6-7 世界で一人きりだとしたら
6-7 世界で一人きりだとしたら
「なるわけないじゃない」
いつものつれない返事だった。
「わるいけど私、魔物になってあなたに取り込まれたくはないの」
「なっちまえば楽だぜ。なあ、お前は何も手を汚さなくてもいい。お前が俺の一部、つまり魔物になって血みどろの虐殺タイムは俺の中で眠っていればいい。全部終わったら起こしてやる。そうしたらもう世界には“俺”しかいないんだ。何処に旅行に行きたい? 俺が行ってやるよ。パンケーキだって好きなだけ食えばいい。二人で、いや一人で何でもしようぜ」
「前にも言ったけど」
俺の前にある空になったカップを引き寄せポットを傾ける。ほかほかと立ち昇る湯気が物騒な会話の中で浮いていた。
「世界で一人で生きていく? そんなのできるわけないじゃない。旅行に行くとしても、目的地に向かうまでの電車は誰が運転するのよ? パンケーキは誰が焼くのよ? 私とあなた以外の人間よ。人は一人では生きていけない。ガキみたいなことを真剣に提案してないで憎悪の矛先を考えなさい」
溜め息をついてエレノアはカップを手に立ち上がる。キッチンに向かえば水音がした。俺も立ち上がり目を閉じる。そして目を開ければカップを洗っているエレノアがそこにいた。これくらいの瞬間移動は家の中なら容易だ。
「……憎しみは何も生まない、とは言わねぇんだ」
「生むか生まないかは知らないわ。ただ勝手にしなさいと思っているだけ。馬鹿みたいに人を殺し始めなきゃ自由よ」
蛇口のレバーを下げる。水がついたままのカップを籠に入れ、ワークトップの棚にかけられたタオルで手を拭いた。
「俺は飲んでるんだぜ。お茶会は終わりかよ」
腹いせに家を軋ませる。「それ、今度こそ来客があった時は止めてよね」と溜め息をつかれた。
「ポットにも残ってるし、あなたは飲んでていいわよ。私はもうお腹一杯になったから」
ダイニングテーブルを通り過ごし、エレノアはリビングに置かれた大きな本棚の前に立つ。後を追い、背表紙が敷き詰められたそれの前へ立てばエレノアは細く小さな指で、背表紙の頭に指を引っかけ、本を取り出す。そしてまた先程の席へと戻ってきた。
表紙の絵を覗き込む。子ども向けの絵本だった。
「こういう絵本って何で誰かと誰かが結ばれて終わりなのかしら? 全部が全部じゃないけど」
「あの噓っぱちの絵本も“俺”と何処ぞの姫が結ばれていたな。現実は姫の一人や二人殺しちまったが」
「最低」
エレノアがページを早々と捲る。きっと真剣に目を通しているのではないのだろう。
「わかりやすいからだろ」
ページを捲る手が止まり視線を俺に合わせた。
「“二人は末長く幸せに暮らしました”ってオチだろ? 簡潔な望みだからだ。主人公が愛する人に“選ばれた”。これ以上の幸福があるか」
「他人に選ばれるのが最上の幸福だって?」
「だから早くお前も俺に選ばれちまいなよ。後何回平気だと思ってる?」
「さあ」
「少なくとも前より“お前がわかる”ぜ。そうだな……お前、三歳の頃風船で空を飛びたくて、何個も口で膨らまして親に叱られただろ。人間の呼気で風船は浮かないってのにな」
「一々恥ずかしい過去の過ちを報告しなくていい!」
「心地いいもんだ。お前が俺に溶けて、お前の全てが俺のものになっていく。お前の過去も思考も少しずつ流れ込んでくるんだ。完全に溶けたら、と考えただけでゾクゾクする」
本を閉じエレノアが凄んでみせたがちっとも怖くはない。俺はケラケラと笑いながら天井を見上げた。
俺が力を貸すのは無償ではない。エレノアが一時的にでも俺の封印を緩め、俺に魔法を使われるとこいつの体内の魔力バランスは崩れちまう。するとどうなるか。
簡単なことで力の大きな方に引っ張られる。つまりエレノアは俺に取り込まれてしまうのだ。望まなくとも、この生活が続けばエレノアは“俺”になる。エレノアの過去や思考が手に取るようにわかり、俺のものとなる。ちなみに防犯装置が俺の魔力に対して作動しない真の理由もそれで、エレノアの魔力と溶け込んで、同一のものと判定されているからだ。そしてその手助けをしているのは何もわかっちゃいないフォルセーラ財閥や政府共だ。
なんせエレノアは俺を封印するために魔力の大半を費やしているため、器の魔法使いなのに殆どの魔導書を扱えないのだ。薬局を続ける程度の魔具や魔導書の操作と簡易な魔法、そしてエレノア自身の器の魔法。これだけだ。こいつが使用できる魔法は出来損ないの魔法使い程度で、俺の力を借りなければフォルセーラ財閥が送り込んできた刺客と戦闘になった際に身を守れない。負けても俺が復活して世界を滅ぼす。勝って追い返しても俺の侵食が進み、世界滅亡へと一歩進む。
手詰まりで笑っちまう。エレノアがやっているのはただの。
「悪あがきだな。またあいつらは送って来るぜ。しつこく、お前の命を狙って」
「いい加減止めてもらえないかしらね。あれだけ訴えているのに」
「そもそも公になれやしねぇ俺の復活が土台になってるからな。こっちが証拠を突き出せば部下が勝手に暴走した、証拠がなければ自分達は関係ないで押し通せちまう。まあ、それよりも」
クッキーに手を伸ばす。ゴリゴリと歯で噛み砕けば甘ったるい味が口内を支配し、琥珀色の液体で流し込んだ。好きなものは共有したいと思うが、このクッキーだけは慣れない。エレノア曰く「あなたが甘いの苦手なだけでしょう」だが。
「お前が交渉材料に使っちまうからトドメを刺せないんだ。フィンレーの件だってそうだろ。『ロート・フォルセーラの狼藉を全部バラされたくなかったら、フィンレーを見逃せ。代わりにこちらも何もなかったことにする』と脅すからだ。三十三回だっけ? このパターンはよ」
「嫌な回数だけ何でこんなに覚えているのかしら」
エレノアは本を乱暴に閉じ、溜め息をついた。三十八回中、三十三回はフィンレーと同じだ。何食わぬ顔で薬局を訪れ、エレノアに近づき突如牙を剥く。そうして戦闘になり俺達に負けて追い出され、エレノアの交渉が始まるのだ。
エレノアは厭味ったらしくフォルセーラ財閥を脅迫する。一方で財閥は受け流す振りをして脅迫を受け入れる構図ができ上がっていた。
全て国家機密となっているためエレノアの言うこと、つまり俺の復活に関する事件は基本的に法の裁きを受けられない。エレノアの告発は誰も信じないし、受け入れないのだ。それに「自分の身体には魔王が封印されていて、そのせいで命を狙われている」なんて大真面目に言っても正気を疑われるだけだろう。その代わり、エレノアの脅迫は実質世界が相手だ。俺という爆弾を抱えている人間が本気を出せばどうなるか。火を見るよりも明らかで、だからこそフォルセーラ財閥は“しらばっくれながら”エレノアの要求を受け入れ、そして再び殺害しようとするのだ。
ちなみに残りの五回は事が起こる前に傷害事件として警察沙汰になったものだ。例えば、一年前くらいの遠慮なく柵に火を放った奴。あの程度ならお互いに「こいつはただの物盗りとして裁きましょう」で交渉するまでもなく納得する。全部あれくらいならきっと過去の感情の一部を俺に読み取られる程、エレノアの侵食は進んでいなかっただろうにな。
「どうでもいい奴等にお前が人生をかけた愚かな過ちの回数だ。本当に人間は学習しないな」
だからお縄になった連中も含めて三十八回分の刺客は全員、生存が確定していた。
エレノアは俺を自身とこの家に封印してしまっている弊害で、オルナ町程度の距離、しかも続けては二十四時間しか外出ができなくなっていた。それ以上遠くに長く離れれば、家の方の封印が解けてしまうからだ。だから直接刺客の生死を確認はできないが、それでも万が一エレノアの耳にあいつらの死が入ったなら一大事だ。フォルセーラ財閥の連中も「正体が魔王である人間が森の奥に住んでいた」なんて刺客が主張を繰り返したとしても、誰も信じないだろうという自覚はあった。だから殺さない。エレノアの脅迫に従い、解放する。
「誰も戻ってこないのに。お前よりも大切な物を選んで捨てていくのになぁ」
「……それでいいのよ。そのために“あれだけ献身的な振りをして接している”んだから」
「嘘吐きが。本当の狙いが成功したことあるか?」
「無いから困ってるんじゃない。可笑しいわ」
腕を組んでうんうんと唸る。こいつは馬鹿ではないんだろう。ただ、本当に自分にとって大切な選択でいつも失敗するのだ。
「人間にとって一番魅力的な存在は困難に立ち向かう時に自分に寄り添いつつも、自らの手で選択させてくれる存在。だから私は“精一杯その振り”をして、皆の選択を助けているのに。……まだ人殺しなんて手段を取らずとも人生を続けられると、こんな善人を殺さなくてもいいと暗に教えているのに。なぁんで皆結局私を殺そうとするのかしら」
「自分を善人とか抜かすからだぜ」
刺客は全員、こいつと過ごし命を狙い敗北し、そして憑き物が落ちたような顔をして二度とこの場に戻らない。
おそらくあいつらは善人になったわけでもない。罪を償ったわけでもない。ただ、囚われていたものから解放され、別の選択肢を探し、生きていくようなのだ。
こいつの献身的な態度は偽りであれ打算的であれ、刺客の人生に最終的には大いなる影響を与え、そして好転に向かわせる。五回目の刺客はオルナ町まで伝わってくる程の名医としての道を歩み始めた。十六回目の奴は絵本作家として華々しくデビューを飾り、本屋に行けばその功績が堂々と平積みされている。
だが傍から見ればエレノアの姿はどう映るか。フィンレーの言うとおり、傲慢な魔王でしかない。人生を導く、選択を助けるなんて聞こえの良い言葉だが一歩間違えれば誘導と強制だ。親が子に対し「家業を継げ。お前にはそれしかない」と他の選択肢を与えないのと近しい。相手の人生をコントロールしているように感じ取られてしまう。どうもエレノアはその加減がとことん下手糞で、そして理解できていないようなのだ。
「フィンレーがやり過ぎて怖がっていたから少しだけお節介を控えようとは思うわ。もう少し見抜いていない振りをしないと。でも方向性は間違っていないはず。人に変わってもらうにはそれくらい真剣に挑まないと……」
──ま。指摘してやるつもりは毛頭ないが。
俺としてはエレノアがそのまま、愚かでいてくれる方が助かる。侵食は進み、エレノアは俺の一部となる。だから何も言わない。愚かで傲慢でそれでも他者を“無償で”救い続けてしまう可愛らしい恋人予定を地獄の底なし沼に沈み切らせようと見守り続けるだけだ。
「私の目論見では、助けた後に戻ってきてくれるはずなのになぁ。『今度は自分が君を助ける番だ』って。信頼を築きたいのに、どうも上手くいかない」
「言ったろ。人間ってのは薄情なんだって。他力本願は止めるんだな」
「誰のせいで他力本願しなきゃならないと思ってるのよ。この場から殆ど動けず、魔法だって使えない。だったらできるだけ侵食を抑えながら、誰かの助けを待つのを選ぶしかないじゃない」
「選ぶのが嫌いと抜かしてたのは何処のどいつだろうなぁ!」
「嫌いよ! それをやる羽目になったあなたが特に!」
興奮し机を手の平で叩き、そのまま呻きながらもう片方の手でそれを押さえる。痛かったらしい。何をやってるんだか。
ここに共に住むことになって数カ月。エレノアはあらゆる手段を用いて情報を集め、俺をどうにかしようと行動した。だが、こんな場所に張りつけられた奴ができることなど高が知れている。あっという間に袋小路に追い詰められたエレノアは方向転換を迫られた。
要は、自分以外の誰かに助けてもらう。協力者を作ろうとした。協力者の条件は簡単で“ある程度実力があり、御伽噺のような現実に気づき、本気で受け止めてくれる酔狂な奴”──だからこそエレノアの命を狙うんだが──つまりここにやって来る刺客だ。だからエレノアは何かと訳ありで自分の命を狙う奴にとことん優しくした。罪悪感を覚え撤退してもらおうと、更にできれば協力してもらおうと必死で演技をし続けたのだ。
まあ、それが恐ろしくエレノアが魔王であると“荒唐無稽な真実”を信じてしまう最後の引き金となっているのだが、とにかく。
「人間、助けて優越感に浸れそうな奴、あるいは見返りがありそうな奴しか助けないからな。お前の演技の方向性は正解だろう」
嘘を吐けばエレノアは訝しげに眉根を寄せた。
穏便に自分の殺害を諦めてもらう。それが今でも第一目的でこいつは“健気で優しく慈悲深い人間”の演技を打算で続ける。だが第二目的として四回目の戦いから自分に恩を感じた刺客が協力者になるのも加えられた。言葉で説明したところで荒唐無稽な事実を信じはしまい。だから自分が魔王ではないが、それが原因でこんなことになっているのを実感してもらった後に相手から手を差し伸べられるのを待つしかない。思わず助けたくなる人物像に恩を付け加えれば、協力してもらえるとエレノアは考えたのだ。
それを三十三回、正確には三十三回とそこに至る前に解決した五回を三年間で繰り返した。結果は今の俺達の在り方が全てだった。
刺客共は皆、新しい人生を選び幸福になった。一方でエレノアは誰からも選ばれず、ただ俺の夢へと一直線に転がり続けている。
「だが、それ以上に恩知らずが多かったってことだ。そもそもエレノアと俺の関係に最後まで気づかなかった奴もいたじゃねぇか」
「だから自分から言わないのよ。仮にも国家機密だし、知らないならそのままでいた方がいいわ」
「助けてもらおうとしているのに、自分から確率を減らして何やってんだか」
「……私が欲しいのは全部を理解した上で協力してくれる余裕のある人間よ」
そんな余裕のある奴が人殺しの依頼なんて受けるわけねぇだろ。
「全てを救ってもらおうとなんて厚かましい考えじゃない。ただ、私一人では何とかできないから手を貸してもらいたいの」
「その手を選りすぐってる場合かって言ってんだよ」
“健気で優しく慈悲深い人間”を演じているエレノアは相手の現状を考慮する。例えば刺客に別の何か大切なものがあれば、事情を打ち明け協力を求めようとしないのだ。相手の余力を考え、選別している。自分から言い出さないのはそのためだ。こいつは自分の作り出した性格で自分の未来を閉ざしている。あくまでも相手の選択に身を委ねているのだ。
完全に余裕のある、何も大切なものがない人間なんていない。皆様々なものを抱えていてそれでも“大切な者”のために時間と労力を割く。そして一方は相手を信じて己の都合を通そうと頼むのだ。その結果、救いの手が差し伸べられる時もあれば、断られることもあるのが人の営みだ。
……いいや、違うな。こいつは。相手の都合を考えているんじゃない。
エレノアはどうも“他人に自分が選ばれないのが当たり前”だと信じ込んでいる。この生活を送る前からずっと。だから先に相手をエレノアから選別する。お膳立てして自分が選ばれる土台を作ろうと画策するのだ。異様な甲斐甲斐しさはその表れだった。いや、信じ込んでいるというより選ばれないことに──
馬鹿野郎。俺は肩を竦め残っていた紅茶を飲み干した。苦みが口内に残る。俺の思い描いた未来にとっては最高の道筋なはずなのに、腹の底にもやもやとしたものが沈殿した。
相手を選んでいるのではなく、要はこいつは相手に選ばれないのが。
「ビビッて他人の選択肢から逃げるからこうなるんだ。だから負けるんだお前は」




