【第10話】虚ろなる聖杖と偽りの福音
「……。ふん。何なの、その死にかけた魚のような目は。昨日の戦いで、脳の数少ない良質な部分まで音喰いに奪われてしまったんじゃないの?」
放課後の部室棟の陰。リリシアは和希の顔を覗き込みながら、心底呆れたように鼻を鳴らした。
和希の手には、先ほど自動販売機で買ったばかりの冷たい缶コーヒーが握られている。しかし、その中身を口に運ぶ気力すら湧かないほど、彼の心は沈んでいた。
「……。いや、別にそういうわけじゃないんだけど。……。……なぁ、リリシア。お前の杖、少し見せてくれないか?」
「……。杖? ……。……嫌よ。聖女の杖は魂の分身。それを安易にジャガイモに触れさせるとか、言語道断だわ」
リリシアは杖を背後に隠し、警戒するように数歩後退した。だが、その一瞬の動きで、和希は確信してしまった。
彼女の手の中で、黄金に輝いているはずの聖杖――その表面に走る亀裂が、昨日よりも深く、黒ずんでいることに。
「……。隠したって無駄だよ。……。昨日の最終の時、俺の『記憶』に一瞬だけ混ざったんだ。……『偽』っていう文字が」
和希の言葉に、リリシアの肩が目に見えて震えた。
「……。……。……。……。……見てしまったのね。……。……。……。……さすがは観察眼だけが無駄に発達した、嫌悪愛好家・ジャガイモね」
リリシアは力なく笑い、隠していた杖を和希の前に差し出した。
間近で見るその惨状に、和希は息を呑んだ。美しい曲線を描いていた杖の頭部は、まるで内側から腐食したかのように煤け、そこから紫色の不気味な煙が、かすかに立ち上がっている。
「……。……。これ、どういうことなんだ? ……。魔族に攻撃された後遺症か?」
「……。いいえ。……。……これは、『供給』の副作用よ。……。……。正確に言えば、私たちが無理やり生み出した、この世界の法則に沿わない魔力の歪み……」
リリシアは虚ろな瞳で杖を見つめた。
「……。本来、聖女の魔法は、神への祈りと大地の祝福によって成し遂げられるもの。……。……なのに、今の私を動かしているのは、貴方という『人間』の熱苦しい情熱と、私の、認めたくない醜い感情…………。……私がつかえる神の居ないこの世界で、私たちは『偽物』の奇跡を繰り返しているに過ぎないの!」
音、とリリシアの足元にドロップが落ちた。しかし、その色はこれまでの鮮やかなピンクではなく、どこか濁った、禍々しい色をしていた。
「……。……供給をすればするほど、魔法を使えば使うほど。……。私の存在そのものが、『偽』へと書き換えられていく。……。……。この杖が砕け散る時、私はきっと……。……。聖女でも何でもない、ただの『化け物』になるのかもしれない……」
自嘲気味に告げるリリシアの言葉が、和希の胸を刃物のように切り裂いた。
彼女を救うために、良かれと思って行ってきた、毎日の供給も。それが結果として彼女の魂を汚し、壊していたという事実。
「……。……。……ごめん。……。俺のせいだ。……。俺が愛好家の知識だけで、無理やりお前をこの世界に……」
「……。謝らないでいいわ、このお節介ジャガイモ。……。……召喚されたのは私の運がなかっただけ。……。それに、貴方の不潔な供給がなければ、私はとっくに塵となって消えていたはず。……。……命を繋いでもらえただけで、感謝してるのよ。」
リリシアは強がって見せるが、その瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「……。ねぇ、二人とも。湿っぽい空気は、再生数が伸びないから止めてくれない?」
咲季が校舎の角から、気まずそうに、しかし普段通りの無表情で現れた。
「咲季……。お前、いつからそこに……」
「……。最初の『偽』の話から。……。……和希くん、謝って済むなら聖女様の苦労はいらないわよ。……。それよりも、見て。空が変だわ」
咲季が指差した先。夕暮れの茜色に染まるはずの空が、不自然なほどに白く、雑音のように明滅していた。
それは、昨日和希が最大供給で放った情報の暴力が、この世界の限界を抉り取った爪痕のようだった。
「……。……結界の綻び。……。私たちの歪みが、この世界の理を侵し始めているのね。……。……このままでは、この学園も……この街|そのものが、影響をうけてしまうわ」
リリシアの声には、底知れない絶望が滲んでいた。
その時だった。
――ガシャン!! ドサリ!!
校舎の屋上から、巨大な「本」が降ってきた。
いや、それは本ではない。和希の部屋にあった軽文学が、魔力の歪みによって実体化し、ビルほどの大きさに膨れ上がった異形の怪物だった。
表紙には、昨夜和希が見た不気味な紫色の文字が、血を流すように刻まれている。
『偽・聖女伝』
「……。なっ……!? ……。俺の、俺の愛読書が……!!」
「……。……。……(馬鹿和希。驚く箇所が違うわよ。……。あれは、私たちの罪そのもの……。……。私が、偽物であることを証明するために現れた災いよ!)」
巨大な本が頁を捲るたびに、周囲の現実が「文字」に変換され、飲み込まれていく。コンクリートの壁が記述に、生徒たちの影が挿絵に。
「……。……。……。……いい。……。これでいいんだわ。……。……偽物は、本の中へ帰るのがお似合いだよね……」
リリシアは杖を握りしめ、自分の体が文字へと崩れ始めるのを受け入れようとしていた。その表情は、どこか穏やかで、しかしあまりにも悲しい決意に満ていた。
「……。……ふざけるな!!」
和希の叫びが、文字化し始めた静寂を突き破った。
彼は走った。崩れゆく現実の中を、転びそうになりながらも、リリシアの元へと。
「……。和希!? ……何を……。……逃げなさい! 貴方まで本の一部になってしまうわ!!」
「……。うるせぇ!! ……。愛好家をなめるなよ!! ……。偽物だろうが、設定が歪んでいようが……。……俺が召喚したのは、お前なんだ!! ……。物語の設定じゃなく、今ここで俺を罵って、俺のご飯を『美味しい』って食べてくれた、お前が本物なんだよ!!」
和希はリリシアの細い肩を力強く掴んだ。
「……。……設定が『偽物』なら、新しく書き換えてやる。……。この世界の法則に合わないなら、この世界|そのものを俺たちの物語に塗り替えてやるんだよ!!」
「……。……。…… バ……。……。……馬鹿和希。……。……。……そんなこと、できるわけ……」
「……。できるさ。……。俺は、この日のために何千冊の本を読んできたと思ってるんだ! ……。……幸福終焉を掴み取る方法は、いつだって『主人公』の無茶苦茶な熱意から始まるって、全ての本に書いてあった!!」
和希はリリシアの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……。リリシア。供給だ。……。……。これまでで一番濃くて、甘酸っぱくて……あいつらの設定なんて全部吹き飛ばすような、俺たちの『真実』を叩き込んでやる!!」
「……。……。……。……。……。……。……ふん。……。……。……。……言いましたわね。……。……。……後悔しても、知らないわよ。……。……。……私の、本当の『想い』……。……全て、貴方の魂に刻み付けてあげるわ!!」
リリシアは自ら、和希の首に手を回した。
二人の唇が、かつてないほど強く、深く重なり合う。
その瞬間、世界から全ての色が消え去った。
――。……。……。
和希の意識が、膨大な「文字」の海に沈んでいく。
だが、その冷たい記述の中で、たった一つだけ、燃えるように熱い「心」があった。
それは、聖女でも、偽物でもない。ただ一人の少女が、自分を見つけてくれた少年に抱いた、あまりにも純粋で、不器用な――。
カラン…… カランカランカランカランカランッ!!
凄まじい衝撃とともに、世界に色が戻った。
和希たちの足元から、もはや「山」などという言葉では済まされない、ドロップの「噴火」が起こった。
ピンク、黄金、そして透明な輝きを放つ無数のドロップが、文字化し始めた校舎を、現実を、そして巨大な「偽の本」を、圧倒的な物量で埋め尽くしていく。
「……!! エターナル・供給・アンリミテッド!!」
リリシアの杖から放たれたのは、もはや「文字」ですらなかった。それは、全ての「設定」を超越した、ただの『光』。
「偽・聖女伝」の怪物が、その光に触れた瞬間、頁の一枚一枚が、幸せな食卓の香りや、騒がしい日常の記憶へと書き換えられ、光の粒子となって霧散していった。
「……。……。……あ……。……。……。……。……」
リリシアは和希の腕の中で、荒い息を吐きながら崩れ落ちた。
彼女の手にあった聖杖は、最早形を留めていなかった。……。しかし、その折れた先端からは、不気味な紫色の煙ではなく、和希の供給によく似た、暖かな黄金の微熱が漂っていた。
「……。和希くん。……。……すごいわ。……。これ、世界で初めての『飴の海に沈む学校』の実写映像よ。……。……。……でも、後で大蔵先生に何て言うか、今のうちに考えておいたほうがいいわね」
咲季が、飴玉の山に腰まで埋まりながら、淡々と告げる。
「……。……。……。……。……ははっ。……。……。…… そん時は、リリシアが『魔法で全部消しました』って言い張れば……」
「……。ふざけないでください、この……。……。この、本物の、お馬鹿。……。……。……。……。……」
リリシアは和希の胸に顔を埋めたまま、小さく呟いた。
その耳は、これまでで一番赤く、そして彼女の体から溢れ続ける飴玉は、夕日を浴びてどこまでも透き通っていた。
歪みは消えたわけではない。杖も折れたままだ。
しかし、和希は確信していた。
この物語の執筆者は、最早運命でも神でもない。
自分たち自身なのだと。
(第11話へ続く)




