【第28話】聖女の吐息と禁断の結晶
夜の帳が下り、神代邸は静寂に包まれていた。以前の激闘によって無残に破壊された屋根や壁は、今では何事もなかったかのように元の姿を取り戻している。
それは、和希が手に入れた「光のペン」の恩恵だった。和希がペンを走らせ、壊れた箇所をなぞれば、空間そのものが再構築され、傷跡一つ残さず修復される。この不思議な修復の仕組みこそが、戦いを日常へと引き戻すための唯一の楔となっていた。
和希は自室の椅子に深く腰掛け、リリシアを召喚したときのことを思い返し天井を見つめていた。平和な日常。しかし、その裏側では、異世界から来た彼女たちの生命が音もなく削り取られていることを、彼は痛感していた。
「…… カズキ。入るわね」
扉の向こうから届いたリリシアの声は、消え入りそうなほどに細く、震えていた。
返事を待たずに開いた扉の先、そこには薄手の絹の寝間着を纏ったリリシアが立っていた。月光に照らされた彼女の肌は幽霊のように白く、肩で荒く息を吐いている。
「リリシア! どうしたんだ、その顔色は……!」
リリシアは力なく和希の胸に倒れ込んだ。彼女の身体は驚くほど冷たく、生命の灯火が今にも潰えんとしていることが伝わってくる。
「供給を……カズキ……」
リリシアは縋るような瞳で和希を見上げ、震える指先で彼の項を引き寄せた。これは生存のための本能であり、この魔力の源のない世界における残酷な宿命だった。
しかし、唇が触れ合った瞬間、生命の渇望は瞬時に烈火のごとき情愛へと変質する。
「……っ……ん……ふ……」
和希の内側から溢れ出す生命エネルギーが、唇を重ねるという儀式を通してリリシアの体内へと奔流となって流れ込む。
リリシアは漏れ出す吐息と共に、和希の舌を貪欲に絡め取り、自らの欠落を埋めるように深く、濃厚に繋がろうとした。閉じられた瞼の裏で、冷たかった彼女の血が沸騰し、陶酔という名の熱が全身を支配していく。
生存という大義名分の下、リリシアの独占欲が剥き出しになる。粘膜が擦れる艶やかな音が静寂を乱し、彼女の指は和希の背中に爪を立て、離れまいと必死に身悶えた。
「……ふ……あ……っ……カズキ……もっと……もっと、私を満たして……」
供給で満たされたはずの後も、リリシアは離れようとしない。酸素不足で意識が朦朧とし、喉の奥が鳴るほどの熱烈な求愛。聖女の皮肉な渇きは、和希の熱を啜ることでしか癒えない中毒へと昇華していた。
「……記録。リリシアの魔力残量は規定値を回復。これ以上の接触は、単なる嗜好品の過剰摂取に相当します」
背後から響いたステラの平坦な声に、和希は我に返り、名残り惜しそうに唇を離した。
「ステラ、お前……いつから」
「……常に、監視しています。……私の演算回路もまた、熱を持っています。ですが、それは魔力の不足ではなく……論理では説明のつかない、胸の奥の欠乏です」
ステラは無機質な瞳に、微かな陰を宿して和希を見つめる。
「……私にも、愛を……供給してください。物理的なエネルギーではなく……心を繋ぎ止めるための楔を」
彼女が絞り出した切実な願い。その空気を破るように、陽気な笑い声が部屋に響いた。
「あはは! 二人とも必死すぎ! ほら、和希くんから溢れた『愛』が、こんなに」
窓際に腰掛けた咲季が、足下に転がる桃色の結晶――「愛のドロップ」を指指した。リリシアとの濃厚な交感によって生み出された、純度百パーセントの感情エネルギー。
「んっ……ふふ、やっぱり和希くんの『愛』は特別だね。脳が溶けちゃいそう……」
咲季は迷わずドロップを摘み、口に放り込んだ。咀嚼するたびに彼女の頬が紅潮し、背中の翼が快楽に震える。
「咲季さん! 勝手に摘み食いしないでください……っ!」
「えー、いいじゃない。リリシアだって和希くんの『中』をたっぷり味わったんでしょ? これくらい、お裾分けしてくれたって罰は当たらないわよ」
咲季は挑発的に唇を舐め、和希の膝に図々しく腰を下ろした。リリシアの眉間に苛立ちが浮かぶ。
「……不快です。リリシアさんの過剰な独占欲、および咲季さんの無遠慮な接触。これらはマスターの精神衛生に悪影響を及ぼす可能性が高いと判断します」
ステラが無表情のまま和希の腕を引き寄せ、自らの胸元へと導く。冷淡に見えて、その指先は微かに熱を帯び、強く震えていた。
「ステラ、お前まで……」
「……。……和希さま。リリシアさんには生命維持という口実がありますが、私にはそれがありません。……ですが、私のコアが、貴方に触れられることを強く切望しているのです。これは故障でしょうか? それとも……」
ステラの潤んだ瞳が和希を射抜く。その真っ直ぐな想いに、リリシアが割って入った。
「待ってください! 私はまだ完全には回復していません! カズキ、私……貴方の熱が無いと、明日を迎える自信がありません……!」
リリシアは和希の首にしがみつき、潤んだ瞳で訴える。その表情は慈愛に満ちた聖女ではなく、ただ愛に飢えた一人の乙女だった。
「あはは、修羅場だねぇ。でも、和希くんが困ってるよ? ほら、ここは一番物分りのいいお姉さん――私が一番に愛を注いであげなきゃ」
咲季が和希の耳元で甘い吐息を漏らし、誘惑するように胸を押し付ける。
「お前ら、いい加減にしろ……っ!」
和希は赤面しながらも、彼女たちのそれぞれに異なる愛の形を愛おしく感じていた。
リリシアの、命を懸けた重すぎる独占欲。
ステラの、自分の殻を破ろうとする純粋な思い。
咲季の、刹那的でありながら芯の通った情愛。
和希は足下に散らばるそれぞれのドロップを見つめ、その一つを手に取った。
「……みんなの気持ちは、ちゃんと届いてる。このドロップが、その証だろ?」
和希の言葉に、三人が同時に口を噤んだ。部屋には温かな余韻が漂い、互いの鼓動が心地よく響く。
しかし、その甘やかな時間を、冷酷な殺気が切り裂いた。
部屋の中の空気が一瞬で氷結し、庭から禍々しい魔力の波動が突き抜ける。
「……!? この気配……まさか!」
リリシアの顔から血の気が引く。和希たちは弾かれたように窓の外――月明かりに照らされた庭へと視線を投げた。
そこに立っていたのは、リリシアと瓜二つの容姿を持った少女だった。しかし、その金色の髪にはドス黒い影が差し、瞳には漆黒の魔紋が浮き出している。
「……ふん。相変わらず、虫酸が走るような温い空気ね。お姉様」
冷徹な声に、リリシアが息を呑む。
「……ベルリナ!? どうして、また貴方がここに……!」
ベルリナと呼ばれた少女は、魔王の息が掛かった禍々しい魔杖を地面に突き立て、嘲笑を浮かべた。
「魔王様の命よ。その男を殺し、そのペンを奪い取る。……お姉様、貴方が愛を囁いている間に、この世界は終わりを迎えるのよ」
修復されたばかりの美しい日常に、実の妹という最悪のシナリオが牙を剥く。
(第29話へ続く)




