【第20話】甘い供給と放課後の狩人
朝日が窓から差し込み、和希の部屋を照らし出す。
昨日までの日常であれば、そこには平和な二度寝の誘惑があるはずだった。だが、今の和希の目の前に広がっているのは、神話の一節を具現化したような、あるいは最先端の美少女ゲームの一場面のような、混沌とした朝食の風景だった。
「……。……ふふ。……。和希、今日の味噌汁も絶品だわ。……。あぁ、朝から貴方の手料理をいただけるなんて、……私、世界で一番の幸せ者だわ」
和希の左隣で、朝露を含んだ百合のように清純な笑顔を浮かべているのは、異世界の聖女ことリリシアだ。彼女は和希の腕を抱き抱え、当然のように一口、和希の箸から具を奪っていく。
そして、その正面には。
「……。朝から甘ったるいわね。……。おかげで、朝食のパンを焼かなくても勝手にお腹が膨れそうだわ」
和希の幼馴染であり、その正体を愛の捕食者――サキュバスであると明かした咲季が、呆れたように紅茶を啜っていた。
「……。咲季……、お前、いつまで俺の家で寛いでるんだ。……。お前の家は隣だろ」
「……。何を今更。……。共犯者になったんだから、福利厚生くらい認めなさいよ。……。それに、リリシアが溢れ出させてる『愛のドロップ』を鮮度が落ちる前に回収しなきゃいけないんだから。……。ほら、和希くん、もっとしっかりリリシアを甘やかしなさい。……。朝食のデザートに一口、ドロップを頂きたいんだから」
咲季が退屈そうに指を鳴らす。すると、リリシアの体から淡い桃色の光が漏れ出し、空中に一つの宝石のような結晶が形作られた。
「……。……あ、……」
咲季はその結晶を片手で摘み、躊躇なく口へ放り込んだ。一瞬、彼女の頬が朱く染まり、背中から半透明の翼がピクリと震える。
「……。最高ね。……。昨日より更に純度が上がってるわ。……。聖女の献身と、勇者への独占欲……隠し味に嫉妬が少々。……。極上のフルコースだわ」
「……。本当に食べてるんだな……。……というか、俺を食事の材料に仕立てるのは止めてくれないか」
「……。何を贅沢な。……。貴方はただ愛されていればいいのよ。……。それが私の命を繋ぎ、世界の平和を守るための燃料になるんだから」
和希は深い溜息をついた。正体を隠していた頃の咲季は、どこか一線を引いた冷静な幼馴染だった。だが、吹き切れた今の彼女は、自分の欲望と目的に対して、清々しいほど貪欲だった。
「……。……さあ、和希、学校へ行きましょう! ……。今日は貴方の隣を誰にも譲りませんからね」
「……。……ああ、分かったよ、リリシア。……。……おい咲季、お前も行くんだろ」
「……。ええ。……。今日の学校は、なんだか気味の悪い匂いがするからね。……。食べ残しが悪さをしないように、見張っておかないと」
三人での登校は、学園に激震を走らせた。
校門を潜った瞬間から、和希への羨望と嫉妬の視線が矢のように降り注ぐ。学園の二大美少女を両脇に従えた和希の姿は、一部の男子生徒にとっては存在そのものが異端審問の対象だった。
だが、和希はそれどころではなかった。
「……。……和希、気づいていますか? ……。空気が、……淀んでるわ」
リリシアが小さく囁く。彼女の聖女としての感覚が、学園に漂う不自然な魔力を察知していた。
「……。ああ。……。昨日のベルナルドを倒したとき、茨は消えたはずだが……。……。廊下を歩く生徒たちの顔、何かおかしくないか?」
和希が指摘した通り、すれ違う生徒たちの瞳は、どこか焦点が合わず、生気を失っていた。活気があるはずの休み時間の喧騒も、どこか空疎で、機械的な響きを帯びている。
「……。ベルナルドの残した『プロットの残滓』ね。……。……アイツ、自分が書き残したバッドエンドの物語が、作者を失って暴走してるわ。……。完成しなかった未完成の絶望が、寄り代を求めて生徒たちの心を蝕んでいるのよ」
咲季が冷徹な分析を下す。彼女の桃色の瞳には、一般人には見えない負の感情の糸が、蜘蛛の巣のように学園中を覆っているのが見えていた。
「……。……リリシアは、ここで待ってて。……。俺が一人で探ってくる。
「……。何言ってるのよ! ……。私達は運命共同体なのよ。カズキが行なら私も共に行きます!」
リリシアの瞳には迷いがなかった。和希は彼女の強い意志に押されながらも、確かな不安を抱いていた。昨日のベルナルドとの戦い、和希が闇に呑まれたときの、リリシアの悲鳴がまだ耳に残っている。
「……。……なら、私の新しい処方箋を試してみる? ……。和希くん、貴方たちの『力』は、単体ではまだ不安定よ。……。でも、私という『触媒』を通せば、効率よく最大火力を出せるわ」
「……。新しい処方箋……? ……。嫌な予感しかしないんだが」
「……。不服? ……。……まあ、実戦で見せてあげるわよ。……。来たわね、放課後の招かれざる客」
咲季が指差した先、旧校舎の窓から、漆黒の霧が溢れ出していた。それらは瞬く間に形を成し、昨日現れた騎士たちよりも、さらに歪で巨大な「絶望の狩人」へと変貌していく。
「……。……リリシア、行くぞ!!」
「……。ええ、カズキ!!」
放課後の無人となった旧校舎の屋上。沈みゆく夕陽が、三人の影を長く伸ばす。
「グガ、……アアアア……ッ!!」
「絶望の狩人」が、鋼のように鋭い爪を振り下ろす。リリシアは即座に杖を掲げ、黄金の障壁を展開した。
「……。くっ、……重い! ……。……なんて禍々しい魔力……!」
「……。怯むな! ……。はあぁっ!!」
和希が横から斬り込むが、狩人の霧の身体は物理の刃を透過させ、直後に放たれた衝撃波が和希を後方へと弾き飛ばした。
「……。……和希!!」
「……。甘いわね。……。ただ力をぶつけるだけじゃ、物語の強制力には勝てないわよ」
咲季が、一歩も動かずに戦況を見守っていた。彼女の瞳は妖しく輝き、背後には堂々たる蝙蝠の翼が羽ばたいている。
「……。和希くん、今よ。……。私が言った供給を行いなさい。……。リリシアを抱き寄せて、彼女の中にある不安を『確信』に変えるの」
「……。……そんなこと、今この状況で……!」
「……。恥ずかしがってる暇があるなら、私に最高の食事を提供しなさいよ! ……。早く!!」
狩人が再び鎌を振り上げる。和希は意を決し、膝をついたリリシアの元へと駆け寄った。
「……。リリシア、失礼するね……!」
「……。……え、……あ、……和希……?」
和希は彼女の細い腰を強く引き寄せ、その額を自分の胸に押し当てた。密着する二人の体温。リリシアの心臓の鼓動が、腰に回した和希の掌を通して激しく伝わってくる。
「……。……信じてくれ、リリシア。……。俺は、どこへも行かない。……。お前の隣は、……誰にも譲らない!」
「……。……! ……。はい……、……はい、カズキ!!」
リリシアから、過去最大の黄金の魔力が溢れ出した。それと同時に、彼女から放出された桃色のドロップの奔流を、咲季が両手を広げて全て受け止める。
「……。……ああ、……これよ、……これだわ! ……。満たされる……、……最高の愛の波動……!!」
咲季の全身が、まばゆい桃色の閃光に包まれる。彼女は吸収したエネルギーを、サキュバスの秘術によって純粋な『強化バフ』へと変換し、再び和希とリリシアへと還元した。
「サキュバス・エンチャント――『一対の絆』!!」
和希の手に剣が召喚され、全身が虹色の魔力に包まれる。
そして、リリシアの障壁は絶対の盾へと昇華された。
「……。……いける。……。力が溢れてくるぞ……!」
「……。和希、共に参りましょう!!」
和希の一閃が、虚空を裂いた。狩人の巨体は、その強化された一撃によって真っ二つに断たれ、絶望の霧は一瞬にして霧散した。
「……。……。……はぁ、……はぁ……。……やった……のか?」
和希が剣を下ろすと、屋上に静寂が戻る。淀んでいた空気は澄み、下の校舎からは、自我を取り戻した生徒たちの騒めきが聞こえてきた。
「……。ふぅ。……。御馳走様。……。最高のフルコースだったわよ、和希くん」
咲季が満足げに唇を舐める。彼女の肌は艶やかさを増し、瞳の輝きも一層深まっていた。
「……。……あ……、……カズキ……。……なんだか、……腰が抜けてしまいましたわ……」
リリシアが陶酔したような表情で、和希に体重を預けてくる。供給の反動か、彼女の瞳は潤み、和希を見つめる視線には隠しようのない情愛が灯っている。
「……。供給後のリバウンドね。……。私の魔力と勇者の濃厚な魔力を直接浴びすぎたのよ。……。しばらくは、甘えん坊の聖女に付き合ってあげてね」
「……。咲季、お前……知ってて仕組んだだろ」
「……。何のことかしら」
咲季は知らん顔で踵を返した。
勝利の代償は、和希のさらなる多難な日常だった。だが、沈む夕陽の中で、離れようとしないリリシアの温もりを感じながら、和希は自分が守り抜いたものの重みを噛み締めていた。
しかし、彼らはまだ知らなかった。
ベルナルドの残した未完成の物語を、闇の中から静かに拾い上げ、ペンを握り直す『真の執筆者』の影が、すぐ傍まで迫っていることを。
(第21話へ続く)




