第一話 鮭の陰謀
王宮の奥深く、見事な薔薇が咲き誇る東屋で、公爵令嬢のベアトリスは優雅に紅茶を嗜んでいた。
対面に座るのは、国の未来を担う麗しき王太子、オスヴァルト。
非の打ち所がない美貌と、明晰な頭脳を持つ完璧な婚約者……であるはずの男だ。
しかし、今日のオスヴァルトはいつになく深刻な表情で、分厚い資料を机に広げていた。
「ベアトリス、僕は大変なことに気付いてしまった」
オスヴァルトの低い美声が、深刻なトーンで響く。
ベアトリスはそっとティーカップを置き、作り慣れた完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
「あら、オスヴァルト様。国境の関税問題にでも、新たな進展が?」
「いや、もっと根深く、我が国の根幹を揺るがす陰謀についてだ。最近、北方の領地で人間と熊の衝突が増加している件は知っているな?」
「ええ。木こりや猟師たちが襲われ、騎士団が討伐に向かったと伺っておりますわ」
オスヴァルトは静かに首を振った。
その瞳は、まるで世界の裏に隠された真実に到達した学者のように鋭く光っている。
「みんな、まだ気付いていないのだ。物事の本質を、表面的な争いだけで判断してはならない。いいかい、ベアトリス。こうやって人と熊を対立させて、最終的に一番得をするのは誰だと思う?」
ベアトリスは一瞬、考えた。
武器商人?あるいは領地を狙う隣国? 政治的な意図が絡んでいるのだろうか。
「……分かりかねますわ。誰が裏で糸を引いているというのです?」
オスヴァルトは周囲を一度見回し、手を口に添えると、声を潜めて言った。
「鮭だ」
「……はい?」
ベアトリスの思考回路が完全に静止した。今、この完璧な王太子は何と言ったのだろう。
何かの聞き間違いだろうか。
「全ては、鮭の陰謀なのだよ」
オスヴァルトは真剣そのものの顔で、机の上の資料の一枚を指差した。そこには見事な鮭のスケッチが描かれている。
今にもビチビチと跳ねそうなほど。
「よく考えてほしい。熊の主食、あるいは大好物は何か?そう、川を上る鮭だ。だが、人間が山林を切り開き、熊と生活圏が重なることで、熊の意識は人間に向く。人間側も熊を敵視し、積極的に狩猟を行う。……結果として何が起こる?」
ベアトリスは、冷めていく紅茶を見つめながら、必死に彼のトンデモ論理の先を予測した。
「……熊の数が、減りますわね?」
「その通りだ!」
オスヴァルトは嬉しそうに机を叩いた。
「天敵である熊が人間に駆逐されれば、川を上る鮭たちは誰に怯えることもなく、安全に産卵を終えることができる。つまり、人間と熊の血で血を洗う対立は、すべて鮭たちが仕組んだ『生態系の情報戦』なのだ!彼らは人間を誘導し、熊を排除させようとしている!」
ベアトリスは深いため息を心の中でついた。
彼のこういうところが、本当に愛おしく、そして本当に面倒くさい。
頭が良すぎるあまり、時折、斜め上の方向に思考が音速で突き抜けてしまうのだ。
しかも、本人はいたって大真面目である。
普通なら「何を馬鹿なことを」と一蹴する場面だが、ベアトリスは訓練された婚約者だった。
ここで否定すれば、彼は鮭の生態や河川の潮流、過去百年の漁獲量のデータを持ち出して徹夜でプレゼンを始めてしまう。
「なるほど……オスヴァルト様の仰る通りかもしれませんわね」
ベアトリスは話を合わせることにした。
「ですが、オスヴァルト様。鮭がそれほどの知能を持ち、人間を操っているとして、彼らの最終目的は何だと思われますの?単なる保身だけでしょうか?」
オスヴァルトは目を見開いた。
婚約者が自分の鋭い考察についてきてくれたことが、嬉しくてたまらないようだ。
「素晴らしい着眼点だ、ベアトリス!流石は僕の婚約者。そう、彼らの狙いはそれだけではない。僕が懸念しているのは、我が国の食文化への侵略だ。最近、王都の流行に心当たりはないか?」
「流行、ですか?そういえば、身が鮮やかなオレンジ色の『サーモンのカルパッチョ』や『鮭のムニエル』が、夜会で大変な人気を博しておりますわね」
「それだ!」
彼は興奮したように身を乗り出すと、瞳孔が開いたような目で話し続ける。
「彼らはあえて自らの身を美味に進化させ、人間に貢物として捧げている。人間が鮭の味に依存し、鮭なしでは生きられない身体になったとき、彼らは川の権利、ひいては水運の支配権を要求してくるだろう。我々はすでに、彼らの術中にあるのかもしれない」
あまりにも真面目な顔で「鮭のムニエルの脅威」を語る婚約者に、ベアトリスはついに吹き出しそうになるのを、扇で口元を隠して必死に堪えた。
「それは恐ろしいことですわね。では、国を護る王太子として、オスヴァルト様はどのような対策をお考えですの?」
オスヴァルトは腕を組み、厳かに告げた。
「まずは敵を知ることだ。今日の晩餐は、厨房のシェフに頼んで、鮭のフルコースを用意させよう。彼らの戦略を、文字通り胃袋に収めて分析する」
「あら、それは名案ですわ。私も喜んでお付き合いいたします」
ベアトリスが微笑むと、オスヴァルトの緊張していた表情が、ふっと柔らかいものに変わった。
彼は机の上の資料を片付け、ベアトリスの手をそっと包み込むように握った。
「すまない、ベアトリス。いつも僕の突飛な話に付き合わせてしまって……だが、君がこうして隣で真剣に聞いてくれるからこそ、僕はどんな鮭にも立ち向かえる気がするんだ」
真剣な愛の告白のようなトーンで、また「鮭」というワードが混ざっている。
ベアトリスは呆れつつも、自分を真っ直ぐに見つめる彼の美しいアメジスト色の瞳に、不覚にも胸をときめかせてしまった。
「当然ですわ、オスヴァルト様。私はあなたの婚約者。たとえ相手が鮭であろうと、隣国であろうと、あなたと共に戦います。……ただ」
「ただ?」
ベアトリスはいたずらっぽく微笑み、彼の耳元で囁いた。
「今夜の晩餐のあとは、鮭の陰謀のことは忘れて、私とのダンスの練習に付き合っていただきますわよ?そちらの方が、国家の夜会において緊急性の高い案件ですから」
オスヴァルトは一瞬驚いたように目を見張り、それから耳の先をほんのり赤くして、嬉しそうに頷いた。
「ああ、約束しよう。鮭の対策会議よりも、君との時間が最優先だ」
こうして真面目すぎる王太子と、彼を手のひらで転がす公爵令嬢の、今日も平和な一日が過ぎていく。
ただ一つ、今夜のメニューが少しだけ、鮭尽くしになることを除けば。
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