19.誘惑
私は庭のベンチで長い時間過ごした。色んなことを考えて考えて、疲れてしまった。
もう終わらせようか。何もかも。
立ち上がって魔王の部屋を目指す。不思議なほど心は静かだった。私はノックもせずに部屋の戸を開けた。
中に入ると魔王はベッドの中で本を読んでいた。私を見ると驚いた顔をして立ち上がろうとしたので、急いで駆け寄ってそれを止めた。
「いいのよ魔王様。そのままでいて。」
魔王は不審な顔をしながら私を見上げた。お優しい魔王様。頭突きされてもあんまり怒ってないみたい。
「……謝罪なら、聞こう。」
そしてこの期に及んでも、私が謝罪するようなまともな人間だと思ってる。
私は魔王のベッドに腰掛け、魔王の唇に手を伸ばした。魔王はちょっと嫌そうな顔をしながらも私の手をどかさなかった。圧倒的な力の差があるからなのか、それとも馬鹿なのか。魔王の唇は温かかった。
「魔王様の唇、柔らかい。」
指で押すとぷにぷにと跳ね返る。さっきは痛いだけだったけどこんなに柔らかいものだったとは。ゆっくりと指先で唇をなぞると、魔王の顔が赤くなった。
「……怪我、なかったですか?」
「…………平気だ。」
魔王の唇が動いたので、指を少し唇の内側へ押し込んでみた。魔王が反射的に顔を背けたので、身体ごとにじり寄って魔王の頬に手を添えてこちらを向かせてみる。魔王の目に欲が見える。私を抱きたくなったんだろう。思わせぶりな態度、思わせぶりなスキンシップ。こんな簡単なことだったのか。魔王だって他の数多の男どもと一緒だ。このまま魔王の胸に身体を預け、潤んだ目で『お願い』すればきっとこの男は堕ちる。あぁなんて、くだらない話だ。
私はゆっくりと魔王の顔に自分の顔を近づけた。今度は痛くないようにしよう。甘く堕落したキスにしよう。悪魔に相応しいような。
唇が重なる寸前、私の体は魔王から引き離された。肩をつかまれて後に押されたらしい。魔王の手は温かくて、それで私の体は随分冷えていたことを知った。
「――おも、思い出したんだ!」
魔王はそう言って私の肩から手を離した。
「きみは俺の好きな人に似てる!」
はぁ?
私はしばらく赤い顔の魔王を見つめた。そこにはさっきあったはずの欲はなかった。
「……どういうこと?」
「つまり、そのっ」
魔王はベッドから出て背中越しにこう言った。「きみとそういう関係にはなれない。」
「……好きな人いないって言ってませんでしたっけ?」
「すまん。忘れてた。」
「……忘れるぐらいの相手ならどうでもいいのでは?」
「うん、でも、きみは駄目だ。思い出すから。」
私の中でドス黒い気持が膨れ上がった。
――殺すぞこの野郎。
今手元にナイフでもあれば間違いなく刺してる。そのあと殺されようとも一度は痛い目にあわさないと気が済まない。私のナイフはどこにいった? 村からこの城に来るまでの途中で落としたんだった。クソが。
「……悪魔のくせに、操を立てるんですか?」
「いやそうじゃない。でもきみはダメだ。」
もう刃物じゃなくて鈍器でもいいかな。本じゃ軽すぎるから椅子にしようか。いや椅子じゃ殴りにくい。ガラスの丈夫な灰皿とかないもんか。
私はゆらりと立ち上がりゆっくり魔王へと近づいた。それだけなのに魔王は狼狽えて後ずさった。私は手ぶらなのに、変なの。
「待て! 期待を持たせたなら悪かった! でもホントに忘れてたんだ!」
なら一生忘れとけよ。もしくは二度と思い出せないようにしてやろうか。
魔王はどんどん後ずさり、ついに壁に背がついた。この忌々しい身長差がなければ壁ドンとかしてるところだが、届かないのでしょうがない。私は振りかぶって魔王のみぞおちに拳を叩きこんだ。 魔王の体が折り曲がって床に沈んだ。
「……次会った時にその好きな人とやらについてくわしーく教えてもらうからさぁ、時系列まとめとけよ?」
私は魔王が無言で何度も頷くのを確認し、そのまま魔王の部屋を出た。廊下で大きな溜息をついていると、キツネがやってきておずおずと言った。
「あの……うちの魔王様、生きてます?」
「知らん」
「精神的な意味で、ですけど……」
「知るか」
「あのもうちょっと大事に扱ってもらえませんか? 王様なんで……」
「うるさい。お前はお前でなに企んでるんだよ?」
指を突きつけるとキツネは目をぱちくりさせた。わざとらしい。
「私に何かをさせたくて色々画策してるんだろ? 白々しいんだよ! 言えよ。なに企んでる?」
「……オミナさんて、人格変わったのかってぐらいコロコロ口調変わりますよね。」
「は? それが何?」
「あなたの方が嘘っぽいってことです。あなたのやる事なす事、ぜーんぶ嘘なんでしょう?」
即座に否定しようとしたが、何かが喉に引っ掛かった。嘘? 本当? でもそれって……
「――だって、この世界が嘘なんでしょう?」
口に出すとなんだか泣きそうになった。キツネは静かに首を振った。
「死ぬまでは、本当です。ここは現実ですよ。あなたにとっては。」




