宴の準備
⚪︎鳥居小夜視点
「矢木くんっ!! 矢木くん、しっかりしてっ!」
すっかり白目を剥いて床に倒れ伏した矢木くんの肩を、私は慌てて激しく揺さぶる。――うん、予想通りの完璧な大惨事だった。鈴々莉さんの特製「地獄のマグマ麻婆豆腐」の破壊力は、いまだに生きている人間の胃袋をも一撃で粉砕するには十分すぎる威力らしかった。
私はすぐさま手のひらに霊力を込め、式神のピーちゃんをそっと彼の胸元に這わせる。ピーちゃんから送られた温かな癒やしの気が矢木くんの全身を巡ると、彼はビクンと盛大に身を震わせ、次の瞬間にはガバッと勢いよく上半身を起こした。
「はっ……!? ま、待て、俺はまだ生きているのか……? いま幽界の門をくぐりかけて、琴さんや涼さんに呼び出されたような幻聴が聞こえた気がしたが……っ!」
矢木くんはパニックになったように自分の手足を慌てて動かし、必死に生存確認を繰り広げる。そのあまりの怯えように、私は思わず吹き出してしまった。
「大丈夫だってば。流石に命の危険はないって……ほら、しっかりしてよ」
「ふう……生き返った……。あの料理、絶対になにか別の魔術的な呪法が混ざっていたに違いないぞ……」
胸を撫で下ろしながら冷や汗を拭う矢木くんに苦笑しつつ、私は場の空気を切り替えるようにパチンと手を叩いた。
「さてと! 命に別状がないことも確認できたし、あとは食べ物以外の細かい準備を進めないとね。ジョーさんと映子さんも、手伝ってもらえますか? 矢木くんも、唐揚げの揚げ物が終わったら、こっちの荷物運びを手伝ってくれる?」
「そうだな。料理の戦力外チームは、おとなしくそっちの雑用を片付けるとしようか。矢木も、いい勉強の機会だからしっかり手伝えよ」
ジョーさんがやれやれといったふうに肩をすくめながら、ひと言余計なジョークを飛ばす。私は思わず、ジロッと鋭い視線をジョーさんに向けて抗議の意を示した。
「そんなに大荷物ってわけじゃないけど、儀式用の道具とか細かい機材がいくつかあるからね」
「わかりました。俺にできることなら何でも言ってください」
矢木くんも快く引き受けてくれて、私たちは4人で二階の編集部から地下へと続く階段を降りていくことになった。
「えーと、今夜の儀式で使うのは……たしかこの物置だったはず」
私はそう言いながら、地下の奥まった場所にある木製の重い扉をぐっと押し開ける。普段から家事がそこまで得意というわけではないけれど、自分たちが仕事で使う霊具や神事用の道具類だけは、いつ何時でもすぐに取り出せるように自分で綺麗に整頓している。
奥の棚から、私たちは古びた桐の箱をいくつか慎重に引き抜いた。蓋を開けると、中には精巧に組まれた木組の祭壇や、神饌(お供え物)を載せるための白木の台――いわゆる「三方」などが丁寧に収められていた。
「へえ……祭壇の組み立てって、こうなってるんだな。なんだか本格的というか。これ何に使うんだ?」
矢木くんは箱の中身をのぞき込みながら、物珍しそうに目を輝かせて興味津々に尋ねてくる。
「うーん、詳しい仕組みや細かい作法を全部説明すると長くなっちゃうんだけどさ。今回の依頼主である菊さんは霊体だから、私たちが普段食べるような形ではご飯を食べることができないのね。だから、霊的な存在でもちゃんと美味しくお供え物をいただけるようにするための、特別な儀式の準備なんだよ」
神様や霊魂に対して食べ物をお供えし、召し上がっていただくための作法は、言葉で説明するとなると意外と複雑で難しい。本来であれば形式的だけど、今回は本当に食べてもらうため、祝詞も特殊なものになる。物心ついた頃から祖父や周囲の大人を手伝ってきた私にとっては当たり前の日常の一部だったけれど、もし一般人の矢木くんが一からすべてを覚えようとすれば、それなりに苦労するかもしれないなとふと思った。
「小夜。とりあえず、さっきの鈴々莉の作った殺人麻婆豆腐だけは、神聖な祭壇の近くから確実に外しておいてくれよ。下手をすれば、神様を祀る前に依頼人の菊さんがショックで二度目の昇天を遂げちまうからな」
ジョーさんは、料理中は流石にタバコを吸えなかったためか待ちかねたように、手元にあったジッポライターで火をつける。
「ジョーさんも、大変ねぇ。鈴々莉ちゃんの料理で染みついたスパイスの匂いとか、中々落ちないんじゃない?」
映子さんがクスリと笑いながらジョーさんをからかう。
「まったくだ……。まさか直面して『作るな』とも言えないしな。まあ、俺の部屋一つが犠牲になるだけで他の社員の胃袋が守られるなら安いもんだ……。そのうち、俺の夢の中まであの激辛の炎で焼き尽くされて、口から火を吹く妖怪になっちまうかもしれないな」
ジョーさんの自虐混じりの冗談めいたボヤキに、物置の空気にふっと緩んだような笑い声が広がり、私たちはそれぞれの作業へと再び手を動かし始めるのだった。




