翌朝。和希が教室の扉を開けると、そこには咲季と登校していたリリシアが座っていた。
いつもなら朝の陽光を背に受けて、尊大にふんぞり返っている彼女だが、今日はどこか様子が違う。彼女の胸元で瞬く一粒のクリスタルのネックレスが、制服の隙間から誇らしげに顔をのぞかせていたのだ。
「……。あ、おはよう、リリシア。……。……。……そのネックレス、やっぱりよく似合ってるな」
和希の無防備な一言に、リリシアの肩がびくんと跳ねた。
「……。……っ、なっ!? …… 。お、おはよう、この寝ぼけジャガイモ! ……。……。……いきなり何を言っているの。……。これは昨日の不手際の詫びとして、仕方なく身に着けてあげているだけよ!」
リリシアは顔を真っ赤にして顔をそむけた。だが、隠しきれないその気持ちは、彼女の指先が無意識にクリスタルを弄っている仕草に漏れ出している。
和希もまた、鼻の頭を掻きながら自分の席に座る。二人の周囲には、これまでになかった、どこか甘酸っぱい、桃色の空気が流れていた。
「あらあら……。朝からご馳走様ね。……。教室の温度が一気に三度くらい上がったのかと思ったわ」
背後から、氷のように冷たく、それでいて底意地の悪い楽しげな声が響いた。
咲季がいつの間にか背後に立ち、スマホを片手に妖しく微笑んでいた。その瞳の奥には、獲物を追い詰める捕食者のような冷徹な光が宿っている。
「咲季! お前、いつからそこに……」
「……。和希くんがリリシアの胸元をデレデレと眺めていた瞬間からかしら。……。……それにしても、いいデートだったわね。遊園地にイタリアン、そして締めくくりはネックレス……。最高のコースじゃない。和希にしては、なかなかの知能指数だわ」
「な……!? ……。な、なぜそれを貴方が知っているの!?」
リリシアが椅子を鳴らして勢いよく立ち上がると、咲季は無表情のまま、スマホの画面を二人に向けた。
そこには、観覧車の前で頬を染めて照れる二人の後ろ姿や、和希が緊張しながら彼女の細い首筋にネックレスを掛けている、あの決定的な瞬間までが、プロのカメラマンも裸足で|逃げ出すほどの構図で鮮明に収められていた。
「……。尾行よ。当然じゃない。……。放課後の部活動として、二人の『力』がこの街にどう影響するかを計測し、記録する義務が私にはあるの。……。おかげで、歴史に残る傑作が撮れたわ。特にこの、リリシアが感極まって泣きそうなくらい喜んでいる、聖女らしからぬ蕩けた表情……」
「止めなさい!! 今すぐその魔器を粉粉に破砕しなさい!!」
「……。嫌よ。これは将来の二人の披露宴のために、三重のバックアップを取って厳重に保存しておくわ。タイトルは『聖女、陥ちる』ね」
リリシアが顔を赤くして咲季に飛びかろうとする。和希も慌ててそれを止めるが、その足元からは、照れ隠しの激しさを物語るように、ピーチ色のドロップが溢れ出していた。
「……。……ふふ。……。……まあ、冗談はこれくらいにしておくわ。本当に滑稽ね」
咲季はスマホをポケットに収めると、突然、その冷たい瞳に真剣な輝きを宿らせた。
「……。それより二人とも、浮かれている場合じゃないわよ。……。昨日から、この街がさらに不安定になっているわ。
咲季の言葉に、二人の表情が引き締まる。昨日のあの幸福な時間を喰い破るかのように、新たな影が忍び寄っていた。
「……。咲季、具体的には何が起きているんだ。空に穴でも空いたのか?」
「……。駅前の風景が、時折、見たことのない景色と混ざり合っているらしいわ。……誰かが、この平穏な世界と、別の世界を無理やり繋げようとしている……そんな風に感じるの」
リリシアは胸元のネックレスを守るようにギュッと握りしめた。
昨日、あの宝石店の前で背筋を撫で上げた、氷のような視線――。
漆黒の法衣を纏い、光を吸い込むような深い闇を背ったあの男の影が、脳裏に鮮やかに蘇る。
「……。|カズキ、行こう!。……。……。私の、この世界での『安息』を邪魔する不届き者は、この和希がくれた新しい力で断罪してあげるわ!」
「……。ああ! ……。せっかくの思い出を台無しにされてたまるか。俺たちの安らぎは、俺たちが守る!」
二人は放課後を待たずに、教室を飛び出した。
咲季は、その必死な後ろ姿を、いつものようにスマホのレンズ越しに見つめながら、小さく、だがどこか慈しむように独り言をこぼした。
「……。……頑張りなさい、二人とも。……。この物語りの結末を決めるのは、天の神でも異界の魔王でもなく、今を駆ける貴方たちの青臭い『想い』なんだから」
その視線の先、校門の向こう側には、現実のアスファルトを無残に割って、異世界の禍々しい(まがまがしい)黒い茨が、まるで意志を持つ蛇のように、急激に伸び始めていた。
それは平和な学園を浸食し、二人を深い混沌へと誘おうとしていた。
銀幕の守護者:迫る混沌
校舎を飛び出した二人を待っていたのは、変貌した通学路だった。
青く澄み渡っていたはずの五月の空が、泥を捏ね混ぜたような禍々しい紫色の雲に覆われ始めている。
駅前の|シネコン――二人が昨日のデートの計画で案に出していた場所が、異界の魔力の震源地となっているようだった。
「……見て、和希! 建物の壁に、私のいた世界の碑文が浮かび上がっているわ!」
リリシアが指さした壁面に、毒々しい光を放つ文様が脈打っていた。
通り掛かる人々は、その異変に気づくこともなく、ただ気味の悪い霧に巻かれたように足を止めている。
「……。……昨日のドロップが、俺の手の中で熱くなってる。リリシア、これは君を狙ったんじゃない。この街そのものを生け贄に捧げるための……」
「聖女リリシア……貴方が手にした微かな福音など、深淵の闇の前では無力に等しい」
突然、頭上から響いた声に、和希はリリシアを庇うように前に出た。
シネコンの屋上、巨大な看板の陰から、漆黒の法衣を翻して、あの男――ベルリナの主であり、聖教会の背信者『ゼノス』が舞い降りた。
彼の背後では、映画の|ワンシーンのようにはじけ飛んだ空間から、異界の魔獣たちが這い出そうとしている。
「……。思い出は汚させない。リリシア、行けるか!」
「……当然よ、和希! 私の誇りと、この首元の光にかけて……あの不潔な闇を焼き払ってみせるわ!」
リリシアの胸元でネックレスが激しく拍動し、桃色と黄金の閃光が、混沌の空を裂いた。
(第16話へ続く)