編集長も大変ね
⚪︎日影映子視点
「それにしても、助手席側の窓が盛大に割れちゃいましたね……」
私は仰向けに寝たままの体勢で、ぼそっと呟く。
自分側の窓は、ガラスの破片が降りかかると危ないからとっさに全開にしたけれど、助手席側まではどうしても手が回らなかったのだ。ジョーさんの窓には矢が深く突き刺さり、見事にバキバキにひび割れていた。
「命拾いしただけで上出来としようぜ。ちくしょうが」
ジョーさんは、イラだったまま肘で窓ガラスの残骸を外側へ力任せに叩き割り、道路側へと破片を落とした。外は土砂降りだから、容赦なく吹き込む雨風でジョーさんはもうすっかりびしょ濡れだ。彼はやれやれといった様子で自分の上着の内ポケットを覗き込んだが、中に入れていた煙草まですっかり水浸しになっているのを見て、盛大な溜息をつく。
「おい映子! あいつの前に出れるか!」
「了解!」
ジョーさんの苛烈な銃撃を受けて怯んだのか、暴走していた朧車のスピードがわずかに落ちていた。
私はすかさずアクセルペダルを思い切り踏み込み、愛車を一気に加速させる。寝ながらの遠隔運転は楽だと思ったけれど、実は致命的な欠陥があった。なにせ私は身長が低いから、仰向けの体勢だとアクセルに足がギリギリ届くか届かないかで、すでに足の裏が激しく攣りそうになっているのだ! それでも限界までエンジンを唸らせ、私たちは一気に朧車の真横を追い抜き、前へと飛び出した。
「よくもうちの大切な社用の車をボコボコにしてくれたな! 零細出版社の恨み、たっぷりと味わえ!」
そう叫ぶと、ジョーさんは懐から取り出した特製の「聖水瓶」を、目の前に迫る朧車の気味の悪い顔面にめがけて思い切り投げつけた。
聖水瓶が直撃した瞬間、激しい白煙とともに、ぐしゃりとした悍ましい悲鳴が朧車の口から響き渡る。そのダメージがよほど大きかったのか、朧車のスピードはあから様にガクリと落ち、そのまま後方へと遠ざかっていく。
「打撃が効かないなら、これならどう!」
そこへ絶妙のタイミングで、小夜ちゃんが八咫烏の式神・クーちゃんに掴まったまま、スカートをひらりと翻して急降下してきた。彼女はクーちゃんに命じて鋭い羽の式神を何枚も突き刺す。たまらず朧車は派手にスピンしながらその場で急停車し、私たちの視界からみるみるうちに後方へと消えていった。
「ジョーさん、映子さん、大丈夫ですかっ!?」
小夜ちゃんが心配そうに私たちの運転席の窓と並走して、宙を舞いながら声をかけてくる。私はようやくシートを起こし、上体を起こした。あともう少し遅かったら、本当に足の筋肉が完全に攣って動けなくなるところだったわ。
「こっちはなんとか無事よ!」
「どこが大丈夫なもんか! 助手席の窓がこんなにバキバキに割れちまったんだぞ。今度の修理代がいったいどれくらいかかることやら……」
私の安堵の声を即座に否定し、ジョーさんは頭を抱えて頭痛をこらえ始める。私なんかは「無事に生き残れてよかったぁ」と心から思うのに、編集長ともなれば悩みは尽きない。相変わらず懐事情が大変みたいね。私と並走する小夜ちゃんは、その光景に思わず苦笑いを浮かべていた。
「油断大敵やで! もう一台、今度はもっとデカいのが後ろから猛スピードでこっちに来るで!」
その時、前方の屋根の上にしがみついていた琴ちゃんが、危機感を帯びた声で叫んだ。
慌ててバックミラーを確認すると、さっきの個体よりもはるかにサイズが一回りも大きく、まるで大型トラック並みの巨体を誇る恐ろしい朧車が、土煙を上げてものすごい勢いで迫ってきていた。
「ああ、覚悟はしていたとはいえ……なんて日だまったく」
ジョーさんは胸の前で大急ぎで十字架をきると、再び聖水瓶を構えて投げつける。しかし、今度はそれを察知した犬天狗たちが一斉に弓を引き絞り、無数の矢で完全に迎撃を阻止されてしまった。飛んでくる矢の密度も、さっきの比ではないほど桁違いに多い。
「小夜ちゃん、琴ちゃん、そっちは大丈夫!?」
「こっちは何とか持ちこたえとるけど、飛んでくる矢を捌くだけで手一杯や!」
「私の方も、この数だとギリギリです!」
琴ちゃんはしなやかな足技で、小夜ちゃんは硬い障壁で容赦なく撃ち込まれる矢を防いでくれているが、すでに防御だけで精一杯のようだ。
そうこうしているうちに、巨大な朧車は再び私たちの車の真横にピタリと並び走ってきた。さっきのようにシートを後ろへ倒す回避行動が、果たしてこの巨大な相手にも何度となく通用するだろうか。さっきは相手の車高が比較的低かったから何とかなったものの、あんなトラック級の高い位置から真下に向けて矢を打ち下ろされたら、どんな体勢を取っても意味がない。
横目でちらりと見ると、運転席の窓からすぐ間近の位置に、あの朧車の血走った巨大な目が、ぎらりとにらみつけてきているのが見えた。どうしよう、このまま急ブレーキを踏んでやり過ごすべき? いや、完全に前に出られるのも危ない――そう思考を巡らせた瞬間、目の前の巨大な朧車はさらに不気味な加速を見せつけ、私たちの車を完全に追い越そうと鼻先を突き出してきた。
その荷台の上で、無数の犬天狗たちが恐ろしい殺気を込めた視線をさらに前方へと向けている。私も思わず目をこらし、この先の道路へと視線を戻した。
「ここだっ……! かかってこい、バケモノども!」
突然、前方の車から矢木くんの気迫に満ちた叫び声が響き渡った。
見れば、矢木くんはなんと前の車の窓枠に器用に腰掛け、上半身を完全に外へと乗り出している。いわゆる、トラックの荷台などで見かける「箱乗り」というやつだ。彼は片手で頑丈な盾をしっかりと構え、もう片方の手で車内を掴んで絶妙なバランスを保っていた。
そして、巨大な朧車は私たちの車を完全に素通りし、そのまま前方へと一気に追い越していくのだった。
「矢木くんっ! 危ない、そんなことしちゃ危ないってば……っ!」
後続の車から響いてきた、小夜ちゃんの焦りと心配に満ちた絶叫が、雨音を切り裂いて私たちの耳へと激しく届くのだった。




