【第18話】共鳴する鼓動と虚構の監獄
境界を越えた先、そこは物理の法則が捻じ曲げられた「物語の裏側」だった。
鉛色の空はさらに低く垂れ込め、足元を流れる川は水ではなく漆黒の文字の羅列でできている。リリシアと咲季が踏み込んだのは、ベルナルドが構築した精神牢獄――和希を絶望の淵へと叩き落とし、物語を完結させるための舞台だった。
「……。……くっ、……空気が、……重いわ。……。まるで文字の壁を押し分けて進んでいるような……」
リリシアが肩で息をしながら杖を握り直す。咲季から分けられた桃色の魔力が、彼女の体内で脈動し、崩壊しようとする自我を辛うじて繋ぎ止めていた。
「……。当然よ。……。ここは彼の執筆エネルギーが渦を巻く領域。……。私たちの『存在』そのものを、設定ごと消し去ろうとしているんだわ」
咲季の瞳は冷静だった。十七年という歳月をこの世界で過ごし、異世界の理を知るサキュバスとして、彼女はこの空間の歪みを正確に把握していた。
「……。……見なさい、リリシア。……。あそこよ」
咲季が指差した先、文字の奔流の中心に、巨大な檻のような影が浮かび上がっていた。その中には、幾重にも巻き付けられた黒い鎖に拘束された和希の姿があった。
「……。……カズキ!!」
リリシアが叫び、駆け出そうとする。だがその瞬間、足元から無数の影が這い出し、二人の行く手を阻んだ。
「……。待ちなさい。……。罠に決まっているわ」
咲季がリリシアの腕を掴み、強引に止める。目前に立ちはだかったのは、顔のない漆黒の騎士たち――ベルナルドが召喚した「物語の番人」だった。
「……。ククク……。……。来たか、迷い込んだ羊たちよ」
檻の傍らで、ベルナルドが不気味な笑みを浮かべて立っていた。その手には、黒く濁った液体が満たされた杯が握られている。
「……。ベルナルド!! ……。カズキを……、和希を返しなさい!!」
「……。返す? ……。滑稽なことを言う。……。この勇者はすでに、自己の殻に閉じ籠もっている。……。見るがいい、この溢れ出す絶望を」
ベルナルドが檻を示すと、和希を縛る鎖から、真っ黒なドロップが雨のように零れ落ちていた。和希の瞳は虚ろで、リリシアたちの呼びかけに応える様子はない。
「……。……カズキ……? ……。そんな……、嘘だわ……。……。和希が、そんなに簡単に折れるはずがないわ!!」
「……。……リリシア、落ち着きなさい。……。あれは本質の絶望じゃないわ。……。ベルナルドが彼に見せている『偽りの記憶』が生み出しているものよ」
咲季が一歩、前に出る。彼女の瞳は、檻の中の和希ではなく、周囲の空間そのものを射抜いていた。
「……。和希くんはオタクなのよ? ……。あんなチープな絶望に浸るほど、安い感性はしていないわ。……。ベルナルド、貴方の演出は三流ね」
「……。……三流だと? ……。……サキュバスの端くれが、私の紡ぐ終焉に口を挟むか」
ベルナルドの眉がピクリと動く。彼が腕を一振りすると、黒い騎士たちが一斉に襲い掛かってきた。
「……。リリシア、道は私が作るわ。……。貴方は最短距離で彼の懐に飛び込みなさい!」
「……。……ええ、承知したわ!!」
咲季の背中から、今度は明確な形を持って蝙蝠の翼が展開された。彼女が舞うたびに、桃色の燐光が嵐となって吹き荒れ、黒い騎士たちの陣列を食いちぎっていく。
「……。……サキュバスの真髄、見せてあげるわ。……。全ての感情は、私の手のひらの上よ!!」
咲季が指を鳴らすと、騎士たちの動きがピタリと止まった。彼らはベルナルドの支配を離れ、互いに抱き合い、愛を囁き始めたのだ。戦場に突如として現れた狂気の愛の光景。
「……。……なっ、……精神操作だと!? ……。無機物に近い彼らにまで……!」
「……。愛に境界なんてないのよ。……。さあ、リリシア、今よ!!」
リリシアは咲季が開けた一筋の道を全力で駆けた。途中、幾度も茨が足を掠め、ワンピースの裾を引き裂くが、彼女は止まらなかった。
檻の前に辿り着くと、リリシアは杖を力一杯に振り下ろした。
「リミット・オーバー・ホーリー!!」
虹色に染まった聖|なる波動が爆発し、和希を拘束していた檻と鎖を粉砕した。
崩れ落ちる和希の体を、リリシアが必死に抱き止める。
「……。……カズキ! ……。……しっかりして、カズキ!!」
しかし、和希の意識はまだ戻らない。彼の胸元からは、依然として黒い絶望の波動が滲み出している。
「……。……無駄だ。……。……彼の心はすでに、私の用意した『|バッドエンド』に侵食されている。……。もはや、いかなる光も届かぬ」
ベルナルドが苛立ちを隠さずに杖を構え、広範囲の殲滅魔法を練り始める。
「……。……そんなこと……あるわけないわ。……。……だって、カズキは……」
リリシアは和希の頬に手を添えた。その冷たさに胸が締め付けられる。
「……。……和希くん! ……。いつまで寝ているのよ!!」
背後から咲季の怒鳴り声が響く。彼女はベルナルドの攻撃を身を挺して防いでいた。
「……。……このままだと、私もリリシアも死ぬわよ! ……。貴方の大切な二人のヒロインを、こんな場所で終わらせるつもり!? ……。そんなの、貴方の大嫌いな『バッドエンド』じゃない!!」
「バッドエンド」――その言葉に、和希の指先が僅かに動いた。
「……。……あ……。……。……う……」
「……。……カズキ!!」
リリシアがその名前を呼び続ける。自分の中に残っている咲季からの魔力――その全てを絞り出し、和希へと流し込んだ。
愛のエネルギーが、和希の凍て付いた心を溶かしていく。
和希の脳裏に、偽りの絶望ではない、本当の記憶が蘇る。毎日のように交わした軽口、リリシアが見せた不器用な笑顔、そして咲季が見守り続けてくれた穏やかな日常。
「……。……っ、……はぁ……!!」
和希の瞳に光が戻った。彼はリリシアの手を握り返し、力強く立ち上がった。
「……。……リリシア、……咲季……。……。……わるい、……待たせたな」
和希の体から、今までとは比べものにならないほどの黄金の魔力が噴き出した。それは精神牢獄の壁を次々と破壊し、漆黒の世界に夜明けをもたらしていく。
「……。……なっ……!? ……。勇者の力が……これほどまでに……!」
狼狽するベルナルドを、和希が鋭い眼光で射抜く。
「……。ベルナルド。……。お前の書いたシナリオは、……今ここでボツだ」
和希がリリシアの腰を引き寄せ、彼女の唇に深い接吻を落とした。
「……。んっ、……ふあぁ……!!」
正規の、そして最大の供給。
聖女の魔力と、勇者の魂、そして隠されていたサキュバスの情愛が一つに溶け合う。
三人の想いが結実した輝きは、暗黒の魔術を塵も残さず焼き払い、歪んだ精神牢獄を内側から崩壊させた。
光が収束したとき、そこには再び、夕暮れの校門の前に立つ三人の姿があった。
ベルナルドの姿はどこにもない。ただ、彼の放っていた禍々しい茨だけが、枯れ果てて足元で砂へと変わっていった。
「……。……ふぅ。……。……ようやく終わったわね」
咲季が翼を消し、いつもの女子高生の姿に戻る。だがその表情には、どこか晴れやかな充足感が漂っていた。
「……。……カズキ、……和希!!」
リリシアが和希の胸に飛び込む。和希はそれをしっかりと受け止め、彼女の頭を優しく撫でた。
「……。リリシア、……怖い思いをさせたな。……。……それから、……咲季」
和希が幼馴染に視線を向ける。
「……。……お前の正体、……驚いたけど。……。……助かった。……ありがとう」
「……。……べ、別に貴方のためにやったわけじゃないわよ。……。私のドロップの鮮度を保ちたかっただけ」
咲季はプイと横を向いたが、その耳たぶは僅かに赤く染まっていた。
事件は一段落した。しかし、咲季の正体が判明し、リリシアとの奇妙な共生関係が始まった今、和希の日常はさらに賑やかで、そして危険なものへと変貌しようとしていた。
(第19話へ続く)




