【第21話】断罪の朱筆と偽りの福音
激闘の余韻が漂う旧校舎の屋上に、夜の帳がゆっくりと下りてくる。
「……。……はぁ。……。本当に、……酷い目にあったわ」
咲季は乱れた髪を指で整えながら、満足げな、それでいてどこか虚脱したような溜息を漏らした。彼女の背中から伸びていた禍々しくも美しい蝙蝠の翼は、主の満腹感を示すように、淡い粒子となって空気に溶けていく。
「……。……和希……。……まだ、身体が……熱い
わ……」
一方、和希の腕の中で蕩けたような表情を浮かべているのは、異世界の聖女リリシアだ。供給という名の深い接触を経た後の彼女は、普段の凛とした佇まいが嘘のように、和希の胸に頬を寄せて、甘やかな吐息を吐き出していた。
「……。リリシア、もう敵はいないから。……。……そろそろ離れてくれないか。……。心臓に悪い」
「……。……嫌よ。……。今離れたら、……私、……自分が消えてしまいそうで……」
リリシアの細い指先が、和希の制服をギュッと掴んで離さない。和希は困惑しながらも、彼女の温もりを拒絶できずにいた。勇者としての覚醒が、彼の内にある守護本能を否応なく刺激しているのだ。
「……。勝手にやってなさい。……。私は、この残り香を集めるだけで手一杯なんだから」
咲季は冷ややかに言い放つが、その頬は朱く染まっていた。サキュバスとしての本能が、二人の間に漂う濃厚な親密度を、最高級のデザートのように感知しているからだ。
だが、その甘やかな空気は、突如として飛来した「一本の矢」によって切り裂かれた。
乾いた音を立てて、和希の足元のコンクリートに突き刺さったのは、金属ではない。それは、鮮血のように赤いインクを滴らせた、一本の『万年筆』だった。
「……っ!? 誰だ!」
和希は瞬時にリリシアを背後に庇い、虚空を睨み据えた。先ほどまで霧散していたはずの禍々しい気配が、旧校舎の影から濃密に湧き上がってくる。
「……。……やれやれ。……。ベルナルドの書き残した駄作を片付けてくれたのは感謝するが、……余計なアドリブを入れてくれたものだ」
影の中から現れたのは、漆黒の外套を纏った、顔のない男だった。否、顔がないのではない。彼の顔があるべき場所には、無数の文字が蠢き、表情を隠していたのだ。
「……。貴方、……ベルナルドの仲間……? ……。いいえ、違うわね。……。その傲慢な魔力の質……。貴方が『真の作者』ね?」
咲季が低く唸る。彼女の本能が、目の前の存在を「絶対に相容れない天敵」だと告げていた。
「……。サキュバスの成れ果てが、勝手に役名を決めるな。……。私はただの編集者だ。……。物語が予定された終焉を迎えるよう、赤を入れるのが仕事でね」
男が指を鳴らすと、足元に突き刺さった万年筆から赤いインクが溢れ出し、地面に複雑な魔法陣を描き出した。
「……。カズキ、危ない!!」
リリシアが叫ぶと同時に、魔法陣から無数の赤い鎖が飛び出し、和希たちの退路を断つ。
「……。設定を上書きする。……。聖女リリシアは、勇者への愛を忘れ、深淵の孤独へと堕ちる……」
男の言葉が、物理的な重圧となって襲い掛かる。言霊が現実を侵食し、リリシアの表情から急速に光が消えていく。
「……。……あ、……あぁ……。……カズキ……? ……。貴方、……誰……ですの……?」
「……っ!? リリシア!!」
和希は彼女の肩を掴み、必死に揺さぶった。だが、彼女の瞳は虚空を彷徨い、先ほどまでの温かな体温が嘘のように、氷のように冷たくなっていた。
「……。無駄よ、和希くん。……。ソレは論理を無視して『結末』を押し付けてくる最悪の呪法だわ」
咲季が苦々しく吐き捨てる。彼女は懐から小さな結晶――昨日回収したばかりの『愛のドロップ』を取り出した。
「……。和希くん、選択肢は一つよ。……。私を通して、上書きされた設定をさらに『上書きして破壊』する。……。そのためには、今まで以上の供給が必要よ」
「……。供給って、……今のリリシアは俺を忘れかけてるんだぞ!? どうやって……!」
「……。忘れさせてたまるもんですか。……。私の『夕飯』を台無しにしようとする不届き者には、サキュバスの流儀でお返ししてあげるわ」
咲季は迷わず結晶を噛み砕き、その破片を和希の口へと押し込んだ。
「……っ、……ん!?」
和希の脳内に、爆発的な情愛の記録が流れ込み出した。リリシアと出会ったあの日、共に戦った記憶、食卓を囲んだ温もり。それらが咲季の魔力によって増幅され、和希の全身を虹色の光で包み込む。
「……。思い出せ、リリシア!! ……。俺たちの物語は、誰にも書き換えさせない!!」
和希は虚脱したリリシアの唇に、自分の唇を重ねた。
「……!? ……ん、……ぅ……」
一瞬の静寂。直後、リリシアの身体から凄まじい黄金の衝撃波が放たれ、周囲を囲んでいた赤い鎖を粉々に粉砕した。
「……。……カ、……カズキ……!? ……。……私、……なんて恐ろしい夢を……」
瞳に光が戻ったリリシアが、震える手で和希の頬に触れる。
「……。……よかった。……。戻ったんだな」
「……。……はい。……。カズキの熱さが、……私を繋ぎ止めてくれましたわ。……。……もう、離しません。絶対に!」
リリシアの魔力が爆発的に膨れ上がり、屋上の床が黄金の輝きで満たされる。その輝きは、顔のない男――『編集者』を射貫き、彼の纏う文字を剥ぎ取っていく。
「……。……ほう。……。予定調和を力技でねじ伏せるか。……。面白い。……。
どうやら、脚本の大幅な修正が必要なようだ」
男は不敵に微笑み、ゆっくりと影の中へと沈んでいく。
「……。待てっ!!」
和希が手を伸ばすが、そこには冷たい夜風が吹き抜けるのみだった。男が去たっ後、屋上には|一本の折れた万年筆だけが転がっていた。
「……。……行ったか。……。咲季、……アイツ、何者なんだ?」
「……。分からないわ。……。でも、一つだけ言えるのは、アイツはこの世界を『文字』として支配しようとしている化け物だってことよ。……。ベルナルドなんて可愛い方だったわね」
咲季は険しい表情で折た万年筆を見つめ、それから溜息をついて和希たちを見た。
「……。……さて、危機は脱したけれど、……リリシア、貴方……いつまで和希くんに抱き付いてるのよ。……。供給はもう終たわよ」
「……。……ふふ。……。離れないわ。……。私、……今、……最高に『満たされて』いますの。……。……カズキ、……愛しているわ」
「……っ、……リ、リリシア……!」
和希は真っ赤になりながら、されるがままになっていた。咲季は呆れたように肩を竦めながらも、心のどこかで、二人が無事であったことに安堵の色を浮かべていた。
「……。全、……これじゃ、明日の朝食はドロップで胸焼けしそうだわ」
夜の校舎に、三人の歪で、けれど確かな足音が響く。
真の敵の出現によって、物語は加速していく。勇者と聖女、そしてサキュバスの奇妙な共同生活は、更なる嵐の予感を孕みながらも、静かに夜を深めていった。
(第22話へ続く)




