第54話 死へのカウントダウン
カロンとの最初の接触から、約1ヶ月半の歳月が経過していた。
季節は春から初夏へと移り変わり、東京の朝の風には微かな湿気と熱が混じり始めている。
オメガ・リスクマネジメントのペントハウスでは、朝日が差し込む広大なアイランドキッチンで、佐藤任三郎が静かに朝食の準備を進めていた。
「……日本人の魂は、米と発酵にあります」
佐藤は誰にともなく呟きながら、炊き立ての土鍋の蓋を開けた。
立ち上る純白の湯気の中には、山形県産の特別栽培米『つや姫』が、1粒1粒、文字通り艶やかに輝きながら立っている。
手水に粗塩を軽く溶かし、両手を湿らせる。
そこにふわりと熱々のご飯を取り、1つ目の具材を中央に沈めた。
北海道産、初夏のわずかな時期にしか獲れない極上の『時鮭』だ。皮目をバーナーでパリッと香ばしく炙り、ふっくらとした身を大きく粗くほぐしてある。産卵前のため、身には強烈なまでの脂が乗り、強めの塩気がその旨味を極限まで引き出している。
佐藤は米粒を潰さないよう、両手の中にふんわりとした空気の層を作るようにして、見事な正三角形に握り上げた。
続いて、2つ目のお握り。
佐藤が用意したもう一つの具材は、黄金色をしたペースト状の奇妙な物体だった。
『やまうに豆腐』。
熊本県五木村に800年前から伝わるという、豆腐の味噌漬けである。硬く水切りした豆腐を特製の麦味噌に半年間じっくりと漬け込んで熟成させることで、大豆のタンパク質がアミノ酸に完全に分解され、まるで本物の極上ウニのようなネットリとした食感と、チーズにも似た暴力的なまでに濃厚な旨味を生み出している。
この発酵の極致とも言えるやまうに豆腐をたっぷりと米の中に包み込み、海苔を巻かずに白米のままふわりと握る。
漆黒の和皿の上に、鮭のお握りと、やまうに豆腐のお握りを1個ずつ並べる。
その傍らには、紀州南高梅の『白干し梅』を1個添えた。昨今の甘いハチミツ梅などではない、塩分濃度20%の、容赦なく酸っぱくて塩辛い、昔ながらの純粋な梅干しだ。
最後に、汁物。
真昆布と本枯節で引いた黄金色の一番出汁を温め、細かく包丁で叩いて特有の強烈な粘り気を出した新鮮なモロヘイヤをたっぷりと投入する。サッと火を通したところに、香り高い合わせ味噌を溶き入れた。
「完成です。……徹夜組の皆さん、栄養価と塩分を補給してください」
「……んー、いい匂い。胃袋に染みるわ」
リビングのゲーミングデスクから、フラフラと立ち上がってきた田中襟華が、ダイニングテーブルについた。
同じく、徹夜で海外サーバーのログを追っていたグレタ・ヴァイスも、無言で席に座る。
襟華はまず、やまうに豆腐のお握りを一口かじった。
「……っ!? なにこれ、すっごく濃厚! 本当にウニみたいに口の中でとろける……! 味噌の香ばしさとご飯の甘みが、もう最高!」
「モロヘイヤのトロトロしたスープも、疲れた内臓を優しくコーティングしてくれるようだな」
グレタもモロヘイヤの味噌汁を啜り、満足げに息をつく。時折、白干し梅を少しだけかじっては、その強烈な酸味に顔をしかめつつも目を細めていた。
「美味しい食事は、戦うための最高の弾薬です。……それで、状況は?」
佐藤は自分のお握りには手をつけず、襟華に尋ねた。
襟華の顔つきが、一瞬にして険しくなる。
「ダミーアカウント『ユキ』の進捗は、予定通り。……カロンからの度重なる理不尽なタスクを、社長のAI合成技術と私のデジタル偽装で、なんとか昨日『Task 49』までクリアしたよ」
「千尋さんからの報告では、現実の清林女子学園のターゲットたちは、全員、彩さんの手配した安全なシェルターに隔離し、心理的な保護を完了しています。カロンが握っていた彼女たちの脅迫用データも、ハッキングで全て無効化しました」
佐藤がこれまでの成果を確認する。
「問題は、肝心のカロンの『本体』だよ」
襟華がスプーンを置き、不満げにモニターを睨みつけた。
「1ヶ月半前、カロンとの最初の接触で逆探知した『渋谷区松濤』のサーバー。千尋さんがすぐに現地に潜入して確認してくれたけど、ただの無人の中継拠点だった。……それ以降、奴は異常なまでに警戒レベルを上げて、ホストを数十秒単位で転々と変え続けてる。今のままじゃ、真の居場所は絶対に特定できない」
「ええ。相手は極めて慎重で、狡猾です」
佐藤が静かに頷く。
「しかし、奴のその『完璧なシステム』にも、たった1つだけ弱点があります。……今日、彼が予告している『最終タスク』です」
「……ライブ配信、か」
グレタが呟く。
「その通りです」
佐藤は目を鋭くした。
「カロンは、参加者の死の瞬間をライブ配信で中継させ、それを娯楽として消費しています。高画質のリアルタイム動画を不特定多数に安定して配信するためには、どうしても『太い通信回線』と、それなりの処理能力を持ったホストサーバーに長時間接続し続けなければならない。……そこが、逆探知の唯一にして最大のチャンスです」
その時。
襟華のモニターで、警告音がけたたましく鳴り響いた。
「……社長! ダークウェブの専用掲示板で、カロンがカウントダウンを始めた!」
襟華がモニターに映し出したのは、カロンが投稿した不気味なメッセージだった。
『今日、新たな青い蝶が羽ばたく。……美しい飛翔を見届けよ』
同時に、1つのライブ配信サイトのURLがリンクされていた。清林女子学園以外の、彼らが把握しきれていなかった別のターゲットのものだ。
佐藤の指示で襟華がそのリンクをサンドボックス内で開くと、荒い画質のリアルタイム映像が再生された。
「……これは」
佐藤が息を呑む。
映像に映っていたのは、どこかの高いビルの屋上だった。
錆びたフェンスの外側、わずか数十センチのコンクリートの縁。そこに、強風にセーラー服のスカートをはためかせながら、1人の少女が立っている。
少女の手にはスマートフォンが握られており、そのカメラが下界の景色――遥か下を走る車や、豆粒のような人々を映し出していた。
「Task 50(最終タスク)……! 飛び降りのライブ配信だ!」
襟華が悲鳴のように叫ぶ。
「襟華君! 配信元の物理的な場所の特定を!」
「やってる! ……配信の背景に見えるビル群の位置関係、太陽の角度、それに……映像のノイズから周辺の基地局の電波塔を割り出す……!」
襟華の指が、目にも止まらぬ速さでキーボードを叩く。
「……出た! 品川区の湾岸エリア! 建設が中断して放置されている、30階建ての廃商業ビルだ! ここから車で15分!」
「グレタ!!」
佐藤の鋭い声が響く。
「応!」
グレタはすでに立ち上がり、ガレージへ向かって駆け出していた。佐藤もその背中を追う。
「社長! 私もここから、周辺の交通管制システムをハッキングして、信号を全部青に変える! 同時にカロンの真のホストサーバーを、この太い通信線から逆探知でぶっこ抜く!」
襟華の頼もしい叫びを背に、佐藤とグレタはエレベーターへと飛び乗った。
ガオンッ!!
重低音を響かせ、マットブラックの大型SUVが地下駐車場から猛スピードで飛び出した。
グレタの神業のようなステアリング操作と、襟華の信号ハッキングによる完璧な「グリーンウェーブ」のサポートを受け、SUVは早朝の都内の幹線道路を弾丸のように駆け抜けていく。
「急げ、グレタ。……少女が落ちるまで、もう時間がない」
助手席でノートPCを開いた佐藤が、カロンのライブ配信映像を睨みつける。
映像の中の少女は、足の震えを隠しきれず、時折「怖い……助けて……」と嗚咽を漏らしていた。だが、彼女のスマホのスピーカーからは、音声変調された不気味なカロンの声が、呪いのように響き続けている。
『飛べ。飛べば、すべてが許される。君の恥ずかしい秘密は消え去り、君は永遠の蝶になる。……さあ、1歩前に踏み出すだけだ』
完全な洗脳状態だ。長期にわたる恐怖と脅迫によって、少女の精神はすでに正常な判断力を失っている。
「……見えた! あのビルだ!」
グレタが叫ぶ。
湾岸エリアにそびえ立つ、ガラスの入っていない鉄骨剥き出しの廃ビル。その屋上の端に、小さな点のような人影が見える。
「グレタ、入口を突破します!」
「任せろ!」
グレタはブレーキを踏まず、ビルの周囲を囲んでいた有刺鉄線のフェンスにSUVごと体当たりして強行突破した。
車が停まるか停まらないかのうちに、佐藤とグレタはドアを蹴り開けて飛び出す。
「エレベーターは動いていない! 階段で行くぞ!」
30階建ての廃ビルの階段を、二人は鬼気迫る表情で駆け上がっていく。
元特殊部隊員のグレタの体力は桁外れだが、佐藤もまた、日々の異常なまでの鍛錬によって彼女に全く遅れを取らない。肺が焼け焦げるような感覚を無視し、二人はただひたすらに上を目指した。
『さあ、時間だ。……カウントダウンを始めよう。5、4……』
佐藤のインカムから、カロンの死の宣告が聞こえてくる。
30階。屋上への鉄扉。
ガンッ!!
グレタが全力の前蹴りで、錆び付いた鉄扉を蹴り破った。
初夏の強風が吹き抜ける屋上。
フェンスの外側で、泣きながら身を乗り出そうとしている少女の背中があった。
「やめなさい!!」
佐藤の腹底から絞り出したような一喝が、強風を切り裂いて屋上に響き渡った。
「えっ……?」
少女が驚いて振り返ろうとした。
だが、そのわずかな動作が、フェンスの縁の不安定な足場で致命的なバランス崩壊を引き起こす。
少女の足が滑り、体が宙へと投げ出された。
「ああっ!」
少女の悲鳴。
その瞬間、グレタ・ヴァイスの体が、弾かれたように前へと飛んだ。
彼女は迷うことなく、自分自身の身の危険も顧みず、高いフェンスを人間離れした跳躍力で飛び越えた。
空中で身を捻りながら、フェンスの支柱に片腕を回して自身の体を固定し、もう片方の腕を、真っ逆さまに落ちていく少女に向かって全力で伸ばす。
ガシッ!!
「……っ!!」
関節が外れるほどの強烈な衝撃が、グレタの右腕と肩を襲った。
30階の高さ、遥か下には冷たいコンクリートの地面。
グレタは、宙吊りになった少女の左腕の袖口――皮肉にも、青い蝶のタトゥーが描かれたその腕を、間一髪でギリギリのところで掴み留めていた。
「グ……ゥゥゥッ……!」
グレタの太い腕の筋肉が異常に隆起し、フェンスの鉄骨がギシギシと悲鳴を上げる。
「グレタ!」
フェンスに駆け寄った佐藤が、隙間から手を伸ばし、少女のもう片方の腕を力強く掴み上げた。
二人の大人の全力の引き上げによって、少女の体はゆっくりとフェンスの内側へと引き戻され、安全なコンクリートの床へと崩れ落ちた。
「ハァ……ハァ……バカ野郎が」
グレタが荒い息を吐きながら、少女を睨み下ろす。
「お前のたった1つの命は、こんなクソみたいなゲームの、安い駒なんかじゃないんだよ……!」
「うわあああぁぁん……っ!!」
死の恐怖から解放された少女は、コンクリートに額を擦り付けながら、子供のように大声で泣き叫んだ。
その時だった。
『……邪魔者が入ったか』
少女が落としたスマートフォンのスピーカーから、カロンの合成音声が響いた。
『だが、遅かったな。ライブ配信の視聴者は、すでに少女が落ちる瞬間の絶望を楽しんだ。……私のゲームは、終わらない』
佐藤はスマホを拾い上げ、カメラのレンズを真っ直ぐに睨みつけた。
「いいえ。あなたのゲームは、ここまでです」
佐藤の声は、絶対零度よりも冷たかった。
「あなたの大容量のライブ配信の接続経路……我々のハッカーが、その太い通信線から、あなたの『真のホストサーバー』の座標を完全に逆探知しましたよ、カロン」
佐藤はインカムに触れた。
「襟華君! ホストの座標は!?」
『……社長! ごめん!』
インカムの向こうから、襟華のひどく焦った、悔しそうな声が聞こえてきた。
『確かに通信元を特定したの! 新宿の地下にあるレンタルサーバー室! 今度こそ真のホストだと思って、物理アクセス権限をぶっこ抜いてカメラを起動したんだけど……また誰もいない! それどころか、私たちがアクセスした瞬間にマザーボードの自爆用発火装置が起動して、サーバーごと燃え尽きちゃった!』
「……なんだと?」
佐藤が強く舌打ちをする。
カロンは、大容量のライブ配信を行うための『太い回線』のサーバーすらも、単なる「使い捨てのダミー」として扱っていたのだ。
自身に危険が迫った瞬間、遠隔操作で物理的に証拠隠滅を図る、異常なまでの用心深さと狡猾な手口。
『アハハハハハ……!!』
スマホから、カロンの嘲笑うような合成音声が響く。
『残念だったね、自称・正義の味方さん。……私の足取りは、誰にも掴めない。私は闇そのものだ。青い蝶は、まだまだ飛び続けるよ』
プツン、という電子音と共に、カロンとの通信が完全に切断された。
初夏の強い風が、廃ビルの屋上を吹き抜けていく。
泣きじゃくる少女の肩をグレタが不器用な手つきで撫でる中、佐藤任三郎は、沈黙したスマートフォンを固く握りしめた。
カロンの正体と、本当の居場所は、またしても掴めなかった。
奴は間違いなく、今までのどのターゲットよりもデジタルに精通し、そして純粋な悪意を持った冷酷な捕食者だ。
「……姿なき殺人鬼よ」
佐藤は、遠く霞む東京の街並みを見下ろしながら、静かに、しかし絶対的な決意を込めて呟いた。
「どれだけ深い闇の底に逃げ込もうとも……必ず、あなたのその喉元に喰らいつく」
1人の少女の命は救った。だが、メメント・モリの呪いはまだ解けていない。
処刑人たちの反撃の炎は、静かに、そして激しく燃え上がっていた。




