第52話 青い蝶のタトゥー
東京湾の広大な海面が、春の穏やかな日差しを反射してキラキラと無数の宝石のように輝いている。
タワーマンションの最上階にあるオメガ・リスクマネジメントの広々としたオフィスでは、朝の心地よい静寂をぶち破るような、凄まじい咀嚼音が響き渡っていた。
「ハグッ、ハグハグハグハグッ!!」
声の主は、黒猫のダシである。
彼が顔を突っ込んでいる専用の高級な陶器皿の中には、いつものプレミアム・ドライフードに加え、佐藤任三郎がひと手間かけた『特製トッピング』が乗せられていた。
北海道産の新鮮なホタテの貝柱をサッと湯引きして細かくほぐし、そこにカツオの風味が豊かに香る極上の出汁をひたひたにかけたスペシャル・メニューだ。
海の幸の強烈な香りに、ダシは完全に理性を失っていた。
一心不乱。周囲の床にスープが派手に飛び散るのも全く意に介さず、小さなピンク色の舌をフル回転させて、猛烈な勢いで皿の中身を掃除機のように吸い込んでいる。
飲むリズムに合わせて、ピンと立った真っ黒な尻尾がブルブルと歓喜に震え、頭の両側の耳がピクピクと忙しなく動いている。
「ケホッ、ケホッケホッ!」
あまりにも夢中で息継ぎすら忘れたらしく、ダシは派手にむせて咳き込んだ。
「……だから、誰も取りませんから、ゆっくり食べなさいと言っているでしょう」
佐藤は呆れたように深いため息をつきながら、床にしゃがみ込んだ。
そして、むせながらもまだ皿から顔を離そうとしないダシの滑らかな背中を、手のひらで優しく撫でてやる。
ダシは佐藤の手の感触に反応して、前足を「パー」に開いて床を踏ん張り、再び「ハグハグ」と食事を再開した。その丸っこい後頭部からは、幸せオーラが目に見えるほどに溢れ出している。
「……平和な光景ね。外の世界のドロドロした悪意が嘘みたいだわ」
ソファで淹れたてのコーヒーを飲んでいた渡辺千尋が、その様子を見てクスリと笑った。
「ええ。ですが、我々の仕事はその『悪意』を掃除することです」
佐藤はダシが皿を舐め回してピカピカに完食したのを見届けると、立ち上がり、手を洗ってからリビングの大型モニターの前へと向かった。
モニターには、昨日、吉田彩が持ち込んできた連続飛び降り自殺事件――SNSの自殺教唆ゲーム『メメント・モリ』の資料が映し出されている。
「……彩さん。昨日あなたが持ち込んだ三人目の被害者のスマホデータ、そこから得られた手がかりを元に、昨夜のうちに警視庁のサーバーと行政解剖の記録に『お邪魔』して、残り二人の被害者のデータも引っ張ってきました」
佐藤の言葉に、ダイニングテーブルでパソコンを開いていた彩が顔を上げた。
「相変わらず、息をするようにハッキングするわね。……それで、何か分かったの?」
「ええ。三人全員に共通する、奇妙な痕跡が見つかりました」
佐藤がキーボードを叩くと、モニターの画面が切り替わった。
そこに並べて表示されたのは、警察の検視記録から引き抜いた三人の女子高生の遺体の一部、あるいは生前に彼女たちが裏アカウントに投稿していた写真だった。
それは、彼女たちの太ももや二の腕のアップ写真だ。
青白い肌の上に、青いインクで生々しく描かれた『蝶』のマークがはっきりと確認できる。
「青い蝶……」
彩が眉をひそめる。
「ええ。問題のアプリのアイコンと同じデザインです。……ただのタトゥーシールやボディペイントではありません。よく見てください」
佐藤が画像を限界まで拡大する。
青い蝶のマークの周囲の肌が、赤く腫れ上がり、細かなカッターの傷跡で縁取られているのが生々しくわかる。
「……ゲームマスターからの『タスク』よ」
背後から画面を覗き込んだ小林弥生が、顔をしかめて吐き捨てるように言った。
「自分で自分の肌を傷つけて、その血と痛みに上書きするように、この青い蝶を描かせる。……カルトの通過儀礼と同じね。痛みと恐怖を共有させることで、洗脳を深めているのよ」
「問題は、傷そのものよりも、この『写真』の使われ方です」
佐藤は冷徹な声で説明を続ける。
「カロン――ゲームマスターは、この『青い蝶』のタトゥーを描いた状態で、参加者に極めて屈辱的な、あるいは性的な写真を撮らせて送信させていました」
「……脅迫材料ね」
千尋の目が鋭く細められた。
「その通りです」
佐藤が重く頷く。
「『途中でゲームを降りたら、あるいは誰かにこのゲームのことを話したら、お前のこの写真を、学校の裏掲示板やSNSの全フォロワーに向けて一斉送信する』。……そう脅していたのです」
一度ネットの海に放たれた画像は、完全に消し去ることは不可能だ。永遠に残り続け、その人間の人生を呪いのように縛り付ける。
「まさに『デジタルタトゥー』ね……」
彩が怒りで拳を強く握りしめた。
「物理的な傷はいつか治るかもしれない。でも、ネット上に刻まれた恥辱のタトゥーは一生消えない。……10代の女の子にとって、それは『死』よりも恐ろしい脅迫よ。逃げ場を完全に塞いでから、飛び降りを指示したのね」
「人の絶望をゲームの駒にするなんて、絶対に許せない。マジで反吐が出る」
リビングの隅にあるゲーミングデスクで、田中襟華がキーボードを叩きながら低く唸った。
「準備はできていますか、襟華君」
佐藤が声をかける。
「完璧だよ。……昨日の夜から、私がこの『メメント・モリ』の地獄にログインするための入り口を作ってたんだから」
襟華の目の前には、三台のモニターが並んでいる。
中央の画面には、昨夜から彼女が徹夜で構築し続けていた、架空の女子高生「ユキ」のSNSアカウントが表示されていた。
「潜入用のダミーアカウントね。……設定は?」
千尋が襟華の後ろに立ち、画面を覗き込む。
「都内の進学校に通う、高校二年生。親は教育熱心で過干渉。学校ではグループ内のカースト下位で、空気を読むのに疲れ切ってる。……誰にも本音を言えなくて、夜な夜なこのアカウントにだけ、ドス黒い感情を吐き出してる」
襟華が画面をスクロールすると、そこには数ヶ月分にも及ぶ「ユキ」の呟きがズラリと並んでいた。
最新の生成AIとスクレイピング技術を駆使し、実在する病み垢の傾向を徹底的に分析して自動生成した、極めてリアルで生々しいログだ。
『今日も息してるだけで疲れた』
『親の期待が重い。私なんていなくなればいいのに』
『誰か、私をここから連れ出して。どこか遠くへ』
「……リアルね。でも、もう少し『承認欲求』の匂いをさせた方がいいわ」
千尋が元公安の協力者としての、心理操作のプロの視点から的確なアドバイスを送る。
「ただ絶望してるだけの子は、ゲームマスターから見れば扱いにくいわ。……『死にたい』と言いながらも、『誰かに特別な存在だと思われたい』『悲劇のヒロインになりたい』というフックを作っておきなさい。それが、奴らを強烈に惹きつける撒き餌になる」
「了解。……リストカットを匂わせる画像と一緒に、『私を見つけて』っていうハッシュタグ付きのポエムを投下する」
襟華の指が、キーボードの上で流れるように踊る。
「IPアドレスとMACアドレスの偽装は?」
佐藤が尋ねる。
「Torブラウザ経由で、海外のプロキシサーバーを六つも経由させてる。万が一逆探知されても、行き着くのはロシアのどこかの廃サーバーだよ」
襟華は自信満々に親指を立てた。
「よし。……では、撒き餌を撒きましょう。被害者たちが接触に使っていた特定のハッシュタグを使います」
襟華は深呼吸をし、最後の投稿ボタンを力強くクリックした。
『#メメントモリ #お迎え待ち #青い蝶 ……もう、全部終わらせたい。誰か、本当の自由を教えて』
投稿が完了した。
あとは、暗く冷たいネットの深海で、得体の知れない獲物が針に食いつくのを待つだけだ。
それから、三日が経過した。
その間、襟華は「ユキ」として、一日数回の頻度で病んだ投稿を続け、ダミーの自傷画像をアップロードしては消すという、不安定な精神状態を完璧に演じ続けていた。
夜の十一時。
オフィスの照明を落とし、襟華がモニターの光だけで作業をしていた時のことだ。
ピコン。
静かな室内に、SNSのダイレクトメッセージ(DM)の受信音が鳴り響いた。
「……来た!」
襟華が小さく叫ぶ。
ソファで仮眠を取っていた佐藤と、書類を読んでいた彩が即座に駆け寄る。
画面の右下にポップアップしたDM。
送り主のアカウント名は『Charon』。
アイコンは、ギリシャ神話で死者の魂を乗せて三途の川を渡るという、黒いマントを被った渡し守の不気味な絵画だった。
「カロン……。被害者たちの端末に残っていた、アプリの管理者と同じ名前よ」
彩が息を呑む。
「メッセージを開きます。……リンクを踏ませてマルウェアを仕込んでくる可能性があるので、サンドボックス上で展開します」
佐藤の指示に従い、襟華が慎重にメッセージを開封した。
そこには、短い一行だけのテキストが書かれていた。
『君も、蝶になりたいの?』
背筋が寒くなるような、不気味で静かな問いかけ。
「……どう返す?」
襟華が千尋を見る。
「すぐに食いついちゃダメ。少し警戒しつつ、でも縋り付くような弱さを見せて」
襟華は数分の沈黙を置いてから、キーボードを叩いた。
『あなたは誰? ……私を、自由にしてくれるの?』
数十秒後、カロンから返信が来た。
そこには、アプリのダウンロードリンクと思われるURLと、一つの指示が記されていた。
『50日後、君は本当の自由を得る。そのためのゲームに招待しよう。……誓約の証として、自分の左腕に青いペイントで蝶を描き、その写真を送れ』
「いきなりタスクを出してきたわね」
彩が画面を睨む。
「相手も手探りなのです。我々が本当に従順な『獲物』かどうか、最初の踏み絵で試している」
佐藤は襟華の肩に手を置いた。
「襟華君、用意してある青い蝶の合成画像を送信してください。……同時に、パケットの通信経路から、相手のホストサーバーの逆探知を開始します」
「了解。……トラッキング・プログラム、起動」
襟華が合成画像を送信すると同時に、バックグラウンドで走らせていた佐藤特製の追跡プログラムが、カロンのメッセージの送信元IPアドレスを猛烈な勢いで辿り始めた。
画面上に、地球儀のワイヤーフレームが表示され、赤いラインが世界中のサーバーを飛び回る。
シンガポール、ブラジル、スウェーデン……。
敵も何重にもプロキシを経由して、執拗に身元を隠している。
「……逃足が速いね。次々とルーターを乗り換えてる」
襟華が舌打ちする。
「慌てないで。尻尾は必ず掴めます。……カロンからの返信は?」
襟華がDMの画面に戻る。
カロンから、新たなメッセージが届いていた。
『美しい蝶だ。……歓迎しよう、ユキ。これより君は、メメント・モリの参加者だ。明日の夜、最初のタスクをアプリ経由で送る。……途中で逃げることは許されない。君の全ては、私が掌握した』
「掌握した、か。……笑わせるわね」
彩が冷笑した。
その時、トラッキング・プログラムのアラートが甲高く鳴った。
赤いラインが、最終的に一つの地点を特定し、激しく点滅している。
「……社長。最終ノード、割り出しました」
襟華がエンターキーを叩き、座標を拡大する。
「海外のダークウェブのサーバーかと思いきや……意外と近所だよ」
画面に表示されたのは、東京都内。
それも、高級住宅街として知られる『渋谷区松濤』の一角だった。
「……灯台下暗し、ですか」
佐藤の目が、獲物を捉えた鷹のように鋭く光る。
「姿なき殺人鬼の居場所は割れました。……カロン。あなたに三途の川を渡るチケットを渡すのは、我々の役目です」
青い蝶の呪縛を断ち切るため、処刑人たちの反撃が静かに、そして確実に幕を開けた。




