第51話 平和な朝と新たな毒
氷室レイが逮捕され、巨大な監視システム「パノプティコン」が完全に崩壊してから、約十ヶ月の歳月が流れていた。
季節は巡り、長く冷たい冬を越えた東京の街は、桜の蕾をほころばせる柔らかな春の陽光に包まれている。
東京湾とビル群のスカイラインを一望できる、都心の一等地にあるタワーマンションの最上階。
『オメガ・リスクマネジメント』の新たな拠点であるこの広大で清潔な空間には、朝から香ばしいバターと燻製の匂いが漂っていた。
「……火加減と、乳化のタイミングがすべてです」
アイランドキッチンに立つ佐藤任三郎は、まるで精密な化学実験を行う研究者のように静かに呟きながら、ステンレスのボウルを湯煎にかけていた。
彼が作っているのは、朝食の王様とも言える極上の『オランデーズソース』だ。
澄ましバターを糸のように少しずつ垂らし加えながら、新鮮な卵黄、搾りたてのレモン果汁、そして微量の白ワインビネガーをホイッパーでひたすらに撹拌していく。油と水分を分離させず、空気をたっぷりと含ませてぽってりとした滑らかな状態を作り出すのは、秒単位のシビアな温度管理が要求される職人技だ。仕上げにカイエンペッパーで微かな刺激を加え、ソースを保温しておく。
隣のコンロでは、大鍋にたっぷりの湯が沸かされている。佐藤はそこに白ワインビネガーを大さじ一杯加え、菜箸でぐるぐると円を描いて完璧な水流の渦を作った。
その渦の中心に、あらかじめ小さな器に割っておいた新鮮な卵を静かに滑り込ませる。遠心力によって白身が黄身を美しく包み込み、完璧な楕円形のポーチドエッグへと姿を変えつつあった。
さらに別のフライパンでは、佐藤が桜のチップで一週間かけて燻製にした自家製の極厚スモークベーコンが、自らの脂でカリカリに焼き上げられている。
軽くトーストした全粒粉のイングリッシュマフィンの上に、そのベーコンを乗せ、湯切りをしたばかりのぷるゆると震えるポーチドエッグを慎重に鎮座させる。
最後に、温かく黄金色に輝くオランデーズソースを、滝のようにたっぷりと回しかけた。
「エッグベネディクトの完成です」
黄金色のソースが、白い卵の柔らかな曲線を伝って皿へとこぼれ落ちる。視覚的にも暴力的なほどの食欲をそそる一品だ。
「……んぁー、いい匂い。お腹空いた」
寝癖のついた髪を無造作に手で梳きながらリビングに現れたのは、この春から高校三年生に進級した田中襟華だった。彼女は春休み特有の気怠さを全身に引きずりながら、フラフラと歩いてきてダイニングテーブルの椅子に深々と座り込んだ。
「おはようございます、襟華君。ナイフを入れる時は慎重に。黄身の流出速度まで計算してありますから」
「わかってるってば。朝から細かいなぁ」
襟華がナイフを入れた瞬間、薄い白身の膜が破れ、ポーチドエッグの中から濃厚なオレンジ色の黄身がとろりと溢れ出した。それが酸味の効いたオランデーズソース、そしてベーコンの脂と皿の上で複雑に絡み合う。
「……うまっ! 何これ、ベーコンの塩気と卵のまろやかさが最高! 朝からこんなの食べてたら、絶対太るんだけど……でも手が止まんない!」
文句を言いながらも、彼女のフォークの動きは全く止まる気配がない。
佐藤の足元では、「ニャァァン!」と自己主張の強い、甲高い鳴き声が響いた。
黒猫のダシだ。
保護された当初の、両手に収まるほど儚げな毛玉だった面影はとうに薄れ、今やしなやかな筋肉と艶やかな黒い被毛を持つ、立派な若猫へと成長していた。完全にカリカリ期へと移行した彼は、佐藤のズボンの裾にスリスリと体を力強く擦り付け、長い尻尾をピンと立てて自分の朝食を催促している。
「わかっていますよ、ダシ君。あなたの今日のメニューは、グレインフリーの高級サーモン味、オーガニックチキン添えです」
佐藤が専用の陶器の浅皿にドライフードを注ぎ入れると、ダシは喉をゴロゴロと鳴らしながら、小気味良い音を立てて猛烈な勢いで食べ始めた。
平和な朝。
氷室レイという巨大なシステムを打ち倒し、莫大な活動資金を得た彼らの日常は、かつてないほどの穏やかさと豊かさに満ちていた。
しかし、佐藤任三郎という男がこの世界に生きている限り、この平穏が永遠に続くことはない。承認欲求や金銭欲に塗れた悪意は常に、形を変えて社会の暗がりに這い寄ってくるからだ。
その日の午後。
オフィスの重厚なエントランスドアが開き、吉田彩が険しい顔つきで入ってきた。
彼女は法曹界への華麗な復帰を果たし、現在は「弱者を守る正義の弁護士」としてメディアや講演会でも引っ張りだこの存在だ。しかし今の彼女は、テレビのコメンテーターとして見せるような自信に満ちた余裕の笑みを、一切浮かべていなかった。
「……酷く嫌な案件が持ち込まれたわ」
彩はソファに重々しく腰を下ろすなり、分厚いファイルをローテーブルに放り投げた。
リビングで各々の作業をしていたチームの面々――ファッション誌を読んでいた渡辺千尋、部品のカタログを見ていた佐々木紘子、銃の手入れをしていたグレタ・ヴァイス、そしてダシを撫でていた小林弥生が、彩の只事ではない雰囲気を察して自然と集まってくる。
「どうしました、彩さん。随分と顔色が悪いですが」
佐藤がキッチンから、常温のミネラルウォーターをグラスに注いで持ってくる。
「……女子高生よ」
彩は水を一口だけ飲み、疲れたように眉間を強く揉んだ。
「この一ヶ月で、都内の女子高生が三人、連続して飛び降り自殺を図ったわ。全員、住んでいる地域も別々の学校で、互いに接点は全くない。一見すると、新学期特有の環境の変化によるストレスや、学校内でのいじめを苦にした普通の自殺に見える。警察もそう処理しようとしているわ」
「でも、違うのね?
」千尋が鋭い視線を向けて尋ねる。
「ええ。三人目の被害者の母親が、藁にもすがる思いで私の事務所に相談に来たの。……娘の残したスマートフォンをパスコードを解除して調べてみたら、奇妙なアプリが見つかったって」
彩はタブレットを開き、画面をリビングの大型モニターに映し出した。
そこには、漆黒の背景に、薄気味悪い白い髑髏と、その周りを飛ぶ青い蝶がデザインされた、見る者の不安を煽るアプリアイコンが表示されていた。
アプリの名前は、『メメント・モリ』。
「メメント・モリ……ラテン語で『死を想え』ですか」
佐藤の目が細められる。
「女子中高生の間で、SNSの裏垢やダークウェブの掲示板を経由して密かに流行している『ゲーム』よ」
彩が重い口調で説明を続ける。
「内容は単純。アプリの管理者から、参加者に毎日一つずつ『タスク』が送られてくる。最初は『夜中に家を抜け出して公園の写真を撮る』とか、『一日中誰とも口を利かない』『指定されたホラー映画を見る』といった、ちょっとした非日常を味わうだけの他愛のないもの。でも、クリアするごとにタスクの異常性はエスカレートしていく」
「……『腕をカッターで傷つける』『家族の大切なものを壊す』、とか?」
人間の精神の脆さを知る弥生が、顔をしかめて言った。
「その通りよ。五十日間にわたって、参加者の精神を少しずつ、しかし確実に削り、周囲の人間から孤立させ、管理者への完全な依存と服従を植え付ける。……そして、五十日目の最後のタスクが」
彩は言葉を区切り、ドス黒い怒りを込めて告げた。
「『高いところから飛び降りて、死ね』。……海外でかつて社会問題になった『青い鯨』という自殺教唆ゲームと全く同じ手口よ。管理者は参加者がタスクをこなす過程で、個人情報や弱み、恥ずかしい写真などを握り、『途中でゲームをやめたら、これらを学校にばらまく。お前の家族を殺す』と脅迫して、完全な洗脳状態に置いているの」
室内の温度が、急激に数度下がったように感じられた。
それはもう、子供の悪ふざけの域を完全に超えている。純粋な悪意を持ち、他人の絶望と命を娯楽として消費する、姿なき殺人鬼の存在。
佐藤は無言のまま立ち上がり、キッチンへと向かった。
彼は巨大な冷蔵庫を開け、乳脂肪分47%の純生クリーム、低温殺菌牛乳、そして黄身の色の濃い奥久慈卵を取り出した。
「……社長?」
襟華が怪訝そうに呼ぶ。
「これからの作戦会議には、良質な脳の燃料が必要です。……少し冷たいものを作りましょう」
佐藤の声音は、極めて静かだった。だが、付き合いの長いメンバーには痛いほどよくわかる。彼が突如として手の込んだ料理に没頭し始める時、それは彼の中で抑えきれない「怒り」が臨界点に達している証拠なのだ。
佐藤はボウルに卵黄とグラニュー糖を入れ、白っぽくもったりとするまでホイッパーで執拗に擦り混ぜた。
そこに、マダガスカル産の最高級ブルボンバニラビーンズを縦に裂き、包丁の背でしごき出した無数の黒い種と、香りが残っている鞘ごと牛乳の鍋へ投入して火にかける。
ふわりと甘いバニラの香りが漂う。温めたバニラ風味の牛乳を卵黄のボウルに少しずつ注ぎ、よく混ぜてから再び鍋に戻す。
「……アングレーズソースを炊き上げます」
佐藤は木べらで鍋底を絶えず掻き混ぜながら、デジタル温度計の数値を凝視した。
温度が八十二度に達した瞬間、即座に火から下ろして氷水に当て、急冷する。これを一瞬でも怠れば、卵が凝固してボソボソのスクランブルエッグになってしまう。
完全に冷えた滑らかなソースに、七分立てにした生クリームを合わせ、専用のコンプレッサー内蔵アイスクリームフリーザーへと流し込んだ。
機械が低いうなり声を上げながら、ソースを急速に冷やしつつ、空気を抱き込ませてゆっくりと撹拌していく。
その間、佐藤はグラスの準備に取り掛かった。
極薄のクリスタルグラスに、製氷業者が三日かけて作った気泡の全くない純氷の「丸氷」を滑り込ませる。
取り出したのは、ドイツ・シュヴァルツヴァルト産のクラフトジン『モンキー47』。クランベリーやジュニパーベリーをはじめとする四十七種類ものボタニカルが複雑に絡み合う、香水のように芳醇で高価なジンだ。
ジンを氷に当てないようにグラスの側面に沿わせて静かに注ぎ、そこにイギリス製の『フィーバーツリー・プレミアム・トニックウォーター』をゆっくりと加える。
バースプーンをグラスの底まで差し込み、氷を一度だけ持ち上げるようにして、優しくステアする。繊細な炭酸のガスを絶対に飛ばさないためだ。
仕上げに、新鮮なライムの皮をグラスの縁でひねり、柑橘の清涼な香りの飛沫を表面に纏わせた。
「……完成です」
佐藤はダイニングテーブルに、出来立ての極上バニラアイスクリームと、水滴を纏った美しいジントニックを並べた。
「手作りアイスに、ジントニックのペアリング?」
千尋が興味深そうにグラスを手に取る。
「アイスクリームの濃厚な乳脂肪の甘みと、バニラの複雑な香気。それを、モンキー47の持つウッディでスパイシーなボタニカルの香りと、トニックウォーターのほろ苦い炭酸が完璧に受け止め、口の中をリセットしてくれます」
佐藤が促し、彩がアイスクリームを銀のスプーンで掬って口に含んだ。
「……っ! 何これ、信じられないくらい滑らか。舌の上で一瞬で溶けて、バニラの香りが鼻に抜けるわ」
すかさずジントニックを一口飲む。
「……美味しい。口の中の甘ったるさが一瞬で消えて、ハーブの香りが大人の余韻として残る。……ささくれ立っていた心が、スッと落ち着くわ」
メンバーたちがスイーツと極上のカクテルを味わう中、佐藤は自分のグラスには手をつけず、モニターに映る『メメント・モリ』の髑髏のアイコンを、絶対零度の冷たい目で見据えていた。
(……許せない)
佐藤の脳裏に、かつて自ら命を絶った妹・湊の無邪気だった笑顔がフラッシュバックしていた。
彼女もまた、SNSの虚飾と悪意に絡め取られ、誰にも助けを求められない孤独の中で追い詰められて、死を選んだ。
若く脆い精神を弄び、その絶望を娯楽として消費するような怪物を、佐藤任三郎という男が放置できるはずがなかった。
「……彩さん。被害者の使用していた端末と、アプリの解析データはありますね?」
「ええ。母親の同意を得て、データは全てコピーしてあるわ。……でも、相手はTorネットワークを経由して、海外のサーバーから指示を出しているみたい。IPアドレスの特定は容易じゃないわよ」
「構いません。相手がデジタル空間の深い闇に隠れているというのなら、その闇ごと引きずり出して白日の下に晒すまでです」
佐藤は振り返り、チームのメンバーを一人一人見渡した。
「この『メメント・モリ』のゲームマスターは、他人の命を安全な場所から弄ぶゲームの駒として消費しています。……ならば、我々が彼に教えてあげましょう。命を奪われる側の、本当の『死の恐怖』というものを」
襟華がアイスクリームの器をドンと置き、愛用のノートPCのキーボードに両手を乗せた。
「やってやるよ。……こんなクソみたいなゲーム、私がハッキングして根っこからめちゃくちゃにしてやる」
「私も、潜入用のダミーアカウントを作るわ。……悩める女子高生のフリくらい、息をするより簡単よ」
千尋が妖艶に、そして残酷に微笑む。
「相手が物理的な脅威を与えてくるなら、私が排除する。……いつでも出られるぞ」
グレタが太い指の関節をポキポキと鳴らした。
佐藤は静かに頷き、キッチンの布巾で手を拭いた。
彼の瞳には、かつて数々の巨悪と対峙した時と同じ、冷たく澄み切った処刑人の光が宿っていた。
「……仕事の時間です、皆さん」
佐藤任三郎は、モニターの髑髏アイコンを指差した。
「このふざけたゲームの管理者を特定し、社会というサーバーから完全に『削除』します」
平和な朝の終わり。
新たな毒を断罪するため、最強の八人チームの新しい処刑ログが、今、静かに開き始めた。




