【第27話】拡張される日常と零れ落ちる演算エラー
私立伊邪那岐学園の午後を支配するのは、春の柔らかな陽光と、それに反するような濃密な沈黙だった。
朱鷺克己との決戦を経て、神代和希が手に入れたのは「実態を持たない光のペンの力」。だが、その代償として彼の周囲に渦巻く因果の密度は、以前の数倍へと跳ね上がっていた。
特に顕著なのが、教室内における物理的な圧迫感である。
「……。……。……。……。……。……」
和希は背後から注がれる視線の熱量に、喉の奥が乾くのを感じていた。正確には、右からは咲季が、左からはリリシアが、そして真正面からは転校生――今や同居人となったステラが、瞬きもせずに和希を観測し続けているのだ。
五時間目の日本史。黒板を叩くチョークの音だけが響く静寂の中、和希は必死に平穏を装い、ノートに万葉集の一節を書き写していた。
だが、その筆先が僅かに震える。正面に座るステラが、教科書の隙間から小型の電子端末を覗かせ、何やら深刻な面持ちで指先を動かしているのが見えたからだ。
「……。…… マスターの脳波に乱れを検知しました。集中力が通常時より15%低下。原因は明白です。……。……隣接する個体による精神干渉。ノイズが許容範囲を超えています」
念話――通信機能を介したステラの声が、直接和希の意識に滑り込む。
「(……。……おい、ステラ。授業に集中しろ。お前のその『監視』が一番のノイズなんだよ)」
「……。……不合理な指摘です。……。私の行動は全て物語の整合性を維持するための論理的な必然に基づいています。……。現在、私はマスターの健康状態をリアルタイムで解析し、最適な放課後の回遊ルートを演算しているところです」
「(……。……回遊ルート?)」
「……。……肯定します。……。今日の夕食の食材調達、および糖分補給のための甘味処への立ち寄りを含む、全128通りのシミュレーションを完了しました。……。……これは決して、私がマスターと放課後にアイスを食べたいという私情によるものではありません。……。……あくまで脳の活性化……計算上の数値を追求した結果です」
端末を操作するステラの指先が、微かに迷うように動きを止めた。彼女の銀髪から覗く耳の先端が、夕日を待たずして朱く染まっている。
理系的な発言を隠れ蓑にした不器用な誘い。和希が苦笑を漏らそうとした瞬間、右から鋭い殺気が飛んできた。
「……。……ちょっと和希くん、ステラと『通信』してない? 顔を見れば分かるんだから。……。今日の放課後は私と新しいカフェに行く約束でしょ?」
小声ながらも重い、咲季の追及。
「……。…… カズキ、……」
左隣から漏れたのは、地を這うような、それでいて震える繊細な声だった。和希が視線を向けると、聖女リリシアが握り締めた拳を膝の上えで小刻みに震わせている。彼女の黄金の瞳は潤んでいるが、その奥には明確な嫉妬の炎が宿っていた。
「……。……私も、……聖典(ラノベ)の解読にカズキの助けが必要だと、幾度もお願いしているのに。……。それなのに、……なぜその銀色の方ばかりと……。私たちは、魂の深い場所で結ばれた仲ではなかったのですか……っ?」
リリシアの言葉は、ただの抗議を超え、裏切られた恋人のような切実さを帯びていた。彼女にとって、和希との絆は唯一無二の聖域。そこに平然と踏み込んでくるステラの存在が、聖女としての仮面を剥ぎ取り、一人の独占欲に駆られた少女へと変貌させていた。
和希は天井を仰ぎたくなった。朱鷺を倒せば平和が来ると思っていた。だが、実際に訪れたのは、以前よりも過酷で、幸福で、そして圧倒的に騒がしい日常だったのだ。
放課後を告げるチャイムが鳴り響く。
生徒たちが一斉に動き出し、教室が喧騒に包まれるよりも早く、ステラが座席を立ち、和希の正面に立ちはだかった。
「……。…… マスター。演算結果を報告します。現在の伊邪那岐学園周辺におけるアイスクリームの供給密度と、マスターの空腹指数を照らし合わせた結果、……。……駅前の限定ショコラ味を摂取する確率が99%に収束しました。……。……これは不可避の運命です。……。……拒否は論理的な矛盾を生み出します」
「……。……ステラ、さっきから運命を計算で決めつけるなよ。……。……咲季もリリシアも怒ってるだろ」
和希が苦笑して肩を竦めると、ステラは僅かに瞳を伏せ、和希の制服の袖を指先で摘んだ。
「……。……不確定な要素は、……排除すべきです。……。……ですが、マスター。……。私の内部レジスタが、…… マスターとの時間を最優先タスクとしてロックしています。……。……これは…… エラーですか? ……。……それとも、マスターが書き換えた新しい世界の……仕様なのですか?」
無機質だったはずの彼女の声に、微かな震えが混じる。
「まっ……待ちなさい……っ!」
割って入ったのはリリシアだった。彼女は和希の左腕を、ステラに負けない力強さで、しがみつくように抱き寄せる。柔らかな胸の感触が和希の腕を包み込み、リリシアの体温がダイレクトに伝わってくる。
「書き換えた仕様だなんて言葉で片付けられるほど、私の想いは軽くありません! カズキ……私は、貴方が誰かと笑い合うたびに、胸が焼け付くように痛むのよ。……私だけを、見ていて欲しいと……願うのは駄目ですか?」
視線が絡み合う。リリシアの必死な表情は、正妻としての自負と、それを脅かされることへの根源的な恐怖が混ざり合ったものだった。
和希は自分の胸の中に、温かい熱が広がるのを感じた。ステラも、リリシアも、そして咲季も。彼女たちは物語の記号ではなく、血の通った一人の少女として、この世界で和希を愛している。
「お前が誰かとアイスを食べたいと思うのも、それを照れて数式で隠すのも。……。リリシアがそうやって、全力で俺を独り占めしようとするのも。咲季との距離感も全部、俺が望んだ新しい日常だ」
「……。……! ……。……了解……しました。……。マスターの肯定により、……私の冷却ファンがフル回転を開始しました。……。ですが……顔の熱を処理しきれません。……。……緊急措置として、……手を握っての歩行を提案します。……。放熱の……効率化のためです」
「……。……私もです! 左手は私が放熱……いえ、お守りします!」
「……。……はいはい。……。……咲季、リリシア、悪い。今日は四人で行くぞ。多数決は抜きだ」
和希が二人を振り返り、苦笑しながら告げる。
「……。……もう、和希くんは甘いんだから! ステラの理系営業に騙されすぎよ!」
「……。…… カズキがそう言うなら、……。……聖女として、寛大な心で同席しましょう。……。でも、次は私と教会……いえ、二人きりになれる場所へ行く約束ですよ。 ……絶対ですからね!」
膨れっ面をしながらも、リリシアは和希の腕を抱き締める力を緩めない。その表情には、他のヒロインへの強い対抗心と、選ばれた存在であることへの切ないほどの情愛が滲み出ていた。
伊邪那岐学園の正門を抜ける四人の影。
夕闇が迫る街並みは、虚構の冷たさはなく人々の営みと喧騒に満ち溢れていた。
ステラは和希の右手を離さず、リリシアは左腕を占有し、その後ろから咲季が文句を言いながら歩む。
「……。…… マスター。……。……現在の多幸感を数値化した結果、……既存の単位では計測不能となりました。……。……新たな変数を設定します。……。変数名……『愛』。……。……記録……完了しました」
銀髪の少女が零した、計算外の独り言。
それは誰の耳にも届かなかったが、拡張された物語の一ページに、消えることのない黄金の文字で刻まれた。
(第28話へ続く)




