ようやく難読化を解除できたんだけど」
田中がエンターキーを叩くと、モニターに整然としたコードの配列が浮かび上がった。
「このアルゴリズム……ただのデータ収集プログラムじゃない。自己学習型のAIモデルが組み込まれてる。参加者の反応をリアルタイムで学習して、次にどんな言葉を投げかければ最も絶望するか、どの順番でタスクを出せば最も効率的に洗脳できるか……AI自身が最適解を導き出してるんだ」
佐藤は、モニターに映し出されたそのソースコードの配列と、独特な変数の命名規則を見た瞬間、全身の血が凍りつくような悪寒を覚えた。
「……社長? どうしたの?」
佐藤のただならぬ様子に、田中が怪訝な顔をする。
「……田中君。この行の、感情パラメータを司る予測モデルの記述と、その下の再帰的ニューラルネットワークの処理構造を拡大してください」
佐藤の声は、かすかに震えていた。
田中が指示通りにコードを拡大する。
佐藤はその文字列を睨みつけ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「……間違いない。これは……『パノプティコン』のコードです」
「なっ……!?」
その言葉に、リビングにいた三人が息を呑み、硬直した。
「パノプティコンって……氷室レイが作った、あの国家規模のAIシステムのこと!?」
渡辺が信じられないというように声を上げる。
「バズ・インキュベーションのデータセンターごと、私たちが物理的に破壊して、完全に消滅したはずでしょう!?」
「ええ。メインサーバーは確かに破壊しました。……ですが、これはその単なる残骸ではありません」
佐藤は目を細め、コードの細部を解析していく。
「基本となる骨格や、人間の感情の揺らぎを数値化して予測する根幹のアルゴリズムは、氷室が開発したパノプティコンそのものです。……しかし、これはマクロな大衆を監視し操作するためのものではなく、ミクロな個人の精神を徹底的に破壊するために、極限までパーソナライズされ、チューニングされている。……言うなれば、パノプティコンの『凶悪な改良型』です」
沈黙が、重く部屋を包み込んだ。
氷室レイは今、東京拘置所の独房の中で、外部との接触を完全に絶たれている。彼が獄中から新たなAIを開発し、ゲームを運営することなど物理的に不可能だ。
「……じゃあ、誰が?」
小林が静かに問う。
「可能性は2つです」
佐藤はモニターから視線を外し、窓の外の東京の街並みを見た。
「1つは、氷室が逮捕される前に、パノプティコンのソースコードの一部をダークウェブや闇市場に流出させていた可能性。……それを手に入れた正体不明のハッカーが、自らの快楽殺人のために『メメント・モリ』を作り上げた」
「もう1つは?」
渡辺が尋ねる。
「……氷室レイの最側近、あるいはパノプティコンの開発に深く関わっていた『内部の人間』が、コードを持ち出してゲームマスター・カロンを名乗っている可能性です」
その時、佐藤の脳裏に、ある一人の男の顔がよぎった。
かつてバズ・インキュベーションの共同創業者であり、多摩川の釣り堀で佐藤たちにメインサーバーの物理マスターキーを託した男。九条進。
彼はシステムに絶望し、氷室を止めるために佐藤に協力した。だが、パノプティコンのソースコードの全貌を氷室と同等に理解している人間は、世界に九条しかいないのもまた事実だ。
(いや……あの不器用な男が、こんな猟奇的なゲームを作るとは思えない。だとしたら、一体誰が……?)
「……相手の正体が誰であれ、状況は最悪ね」
渡辺が忌々しそうに腕を組む。
「ただの愉快犯じゃない。国家を転覆させかけたあの悪魔のAI技術を武器にして、見えない糸で少女たちを操る、姿なき殺人鬼。……一刻も早くサーバーの物理的な場所を特定して、システムごと潰さないと、犠牲者は増え続けるわよ」
「ええ。相手がAIという冷酷な論理の刃を使ってくるのなら、我々もそれ以上の演算で対抗するまでです」
佐藤は再びモニターに向き直った。
「田中君。この改良型パノプティコンのソースコードから、AIの思考のバイアスを逆算してプロファイリングすることは可能ですか? コードを書いた人間の、何らかの特徴が残っているはずです」
「……やってみる。このコードの中に、カロンの『指紋』が絶対にあるはずだから」
田中の瞳に、トップハッカーとしての強烈な闘志が再び燃え上がった。
見えない糸で少女たちを死の淵へと誘う、悪魔のAI。
かつての強敵の遺産を悪用する真の黒幕を暴き出すため、佐藤たちオメガ・チームと姿なきゲームマスターとの、デジタルと精神の領域を懸けた死闘が、新たな局面に突入しようとしていた。




