【第19話】平穏な食卓と桃色の追憶
死闘を終え、夕闇に包まれた和希の自宅には、いつものように夕飯の湯気が立ち上っていた。
だが、食卓を囲む空気は、昨日までとは明確に異なっていた。
「……。……。……はぁ。……。結局、こういう流れになるのね。……。私の静かな学園生活は、今日を境に公式に終了したってわけ」
和希の向かい側、当然のような顔をして椅子に座っているのは、幼馴染の咲季だ。彼女は慣れ親しんだ手付きで箸を取り、和希が作った肉じゃがを物欲しそうに見つめている。隣ではリリシアが、和希が丁寧に盛り付けた器を前に、聖女らしからぬ真剣な眼差しで咲季を観察していた。
「……。いいじゃないか。……。ニ人も三人も手間はそんなに変わらないし。……。それに、……改めて話を聞かせてもらう約束だろ」
和希は自分の分の箸を置き、姿勢を正す。
和希、咲季、そしてリリシア。三人とも現在の年齢は十七歳。同じ学園に通う同級生という枠組みの中に、今や『勇者』『聖女』『サキュバス』という規格外の属性が混ざり合っていた。
「……。そうよ。……。咲季……、貴女が本当はサキュバスという魔族であったこと。……。そして、……私と同じく異世界からの来訪者であること。……。……正直、今でも脳が理解を拒んでいますけれど、あの翼と熱を知ってしまった以上、……認めざるをえないわ」
リリシアの言葉に、咲季は面倒くさそうに頬杖を突き、空いた手で自分の首筋を掻いた。
「……。隠しておくつもりだったんだけどね。……。まあ、あんな派手に翼を出しちゃったら手遅れか。……。……そうよ。私の正体は魔族。名前の由来からして、出来すぎていると思わない? ……。咲季、サキ、……“サキ”ュバス。……。親に名付けられた時は知る由もなかったでしょうけど、……皮肉な話よね」
「……。……。……ああ、……本当だ。……。サキ……サキュバス……。…………納得した。……。いや、むしろ今まで気づかなかった俺の鈍感さを呪いたくなるレベルで腑に落ちたよ」
和希が真顔で深く頷くと、咲季が即座に湯飲みを机に叩き付けた。
「……。ちょっと、簡単に納得しないでよ! ……。私だって、自分の名前の意味と、背中に生えかけてる小さな羽の共通点に気づいた時は驚いたんだから! ……。両親は普通の人間よ? ……。産まれた娘が、まさか異世界の淫魔の生まれ変わりなんて、誰が信じるっていうのよ。私だって、名付けの瞬間の神の悪戯を恨んだわ」
「……。……咲季、……貴女、前世からその……性格だったのですか?」
リリシアが恐る恐る尋ねる。咲季は少しだけ遠い目をして、茶柱の立った茶を啜り始めた。
「……。前世、ね。……。……貴女がいた聖都とは天と地ほどの差がある、地獄のような魔界の片隅よ。……。私はそこで、狡賢く立ち回って、獲物から愛を吸い取り、欲望を糧にして生きる、ただの下級サキュバスだったわ。……。でも、ある日、強すぎる魔力の衝突……次元震のようなものに巻き込まれて命を落とした……次に目を覚ました時は、眩しい蛍光灯の光と、自分でも驚くほど高い産声を聞いていたわ。……。そう、十七年前の、この町の産婦人科でね」
咲季は溜息をつき、肉じゃがのジャガイモを不機嫌そうに口へ運んだ。
「……。産まれてからの数年間は、生きるための屈辱の連続だったわ。……。中身は魔界を生き抜いた女なのに、実際の身体は首も据わらない赤ん坊。……。母親に抱っこされて、隣に住む和希くんのお母さんに『あら可愛いわね』なんて頬を突つかれる度、私の魔族としての誇りは磨滅していったわ。……。……でも、その時にいつも隣にいたのが、……和希くんだったのよね」
「……。俺、何かしたっけ? 記憶にあるのは泥団子を作ってた事くらいだけど」
「……。何も覚えてないのね。貴方のそういう所、昔から変わらないわ。……。私が三歳の頃、……公園の砂場で貴方は泣きじゃくる私に向かってこう言ったのよ。『サキは弱そうだから、俺が守ってやる。悪の大魔王が来ても、俺が剣で追い払ってやるから!』って。……。当時の私は激怒したわ。……。歴戦の魔族を捕まえて『守る』なんて。……。だから、本能のままに、貴方に向かって全力で『魅了』の視線を送ったの。サキュバスの究極の秘技を、幼児の身体でね」
「……。それで、……どうなったのです? 和希が骨抜きに?」
リリシアが身を乗り出す。
「……。……逆よ。アイツ、鼻をほじりながら『サキ、変な顔してどうした? 目に砂でも入ったのか? 痛いなら洗ってやろうか?』って言いながら、せっかく作った砂山を豪快に踏み潰したのよ。……。私の魔族としての自尊心も一緒にね。……。それからよ。小学生になっても、中学生になっても、私のあらゆる色香も、無意識に漏れ出すサキュバスの特権たる誘惑も、……この和希という男には塵一つほども効かなかった。……。勇者の血が本能的に拒絶していたのか、単なる天性の鈍感なのか知らないけれど、私にとっての最大の屈辱であり、……同時に唯一、裏表なく接せられる存在になっていったの」
和希は頭を掻きながら苦笑した。確かに昔から、咲季の周りの男子が彼女の一挙手一投足に一喜一憂し、時に争い始めるのを、不思議に思って仲裁に入っていた記憶がある。
「……。……悪かったな。……。お前がそんな壮絶な葛藤を抱えていたなんて、微塵も気づかなかったよ」
「……。……ふん。今更よ。……。そのおかげで、私は『魔力に頼らない人間構築』の術を嫌というほど叩き込まれたんだから。……。十七年間、ずっと隣で貴方を観察し続けてきたわ。……。だから、リリシアが突然現れた時も、一目で理解できた。……。これこそが私の渇いた日々を潤す『最高の素材』だってね」
咲季は箸を置き、挑発的な笑みを浮かべてリリシアを見据えた。
「……。リリシア。……。私は貴女を徹底的に利用させてもらうわよ。……。貴女から溢れる『真実の愛』は、……この世界の空虚な執着とは次元が違うほど芳醇なの。……。貴女を和希くんと共鳴させて、最高の鮮度で『愛のドロップ』を精製させる。……。それが、私がこの世界で魔族として、そして女として謳歌するための最適な答えなのよ」
「……。……利用、ですか。清々しいほどの宣言ですわね。……。……でも、望むところよ、隣のサキュバスさん! ……。私のカズキへの想いが、……貴女の命を繋ぐ糧になるというのなら、……いくらでも甘い時間を見せつけて差し上げるわ! ……。その代わり、カズキの隣という特等席だけは、……絶対に譲りませんからね!!」
リリシアが和希の腕をこれでもかとばかりに抱き寄せ、顔を赤くしながらも咲季を睨み付ける。
「……。譲るも何も、私には効かないんだから食欲以外に興味はないわよ。……。……ただ、……和希くん。……。供給は計画的に行いなさいよ? ……。リリシアの魔力が溢れすぎて暴走でもしたら、私の晩餐が台無しになるんだから」
「……。……結局、俺の扱いは据え置きか。……。……まあ、いいさ。三人とも十七歳。まだまだ先は長いんだ。……。腹を括るよ」
和希は苦笑しながら、最後の肉じゃがを口に放り込んだ。昨日までとは全く質の異なる、騒がしくも温かな夜の静寂が、住宅街に広がっていく。
サキュバスの幼馴染と、異世界の聖女。二人の強烈な少女の間で、勇者としての自覚を強める和希の奇妙な新生活は、未だ序章を終えたばかりであった。
(第20話へ続く)




