【第16話】侵食するイバラと奪われた絆
「……。……。……あ、……」
リリシアの喉から、細い溜息のような声が漏れた。
学園の重い鉄扉を抜けた先に広がっていたのは、通い慣れた通学路などではなかった。昨日までの、日常の色彩は完全に剥げ落ちている。
足元のアスファルトには、まるで巨大な獣に爪を立てられたような亀裂が走り、その裂け目からは毒々しい紫色の茨が血管のように脈打ちながら這い出していた。茨は電柱を蛇のように締め上げ、信号機を噛み砕き、住宅の壁を容赦なく侵食している。
上空を見上げれば、そこには青い空などなかった。淀んだ鉛色の雲が渦を巻き、その雲間からは幻影のように、リリシアが捨ててきたはずの故郷――「聖都」の尖塔が、逆さまに吊り下げられたような形で浮かび上がっては消えていく。
「……。……。……和希、離れないで。……。これ、ただの異変じゃないわ」
リリシアの声は微かに震えていた。昨日、胸元にネックレスを贈られた時の、あの温かな微熱は、すでに冷たい戦慄へと塗り替えられている。
「……。ああ、わかってる。……。……大丈夫だ、リリシア。何があっても、俺が守るから」
和希は力強く頷き、新しくなった杖の柄をギュッと握りしめた。その言葉を裏付けるように、和希の体からは淡い黄金の光が溢れ出し、リリシアの杖に虹色の脈動を伝えていく。
「……。……。ふふ、本当にデリカシーのない勇者ね。……。……でも、今はその無鉄砲さに救われるわ」
リリシアは一歩、前に踏み出した。
「……。穢れた茨よ、道を空けなさい。……。私たちの『安息』を汚す不届き者は……私が、この手で断罪いたします!」
リリシアが杖を天に掲げると、和希の魔力が一気に増幅され、目を焼くような光の粒となって辺りに飛び散った。
「リミット・オーバー・ホーリー!!」
黄金の波動が、津波のように周囲に広がる。触れた先から、禍々しい紫の茨が白い灰へと変わり、道が開かれていく。昨日までのリリシアであれば、これほどの出力を出すことはできなかった。和希から贈られた想いが、彼女の魔力の本質をさらに高みへと引き上げていた。
だが。
「……。……。滑稽だな。……。偽物の平穏に酔い、聖女の誇りを忘れたか」
冷たく、鼓膜を撫でるような不快な声が、周囲の空間そのものから響いた。
「……。……っ!? この声は……!」
リリシアの顔から血の気が引いていく。
目前の空間が墨を流したように黒く濁り、そこから漆黒の法衣を纏った男が静かに姿を現した。
「……。……ベルナルド……!? ……。なぜ、貴方までここに……。貴方はあの戦いで、確かに……!」
「……。……死んだ、と言いたいのか? ……。……聖女よ、貴様はまだこの『世界』の理を理解していないようだな」
ベルナルドと呼ばれた男は、感情の欠落した瞳を和希に向けた。
「……。主……すなわち『魔王』が望む物語のために、配役は何度でも挿げ替えられる。……。私はただ、その意志を執行するために舞い戻ったに過ぎん」
「……。……魔王……! ……。何を言っているの……。……。私たちの運命を、勝手に決めさせはしませんわ!」
リリシアが再び杖を構えた瞬間、ベルナルドが音もなく手を動かした。
「……。……断絶の檻」
足元の影から、蛇のような黒い鎖が爆発的な速度で飛び出した。それはリリシアを狙うのではなく、その真横にいた和希を標的としていた。
「……。……っ、カズキ!!」
「……。えっ……がはっ……!?」
和希の四肢を、棘のついた鎖が無残に縛り上げる。鎖が食い込むたびに、和希の体を包んでいた黄金の光が剥ぎ取られ、黒く濁っていく。
「……。和希を放しなさい!! ……。この……、外道がっ!!」
リリシアは絶叫し、持てるすべての魔力を杖に込めた。しかし、ベルナルドの周囲には不可視の壁が張られており、黄金の光は虚しく霧散していく。
「……。……。無駄だ。……。……。今、この領域は私が紡ぐ『悲劇』の中にある。……。聖女の祈りなど、一行の描写ですら消し飛ぶ」
ベルナルドは嘲笑するように唇を歪め、鎖を強く引き寄せた。
「……。……。この男は、物語を真の結末へと導くための『生け贄』。……。勇者の絶望こそが、次の章を開く鍵となる」
「……。……な、……何を……。……。カズキは、……和希は関係ないわ!!」
リリシアはなりふり構わず、素手で黒い茨の壁を破ろうとした。細い指先から血が滲み、昨日身に着けたばかりの水色のワンピースが泥と茨で汚れていく。
「……。……リリシア……! ……。逃げ……ろ……っ」
和希が苦しげに声を絞り出す。鎖から流れ込む呪詛に抗いながら、彼はリリシアの安全だけを願っていた。
「……。嫌……、嫌よ!! ……。昨日、あんなに楽しかったのに……。……約束したじゃないの!! ……。これからも私を楽しませるって……!!」
リリシアの目から、大粒の涙が零れ落ちた。その涙が地面に触れた瞬間、足元から漆黒のドロップが激しい勢いで噴き出し、辺を埋め尽していく。
「……。……。終わりだ」
ベルナルドが地を這うような声で告げると、和希の足元の影が巨大な口のように開いた。
「……。……和希ーーーーっ!!」
リリシアが手を伸ばしたが、あと数センチのところで、和希の体は暗闇の中へと沈み、消失した。
「……。……。……次は、貴様の番だ。……。……地獄の中で、最愛の者が壊れていく音を聞くがいい」
ベルナルドの姿もまた、霧のように消えていく。
残されたのは、静寂と、毒々しい茨に支配された街だけだった。
地面には、激しい衝撃で千切れたネックレスが、無残に転がっている。昨日、二人で笑い合った証は、泥に塗れてその輝きを失っていた。
「……。……あ、……あ、……カズキ……」
リリシアは、糸が切れた人形のように、その場に膝をついた。
その背後で、一部始終を見守っていた咲季が、震える手でスマホを地面に叩き付けていた。
「……。……。……ふざけないで。……。こんなの、……私の記録したかった『物語』じゃないわよ……!!」
物語は今、最悪の形で加速し始めていた。
(第17話へ続く)




