第53話 最初の試練
カロンとの接触を果たした翌日の、早朝。
オメガ・リスクマネジメントの広大なペントハウスは、まだ夜の静寂と薄暗い空気に包まれていた。
リビングの隅にあるゲーミングデスクのモニターだけが、青白い光を放っている。
「……ふぁぁ」
ダミーアカウント「ユキ」の端末に仕込まれたアプリの通信経路を解析するため、徹夜でキーボードを叩き続けていた田中襟華は、限界を迎えて大きな欠伸をした。
17歳という若さの体力をもってしても、神経を極限まで尖らせるダークウェブでのトラッキング作業は、確実な疲労を蓄積させていた。
「襟華君。解析プログラムは自動巡回ツールに切り替えました。……カロンが予告した『今夜』まで、まだ時間はあります。仮眠を取ってください」
背後に音もなく現れた佐藤任三郎が、マグカップをデスクに置いた。
立ち上るのは、カモミールと新鮮なレモングラス、そして微かな蜂蜜の甘い香り。自律神経を鎮め、深い眠りへと誘導するための特製ハーブティーだ。
「ん……わかった。社長、あとはお願い」
襟華は温かいハーブティーを飲み干すと、フラフラと立ち上がり、自室のベッドルームへと向かった。
着替える気力もなく、スウェットのまま柔らかい羽毛布団に潜り込む。シーツの冷たい感触が心地よい。
目を閉じて数分後。
トン、とベッドの足元に軽い衝撃があった。
「……クルルッ」
短い、甘えるような鳴き声と共に、布団の上を小さな足跡が歩いてくる。黒猫のダシだ。
ダシは襟華の顔の横までやってくると、冷たいピンク色の鼻先を彼女の頬にツンと押し付けた。そして、襟華がわずかに持ち上げた布団の隙間から、するりと内部へと潜り込んでくる。
「……ダシ、おいで」
襟華が寝ぼけ眼で腕を伸ばすと、ダシは慣れた様子で彼女の腕枕に頭を乗せ、クルンと丸くなった。
柔らかな漆黒の被毛が襟華の腕に触れ、温かなピンク色の肉球が彼女の胸元にピタリと添えられる。
ゴロゴロゴロゴロ……。
モーターのような低い喉鳴らしの音が、静かな布団の中に響く。
ダシの体温は人間よりも少しだけ高く、まるで生きている小さな湯たんぽのようだ。その規則正しい寝息と、命の確かな温もりが、襟華のすり減った神経を優しく解きほぐしていく。
ネットの深い闇に潜む悪意に当てられ、ささくれ立っていた心が、ゆっくりと平穏な色を取り戻していくのを感じる。
「……おやすみ、ダシ」
襟華はダシの丸い背中に顔をうずめ、深い眠りへと落ちていった。
同日の午後。
都内有数の進学校である私立・清林女子学園の、静かなカウンセリングルーム。
春の穏やかな日差しが差し込むその部屋で、渡辺千尋は白のシルクブラウスに淡いグレーのタイトスカートという、上品で知的な装いを身に纏っていた。
伊達メガネの奥の瞳は、普段の妖艶な処刑人のそれではなく、親身になって相手の話を聞く「完璧なカウンセラー」の慈愛に満ちている。
彼女がこの学校に「新任のスクールカウンセラー・渡辺」として赴任したのは、数日前のことだ。
事件の調査開始直後、過去の被害者がこの学園の生徒であったことを重く見た吉田彩が、弁護士としてのコネクションと偽造書類をフル活用し、強引に千尋の籍をねじ込んだのである。
赴任してからの数日間、千尋は元公安の協力者としての圧倒的な心理掌握術を駆使し、保健室登校の生徒や悩みを抱える少女たちの「駆け込み寺」としての土壌を、完璧に作り上げていた。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「どうぞ。入って」
千尋が優しく声をかけると、ドアが開き、一人の女子生徒が入ってきた。
「……失礼します」
高校二年生の、真面目そうな生徒だった。だが、その顔色は酷く青白く、目の下には濃いクマができている。そして何より千尋の目を引いたのは、彼女の左手首に巻かれた不自然な太さのリストバンドだった。春の陽気には、明らかにそぐわない。
「よく来てくれたわね。……麻衣さんだったかしら」
千尋はソファを勧め、温かいハーブティーをカップに注いだ。
「……はい」
麻衣は落ち着かない様子で、自分の左手首を右手で隠すようにして座った。彼女は昨日から、廊下で千尋の部屋の様子を何度も伺っていた、ターゲットの一人だ。
「最近、眠れていないんじゃない? すごく疲れているように見えるわ」
千尋の声音は、相手の警戒心を徹底的に解きほぐす、特殊な周波数を持っていた。
「……別に。普通です」
麻衣は視線を逸らす。
「そう。……ねえ麻衣さん。この部屋で話したことは、先生たちにも、ご両親にも、絶対に秘密にするって約束するわ。私はあなたの味方よ」
千尋はハーブティーのカップを麻衣の前に置き、ゆっくりとその隣に座った。
そして、麻衣の右手――手首を隠しているその手に、そっと自分の手を重ねた。
「ビクッ!」
と麻衣が体を震わせる。
「……一人で抱え込まなくていいのよ。その腕に刻まれた『青い蝶』の重さは、あなたが一人で背負うものじゃないわ」
「っ……!!」
麻衣の瞳が、極限の恐怖に見開かれた。
「な、なんで……先生、なんでそれを……!」
「私は、あなたと同じように苦しんでいる子たちを、専門家として何人も見てきたからよ」
千尋の目は、嘘偽りのない真剣な光を放っていた。
「ゲームマスターから、毎日タスクが送られてくるんでしょう? 逆らえば、秘密をばらまくと脅されている。……違うかしら?」
麻衣の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
数日間の徹底した孤立と恐怖に耐え続けてきた彼女の精神が、決壊した瞬間だった。
彼女は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き始めた。
「怖かった……! 最初は、ただのちょっとした度胸試しのつもりだったのに……どんどんエスカレートして……! 私の恥ずかしい写真を送れって言われて……断ったら、家族の住所も、学校の裏サイトも全部知ってるって……!」
千尋は麻衣の肩を抱き寄せ、その震える背中を優しく撫でた。
「もう大丈夫。……あなたは今日、ここに来るという最大の勇気を出したわ。それだけで、ゲームマスターの呪縛は半分以上解けているのよ」
千尋は麻衣を落ち着かせると、冷徹なプロの顔を奥底に隠したまま、静かに質問を重ねた。
「麻衣さん。……彼からの、次のタスクの指示は来ているの?」
麻衣は震える声で答えた。
「……今日の夜、連絡が来るって。……『今夜は、学校の屋上のフェンスの外に立つ準備をしておけ』って、昨日の夜に言われました。……私、高所恐怖症なのに……もし落ちたらどうしようって……」
(……ビンゴね)
千尋の頭の中で、全てのピースが繋がった。
カロンは「ユキ」に予告したのと同じタイミングで、現実の生徒たちにも危険なタスクの事前予告を与え、恐怖心を煽っていたのだ。
「麻衣さん。そのタスク、絶対にやってはダメよ。夜の学校には近づかないで」
千尋は麻衣の目を見つめた。
「脅迫の件は、私が信頼できる『専門チーム』と一緒に必ず解決する。だから、今夜はスマホの電源を切って、お母さんのそばでゆっくり眠りなさい」
「……でも、写真がばらまかれたら……」
「大丈夫。彼らの手口は、あなたを孤立させることが最大の目的よ。私たちが強固な防壁になれば、彼らの脅迫は無意味になるわ」
千尋の絶対的な自信に満ちた言葉に、麻衣は少しだけ表情を和らげ、深く頷いた。
そして、夜の11時。
オメガ・リスクマネジメントのペントハウス。
『……というわけで、現実の生徒のケアは上手くいったわ。カロンは同じタスクを、複数のターゲットに同時進行で課しているみたいね』
インカム越しに聞こえる千尋からの報告に、佐藤はコーヒーカップを傾けながら頷いた。
「ご苦労様です、千尋さん。……見事な心理防壁でした。引き続き、生徒たちの保護をお願いします」
通信を切ると同時だった。
リビングのモニターに、ダークウェブ経由で接続されたSNSの通知音が鳴り響いた。
カロンからのダイレクトメッセージだ。
「……来ましたね。予告通りの時間に」
仮眠を取ってスッキリとした顔の襟華が、エンターキーを叩いてメッセージを開く。
黒い背景に、血のような赤い文字でメッセージが表示されている。
『Task 1:夜の学校に侵入し、屋上のフェンスの外側に立て。そこで青い蝶のタトゥーを見せて自撮り写真を送れ。期限は今夜の午前2時。失敗すれば、ゲームは終了となり、罰が与えられる』
「……いきなりハードルが高いわね」
淹れたてのコーヒーを飲んでいた吉田彩が、不快そうに眉をひそめた。
「不法侵入に加えて、一歩間違えれば転落死する危険な行為。これを最初のタスクに持ってくることで、参加者の恐怖心と服従度を一気にテストしているのね」
「当然、本当に行く必要はありません。……物理的な行動は、デジタルの力で上書きします」
佐藤は手元のキーボードを叩き始めた。
「襟華君、『ユキ』の通っている設定の高校の、図面データと周辺のストリートビューは取得済みですね?」
「うん。Google Earthのデータと、学校の公式サイトのパノラマ写真から、3D空間モデルを構築してあるよ」
「完璧です。では、あなたのモーションキャプチャーデータと、架空の女子高生『ユキ』の3Dアバターを合成します。……背景は深夜2時の光量と星の配置に合わせてレンダリングし、暗所特有のISO感度のノイズと、微細な手ブレを意図的に加えます」
佐藤の指が流れるように動き、わずか数十分後には、一枚の不気味な写真が生成された。
深夜の学校の屋上。錆びたフェンスの外側、わずか数十センチのコンクリートの縁に立つ、制服姿の少女の足元。その左腕には、青い蝶のマークが鮮明に描かれている。
高度なAI技術と佐藤の職人芸が融合した、プロの鑑識でも見破れない「完璧なフェイク画像」だ。
「これを、指定の時刻にカロンへ送信します」
佐藤は送信のタイマーをセットした。
時計の針が、午前2時を指した。
自動で送信プログラムが起動し、深夜の学校の屋上で撮影された「フェイク画像」が、ダークウェブの彼方にいるカロンへと送られた。
静寂。
数分の沈黙の後、カロンから返信のメッセージがポップアップした。
『Task 1、クリア確認。……素晴らしい勇気だ、ユキ。君の青い蝶は、闇の中で美しく輝いている』
襟華が顔をしかめる。
「……気持ち悪いポエム」
『明日の夜、Task 2を送る。……本当の恐怖は、これからだ。逃げ出すことは許されない。君の命は、すでに私の手の中にあるのだから』
「……いいでしょう」
佐藤はモニターの向こう側にいる、姿なきゲームマスターに向かって冷たく呟いた。
「ゲームの主導権を握っていると思っているのは、今のうちだけです。……我々があなたのシステムを掌握するまで、せいぜいその陳腐な神様気取りを楽しんでいなさい」
最初の試練を突破した処刑人たちは、さらに深く、悪意のゲームの深淵へと足を踏み入れていく。




