【第17話】深淵の接吻と桃色の真実
和希の姿が影の底へと沈み、ベルナルドの高笑いと共に消失してから、どれほどの時間が経過しただろうか。
現実には数秒にも満たない刹那だったのかもしれない。だが、リリシアにとっては、永遠にも等しい絶望の淵だった。
「……。……。……あ、……あ、……」
震える指先が、虚空を掴もうとして、空を切る。
喉は焼けるように熱く、視界は涙と暗闇に混じり合って歪んでいく。昨日までの幸福な記憶が、今は鋭い刃となってリリシアの心を削り取っていた。足元には、送り主を失ったネックレスが、泥に塗れて転がっている。
だが、世界はリリシアの嘆きを待ってはくれない。
ベルナルドの残した紫の茨が、戦意を失った獲物を仕留めるべく、意志を持つ蛇のように鎌をもたげた。
「……。……危ないわよ、リリシア!!」
鼓膜を劈くような鋭い叫びと共に、背後から一つの影が飛び出した。
リリシアの華奢な肩を強引に突き飛ばしたのは、咲季だった。
直後、リリシアがいた場所を、数本の漆黒の茨が貫いた。石造りの校門が飴細工のように粉砕され、轟音が周囲に響き渡る。
「……。……。……咲季……。……どうして……。……カズキが、……和希がいないのに、戦っても……何の意味が……」
リリシアの瞳からは生気が失われていた。昨日手に入れたばかりの「居場所」を奪われた彼女にとって、この世界は再び色を失った荒野に過ぎなかった。
「……。しっかりしなさい! ……。私も大切な友人を傷つけられたのよ。……。今の私は猛烈に機嫌が悪いの。……。あんな気味の悪い茨の野郎に、二人まとめて喰われるなんて御免だわ!」
リリシアもまた、生存本能に急かされるように杖を握り直した。だが、一歩踏み出そうとした瞬間、全身の骨が軋むような激痛が彼女を襲った。
「……。……っ、……ぁ、……!? ……。力が……。……。魔力が……、……消えて……」
リリシアの体内で、魔力を練る回路が悲鳴を上げていた。聖女であるリリシアの魔力は、勇者である和希との「結合」によって供給され、循環することで維持されている。供給源である和希が消えた今、リリシアの命の灯火は、燃料を絶たれたランプのように、急速に細くなっていた。
「……。……はぁ、……はぁ……。……だめ、……だわ。……。カズキ……、……あなたの、魂の愛を、……熱を注が……ないと……私は……」
リリシアの肌から赤みが引き、陶器のように白く、冷たくなっていく。指先から崩れ落ちるように倒れ込んだリリシアの体を、咲季が間一髪で抱き止めた。
「……。リリシアさん! ……。……。……これ、本当に不味いわね。和希くんがいないだけで、こんなに脆いなんて。……。供給さえあれば、動けるのね?」
「……。……咲季……、……逃げ……なさい……。……。貴女まで、……カズキの……大切な友達まで、……失うわけには……」
リリシアの途切れ途切れの言葉を、咲季は鼻で笑って受け流した。
「……。逃げるわけないでしょ。……。私の『最高の素材』を、ここで腐らせるわけにはいかないの。……。仕方ないわね。……。内緒にしておきたかったけれど、推しの死に顔を拝むのは、私のポリシーに反するわ」
咲季の瞳が、妖しく桃色に輝きを変えた。
冷淡だったはずの彼女の雰囲気が、一変する。全身から溢れ出すのは、心を蕩けるような、甘く、危険な芳香。彼女の背後には、幻影のような蝙蝠の翼が一瞬だけ羽ばたき、その頭上には逆さまのハートが形作られた。
「……。目を閉じて。……。私の『愛』を、貴方に分けてあげる」
リリシアが目を見開く間もなかった。
咲季の柔らかな、そして熱い唇が、リリシアの乾いた唇に容赦なく重なった。
「……。……んっ!? ……。…………っ!!」
リリシアの全身に、稲妻のような衝撃が走った。
和希の供給が、荒々しくも純粋な、生命そのものの迸りだとするならば、咲季のそれは全く異なっていた。深い海の底に沈められるような、抗い難い情愛と、濃密な魔力の濁流。
枯れ果て、亀裂の入っていたリリシアの魔力回路が、その甘い毒によって瞬く間に修復されていく。血管を駆け巡る魔力が、リリシアの瞳に鮮やかな色彩を取り戻させた。
「……。ふぅ。……。……驚いた? ……。……上手くいってよかったわ。……。これでも私、十七年もこの世界で偽りの女子高生をやってきたのよ」
唇を離した咲季は、呆然とするリリシアを尻目に、不敵に微笑んだ。
「……。咲季、……貴方、今の魔力は……。……。……それに、今背後に見えたのは……」
「……。ええ、見た通りよ。……。私の正体は、愛を糧とする魔族――サキュバス。……。十七年前、この和希くんの家の隣に住む平凡な夫婦の元に、記憶を持ったまま転生して産まれ落ちたのよ」
咲季は淡々と、だがどこか懐かしむように語り始めた。
「……。だから、この世界の理から外れた事象には、最初から驚かなかった。……。リリシア、貴方がこの世界に降臨した瞬間も、和希くんが『勇者』の血を目覚めさせた瞬間も、私はすべて知っていたわ。……。なぜなら、私はこの世界で生き長らえるために、『愛のドロップ』を必要としていたから」
リリシアは目を丸くした。
「……。……! ドロップを集めていたのは、……私だけではなく……!」
「……。ええ。……。私のようなはぐれサキュバスにとって、この魔力の薄い世界は、常に飢餓との戦いなの。……。リリシアが来るまでは、街の一般人たちの淡い感情を密かに突いて、一日に一つ、二つ程度のドロップを作るのが限界だったけれど。……。でも、貴方たちは違ったわ。……。異世界の高純度な感情から産まれるドロップは、私にとっての『至高の晩餐』だったのよ」
咲季の言葉には、冷徹な観察者としての響きと、共犯者としての親愛が混ざり合っていた。
「……。リリシア、勘違いしないで。……。私は愛を操ることはできるけれど、自分で産み出したドロップを自分で食べることはできないの。……。だから、貴方が必要だった。……。貴方が和希くんに抱く『本物』の恋心こそが、私の命を繋ぐ糧だったのよ」
「……。……。……食えない女ね。……。……でも、……どうして和希の供給が、……貴方の口づけで代用できたの?」
リリシアが赤みが差した頬を押さえながら問う。
「……。サキュバスの本能よ。……。私の魔力は『愛』を触媒にして変質する。……。今、私の中には、十七年間溜め込んできた、ある『想い』が詰まっているから。……。それを使えば、和希くんの代わりに貴方の回路を満たすことくらい、造作もないわ」
「……。……ある想い?」
「……。……さあ、何のことかしら」
咲季は視線を逸らした。
赤ん坊の頃から、和希という存在には彼女の魅了の力が全く通用しなかった。サキュバスとしてのプライドをズタズタにされながらも、彼女はいつしか、力に頼らない「本当の絆」を彼に見出していたのかもしれない。だが、それを口にすることは、彼女の傲慢さが許さなかった。
「……。……。和希くんを助けに行くわよ、リリシア。……。私の『最高の定食屋』を、あんな暗い場所に閉じ込めておきたくないの。……。これ以上、私を飢えさせないでちょうだい」
「……。……。……相変わらず言い方が腹立つわね。……。……でも、貴方の熱は、確かに伝わったわ」
リリシアが力強く杖を振り下ろすと、咲季の桃色の魔力が聖女の黄金の光と混ざり合い、虹色の奔流となって街を覆う茨を消し飛ばしていく。
「……。行きましょう! ……。聖女と、……稀代の悪女の二人がかりですわ。……。和希くんを奪ったこと、死を以って償わせてあげるわよ!」
二人の少女は、崩れゆく日常の境界へと、迷いなく飛び込んだ。
(第18話へ続く)




