【第8話】聖女様の晩餐と、闇から覗く深淵
「……ふん。ようやく、まともな香りがしてきましたわね。泥を捏ねたような肉の塊を焼いているわりには、食欲をそそるいい匂いだわ」
和希の台所で、リリシアは椅子にふんぞり返りながら、フライパンから響くジューシーな音に鼻をひくつかせていた。
先ほどの激闘で破れたセーラー服の袖には、咲季がどこからか取り出した「猫ちゃん柄の絆創膏」が貼られている。聖女の威厳と、あまりにもミスマッチなその光景が、逆に彼女の可憐さを際立たせていた。
「リリシア、そんなに急かすなよ。中まで火を通さないとお腹を壊すだろ。……ほら、サラダも多めに盛っておいたから、先にこれを食べてなさい」
「……。なんですの、この緑の葉っぱの山は。私を家畜か何かと思っているのかしら!?
……むぐっ。……。……。……この『ごまドレッシング』という液体、犯罪的な美味しさだわ。……。……べ、別に、貴方の盛り付けが綺麗だから食べてあげているわけではないのよ!」
リリシアはフォークを不器用に操りながら、レタスを口に運ぶ。その頬がリスのように膨らむたびに、足元にはキラキラと輝く「愛のドロップ」がカランと音を立てて落ちていた。
「……リリシア、ドロップが輝きを増してるぞ。本当に、このドレッシングを気に入ったんだな」
「……。なっ、ななな……! 何を言ってるの!? これは、あまりの空腹に私の体が防衛本能で糖分を排出しているだけよ! 貴方の料理を褒めているとかじゃないから……」
リリシアは顔を真っ赤にして叫ぶが、その瞳はフライパンの中で焼き色のついたハンバーグに釘付けだった。
「……。はい、お待たせ。和風おろしハンバーグ、特盛りだ」
和希が湯気の立つ皿を並べると、リリシアの目が宝石のようにキラキラと輝き出した。咲季もまた、スマホを構えながら「聖女様の初めてのハンバーグ実況」を静かに開始している。
「……。……。い……いただきます。」
リリシアは箸と格闘しながら、ようやく一口サイズに切り分けたハンバーグを口に運んだ。
――瞬間。彼女の全身が硬直した。
口の中で溢れ出す肉汁と、大根おろしのさっぱりとした風味、そして和希が隠し味に入れた少しの愛情――。
「……。……。……っ!! ……。……こ、この料理……。……。魔王を倒すための最終兵器に認定しましょう……。……こんなものを毎日食べさせられたら、私は、私の誇り高き聖女としての魂が……貴方という家畜に飼い馴らされてしまうわ!!」
リリシアは涙目で叫びながら、夢中でハンバーグを頬張る。その足元からは、もはやカランカランという音が鳴り止まない。色とりどりのドロップが床を埋め尽くし、もはや足の踏み場もないほどだ。
「……。リリシアさん、もういいわ。和希くん、これ動画のタイトル『餌付けされる聖女様』で決まりね。再生数、数十万は硬いわよ」
「咲季、本当に投稿するなよ……。……でもリリシア、そんなに喜んでくれるなら、明日はオムライスでも作ろうか?」
「……。オム……ライス……? ……。……ふ、ふん! 名前からして低級そうな響きね! ……でも、まぁ、貴方がどうしても作りたいと言って泣いて頼むなら、仕方なく一口くらいは味を診てあげてもいいわよ」
和希は微笑みながら、彼女の食べっぷりを見守った。
夕食が終わり、咲季が「私も今日は疲れたから、これくらいにしてあげるわ」と言い残して帰宅すると、部屋には和希とリリシアの二人きりになった。
リリシアは満足そうにソファでくつろいでいたが、ふとした瞬間に、窓の外をじっと見つめた。その表情からは、先ほどの賑やかさが消え、聖女としての厳しさが戻っていた。
「……カズキ。……。……昨日も言ったけど。……。この世界は、あまりにも静かすぎるわ。……魔力というものが、空気の中にほとんど感じられないの」
「……。……そうだな。俺も、お前が来るまでは、魔法なんて物語の中だけの話だと思ってたし」
「……。……だからこそ、怖いの……。あのシャドウ・ストーカーのような魔族が、なぜこの世界に、それもこれほど正確に私たちの位置を探り当てて来られるのか……。……。……。……何かが、私たちを……いいえ、この世界そのものを『食べよう』としているような、そんな寒気がするわ」
リリシアは自分の細い腕を抱きしめ、身震いした。和希は、そんな彼女に何を言えばいいか分からず、ただそっと隣に座った。
「……大丈夫だよ。リリシア。……俺が、お前を一人にはさせないから。……。供給だって、必要なら何度でもする。……お前が帰るべき場所に帰れるまで……いや、お前がいたいと思えるまで、俺が守るよ」
「……。……。……な……。……。……。……ななな、何を言いだすのよ、この不潔変態ジャガイモ!! ……。……。……聖女に向かって『何度でも供給をする』だなんて、それはもう実質的なプロポーズじゃないの!?
……。……。……。……だ、大体、誰が貴方なんかに守られたいと言いましたの!? 私は聖女! 貴方は家畜! この優先順位を間違えないでくださいまし!!」
リリシアは言葉遣いもおかしな事になるくらい顔を真っ赤にして立ち上がり、和希を指差して叫び散らした。だが、その瞳は潤んでいて、怒りよりも喜びが勝っているのは明白だった。
カラン、カラン、カラン……。
もはやドロップの音がBGMのように部屋に鳴り響く。
「……。……。……でも。……。……。……その……。……。……心強いということだけは、認めてあげてもいいわよ。……あくまで、非常食としての信頼よ!!……」
そう言い残すと、リリシアは逃げるように自分に与えられた部屋へと駆け込んでいった。
一人残された和希は、床に散らばった大量のドロップを見つめ、溜息をついた。
「……。……。……これ、どうやって片付けよう……。……ってか、一回の供給で増えすぎだろ……」
和希がドロップを拾い集めようとした、その時だった。
……。……。……。
窓の外、月の光も届かない暗闇の中。
伊邪那岐学園の制服を着た「何か」が、無言で家の中を見ていた。
その顔には目も鼻も口もなく、ただ滑らかな肌が広がっている。だが、その中心には、異様に発達した「耳」のような器官が蠢いていた。
「……ギギ……。……見つけた。……。……『音』……。……『供給』の音……。……『ドロップ』の音……。……。……。……次は、私が……お前たちの鼓膜を……食べてあげる……」
その「生徒」の姿をした化け物は、音もなく屋根から屋根へと飛び移り、夜の街へと消えていった。
明日の学校生活は、今日以上に騒がしく、そして危険なものになることを、まだ誰も知らない。
(第9話へ続く)




