【第22話】潜伏する毒筆と放課後の甘い罠
編集者を名乗る不気味な男との邂逅から数日。学園を包んでいた不穏な霧は一掃されたように見えたが、和希の心に落ちた影は、未だ消えることはなかった。
「……。……和希くん、そんなに難しい顔をして、朝から眉間に皺を寄せないの。……。折角の美形が台無しよ」
登校風景の中、隣を歩く咲季が、呆れたように和希の脇腹を肘で突いた。彼女は以前と変わらず涼しげな表情を装っているが、その瞳は絶えず周囲の魔力反応を警戒しているのを、和希は知っていた。
「……。……分かってる。……。でも、あの男が残した言葉が気になってな。……。『脚本の修正』……。俺たちの人生を、勝手に自分の都合で書き直そうとするなんて、……反吐が出る」
「……。……そうですよね。……。私たちの想いは、……私たちだけのものです。……。誰にも、……何者にも、侵させはしません」
咲季の反対側で、和希の袖をギュッと掴んでいるリリシアが、静かな、だが鋼のように強い決意を込めて頷いた。
「……。随分と熱い朝だわ。……。おかげで、朝食抜きでも午前中は持ちそうだわ。……。ほら、二人とも。教室の扉の前よ。……。仮面を被りなさい。……。私たちは表向き、平凡な高校生なんですから」
咲季の言葉に、和希は深呼吸をして表情を緩めた。
だが、教室に一歩踏み込んだ瞬間、和希の背筋に寒気が走った。何かが決定的に狂っている。目に見える光景は、談笑する生徒たちと、机に突っ伏して眠る男子、賑やかな女子たちの笑い声……昨日までと何ら変わらない日常だ。
しかし、和希の視界の端、黒板の隅に書かれた日直の名前や、掲示板に貼られた時間割の文字が、微かに蠢いているように見えた。
「……。……咲季、見えるか?」
「……。……ええ。……。文字が、……生きている。……。侵食が始まっているわ」
咲季が険しい目で周囲を見回す。
「……。和希、私の周囲だけ、聖なる加護で認識の歪みを中和しています。……。……これは、……集団催眠に近い精神干渉だわ。……。皆、……自分たちの行動を『上書きされている』ことに気づいていません」
リリシアの言葉を裏付けるように、突然、教卓に立った担任の教師が、棒読みの声で話し始めた。
「……。皆さん、静かに。……。今日から新しい特別顧問を迎えることになりました。……。文芸部の外部指導員、朱鷺先生です」
教室の扉が開き、一人の男が入ってきた。細身で、銀縁の眼鏡をかけ、上品なスーツを纏った知性溢れる人物だ。昨日の屋上にいた『顔のない男』とは、似ても似付かない。
だが、和希は確信した。その男が手に持つ、深紅のインクが充填された万年筆――FOUNTAINPENを見た瞬間に。
「……。……はじめまして、諸君。……。朱鷺克己だ。……。私は物語を愛している。……。特に、予測不能な展開の果てに訪れる、残酷で美しい終焉をね」
朱鷺と名乗った男の視線が、教室の最後列に座る和希を射貫いた。クラスメイトたちは、まるで操り人形のように一斉に拍手を送る。その音は乾いていて、感情が全く籠もっていなかった。
「……。……アイツ、堂々と現れやがったな。……。挑発のつもりか?」
和希は机の下で拳を握り締めた。
「……。……待って、和希くん。……。今ここで動くのは得策じゃないわ。……。周囲の生徒全員が、…… アイツの支配下にある人質と同じよ。……。迂闊に手を出せば、脚本に何を書き足されるか分からないわ」
咲季が低く鋭い声で制した。
「……。……リリシア、お前の魔力で、……皆の術を解けないか?」
「……。……やってみるわ。……。でも、……相手の力が巧妙すぎて、……一気に解放すれば精神への負荷が強すぎます。……。……少しずつ、侵食を食い止めるしかないわ」
授業は淡々と進んだ。だが、その内容は異質だった。朱鷺は教科書を開くことさえせず、黒板に流麗な筆致で物語の構文を書き連ねていく。
『勇者は自らの手で、守るべき存在を傷つける』
『聖女の祈りは届かず、世界は赤く染まる』
『傍観者は喉を焼き、真実を語れなくなる』
その一節が書き終わるたびに、教室の温度が一度ずつ下がっていくような錯覚を覚える。
「……。……っ、……ふざけるな……!!」
休み時間のチャイムが鳴った瞬間、和希は席を立ち、廊下へ出ようとする朱鷺の前に立ちはだかった。
「……。……やあ、神代和希君。……。私の講義は面白かったかな?」
「……。お前、……何が目的だ。……。学校を巻き込んで、……何を企んでいる」
「……。……企む? ……。心外だな。……。私は最高の物語を完結させたいだけだよ。……。君という主人公が、極限の絶望の中で見せる『真実の表情』……。それを描写したい。……。ただ、それだけだ」
朱鷺は慈悲深い聖職者のような微笑みを浮かべ、万年筆の先で和希の胸元を指した。
「……。次の章を始めようか。……。放課後、旧校舎の図書室で待っているよ。……。来なければ、……クラスメイトたちの設定を『消去』せざるをえない」
朱鷺は軽やかな足取りで去っていった。
「……。……クソッ……!」
「……。……和希くん、落ち着いて。……。……これは罠よ。……。明確な誘いだわ」
咲季が和希の手を握り、その震えを抑えた。
「……。……でも、……行くしかないわ。……。……皆んなを、放ってはいられません」
リリシアの表情も硬い。三人は無言で頷き合った。
放課後。夕闇に染まった旧校舎は、以前のベルナルドの時とは比較にならないほど濃密な魔力の渦に呑み込まれていた。
図書室の重厚な扉を開けると、そこには幾千もの本が宙に浮き、紙片が吹雪のように舞う異様な空間が広がっていた。
「……。……ようこそ、諸君。……。最終稿の打ち合わせを始めようか」
図書室の中央、朱鷺が一脚の椅子に腰を掛けていた。彼の周囲では、舞い散る紙片が結合し、黒い鎧を纏った『文字の兵士』たちが次々と産出されている。
「……。咲季、リリシア! ……。供給だ!!」
「……。……ええ! ……。分かったわ、和希!!」
和希は迷いなくリリシアを抱き寄せた。二人の魔力が交差し、黄金の光が図書室を満たす。
「……。一対の絆、…… サキュバス・エンチャント!!」
咲季が翼を広げ、二人の愛を純化した魔力へと変換する。和希の手には、眩い光を放つ聖剣――HOLYSWORDが形作られた。
「……。……無駄だよ。……。どんなに力を高めても、…… この空間では私が『執筆者』だ。……。君の剣は、次の行で折れる……と、書けばね」
朱鷺が万年筆を一閃させた。
衝撃波ではない。和希の脳内に、直接『剣が折れる』という概念が流れ込んでくる。実際に、和希が握る聖剣に亀裂が入った。
「……。……和希くん!!」
「……。……くっ、……負けるか……!!」
「……。……おや、……まだ抗うのか。……。……なら、演出を変えよう。……。聖女を、……魔物に変えてしまおうか」
朱鷺の万年筆が、リリシアの足元を指す。黒いインクが触手のように伸び、彼女の脚を絡め取ろうとする。
「……。……そんなこと、…… させないわ!!」
咲季が間に割って入った。彼女は自らの指を噛み、溢れ出した鮮血をインクに叩き付けた。
「……。私の前で、……物語を支配しようなんて百年早いわよ、三流作家!! ……。サキュバスの真髄は、……他者の空想を貪り、自分の快楽に書き換えることなのよ!!」
咲季の魔力が、朱鷺のインクを侵食し始めた。黒い文字が、鮮やかな桃色に変色していく。
「……。……ほう。……。私の設定を食べるか。……。……面白い。……。……だが、それだけでは不足だ」
朱鷺は立ち上がり、初めて殺気を露にした。
「……。……咲季、助かった!! ……。リリシア、全力でいくぞ!!」
「……。……はい!!」
和希は折れかけた剣を強引に魔力で繋ぎ止め、朱鷺へと詰より一撃を放つ。
図書室に、光と闇の火花が散る。三人の共同戦線は、未知の領域へと突入していった。
(第23話へ続く)




