22.鏡の向こうへ
「行きましょう、魔王様。」
私は微笑んで魔王の左腕に自分の腕を絡ませた。魔王は何も言わずに空いている右手を鏡の中へ突っ込んだ。鏡はなんの抵抗もなく魔王の手を受け入れた。近くで見ていると、魔王の手首から先が消えたようにしか見えない。キショいという言葉は辛うじて飲み込んだが、腕は離してしまった。
魔王はそのまま鏡なんて見えないかのように一人で前に進んでいく。そして半分体が入った所でこちらを振り返った。半身は怖いって……
「来ないのか?」
不思議そうに言われてもねぇ、私ただの人間だからさぁ……
恐る恐る魔王が差し出した手を取った。そしてエイッと鏡の中に飛び込む。一瞬水の中に入った感触がした後、私の足は知らない絨毯を踏んでいた。もちろん体は濡れていない。
そこは豪華な部屋だった。壁、床、調度品。全てに金がかかっているとわかる。成金ぽいとも言えるかもしれない。そして薄暗い。窓は全て閉め切られていて燭台があちこちに立てられていた。昼間と言っていた気がするが、夜なのかもしれない。
「もし」
魔王の呼びかけに振り返ると、部屋の隅で私と歳が変わらなさそうな女の子が眠っていた。ソファーに腰掛けたまま舟を漕いでいる。彼女が仕立て屋だろうか、まるで貴族のような服を着ているけど。
呼ばれた女の子はぼんやりと目を開けこちらを見た後、弾かれたように立ち上がった。
「すみません! 私寝ちゃって、ようこそおいで下さいました!」
私は思わず彼女に近づいた。
私はこの人を、知っている気がする。
彼女は怪訝な顔で私を見た後、ハッとしたように口を押さえた。彼女も私を知っているらしい。でもどこで出会った? あの村にはこんな綺麗なドレスは存在すらしていなかった。
「あの……」
声を出してみたが続きの言葉はでなかった。明らかに懐かしい顔だ。でも最近会った人じゃない。女の子も私と同じような表情をしている。
「あの、すみません。以前もお会いしてますよね? ごめんなさい、名前が出てこなくって……きっと母のお客様ですよね? あの、私呼んできますね!」
女の子は早口で喋ると止める暇なく部屋から出て行った。
「――知り合いだったのか?」
魔王が怪訝そうに言ったが、なんと返せばいいのかわからなかった。絶対知ってる。でもわからない。子供の時に会ったのか……
部屋の中をぐるぐる動きながら考えていると、長くなると思ったのか魔王はさっきまで女の子が座っていたソファーで頬杖をつきだした。取りに来たはずの服っぽいものは鏡の横に積んである。勝手に取って一人だけ先に戻ることも可能だろうに、それをしないのはやっぱり優しいんだろう。
程なくしてドアがノックされた。返事をすると先程の女の子が神妙な顔で入ってきた。続いて後ろから年配の女性が姿を見せた。歳を取ってはいるが綺麗な人だ。青と紺の一見地味だけど高そうなドレス、きちんと手入れされた肌と髪……
その人が私を見た時、雷に打たれたような気がした。あぁ、私が知っているのはこの人だ。この茶色の目、少し皺が増えているけど、私を、こんなふうに見つめるのは……
「お、お母ちゃ……」
私は口を押さえてその場に崩れ落ちた。母だ。何年も前に消えてしまった、元気だった頃の母が、今も生きてここにいる。どうして……
「はじめましてお嬢さん。顔を上げて下さらない?」
女性は私の前で屈んでそう言った。低く柔らかな声だ。声は母とは違う。
恐る恐る顔を上げると女性は微笑んでいた。よく見れば鼻も口も輪郭も違う。ただ眼差しはそっくりだった。
「あなたは……ピーチの娘ね。」
女性は囁くように言った。
――ピーチ? ピーチって誰だ?
突然出た知らない人名に少し冷静になった。私は咳払いをして立ち上がった。危ない。世界がひっくり返った気分だったけど、そんな訳ない。母は遠の昔に死んだ。
「ピーチという方は知りませんが……二十年ほど前に私とよく似た方がここにいらっしゃったと魔王様から伺っております。仰っているのはその方のことてしょうか?」
「ええ。それはきっとピーチのことで、彼女は私の妹です。そうですか……よく似ていたもので、大変失礼致しました。」
女性は優雅に頭を下げた。連れてきた娘はいつの間にか壁際に立って下を向いていた。まるで使用人のようだ。親子なのに上下関係があるんだ。
「私の名前はアネージョ・クロースと申します。この仕立て屋の主人をしております。」
アネージョ・クロースとは……随分と……フザケた名前に聞こえる。姉だからアネージョ? クロースって布だっけ? まるで……ゲームの脇役に適当につけたみたいな名前だ。
うっかり色々考えて固まっていると、左肩に何かが当たった。見上げると魔王が横に立っていた。
「久しぶりだな御婦人。彼女の名前はオミナ。人間だが訳あって私の所にいる。ここにあるのが今回依頼した服か?」
「えぇ、さようでございます。」
二人が積んである服の山を見ると、娘は音もなくその横に立った。
「その中からオミナ用に頼んだドレスを抜いてくれ。ここで直接体に合わせてやってくれないか。俺は先に他の服を持って帰る。」
「え?」
私の疑問をよそに母娘はテキパキとドレスを一枚抜き出して、また手際よく荷物をまとめなおし始めた。
「あの、魔王様? 一人で帰るんですか? 私を置いて?」
「あぁ。……もし城に戻りたくなったらいつでも鏡を叩くといい。」
そう言って魔王は笑った。……笑った? 笑った!? このヒト、出会ってから初めて笑ったんじゃない!?
びっくりしすぎて私はもう、無言で頷くことしかできなかった。笑うのかー。そっかー。普通の男の子みたいに笑うのかー……
魔王様はその後、荷物を鏡に投げ込んだ後、本当に一人で帰ってしまった。最後に振り向いたりとかはなかった。ふーん、そこはそうなんだー。
ジメッとした気分で鏡を見ていると、誰かが笑った気がした。振り向くとよく似た顔の母娘が私を見ていた。
「始めましょうか」




